紅葉の頃 思うこと
季節のこと
2013年11月30日
京都の紅葉は、今が見頃のようです。「しののめ寺町」でも紅葉の名所からお帰りのお客様が、口々にその美しさを話してくださいます。嵐山、詩仙堂、実相院…、それぞれの光景を思い浮かべ、パッチワークのようにはぎ合わせて、紅葉スポットを巡った気分を味わわせていただいています。
最近では昼間のみならず、夜、ライトアップされた紅葉を愛でることができるようで、たいそうな人出とか。春、ぼんぼりの下での夜桜見物はいにしえからの風物詩ですが、夜紅葉見物はいつから定着したのでしょうか。観光都市、京都ならではの風習なのでしょうか…。
夜は暗いもの、日が暮れれば木々は闇の中で眠るもの、そう思う私はどうも馴染めずにいます。夜まで煌々と照明に照らされ、人の視線と嬌声に晒される木々が気の毒に思えてなりません。
美貌と才能に恵まれたばかりに、どんなに疲れていても舞台に立つことを運命付けられた女優さんのよう。美しいけれど、痛々しくて見るのが辛い。
そんなわけで、紅葉のライトアップは未だに出かけたことがない私…、やっぱりちょっと変わっているのかもしれません。(笑)
京都市民がこんなことを書くなんて、とお叱りを受けそうですが、あくまでも個人の感想ですので、なにとぞ寛大な対応をお願いします。m(__)m
ところで今年の紅葉は夏の猛暑の影響で、色づきがいまいちとか。あの暑さには人間だって参ったものです。髪や肌の傷みに、秋になって大慌てでメンテナンスするも、年ごとの衰えは隠せません。
空に向かって立つ木々は、それこそまともにダメージを受けたことでしょう。それでも秋にはこうして自力で身を美しく装うのですから、そのうえ年ごとに風格を増すのですから、樹木はやっぱり大したものです。紅葉の色づきを云々するのは失礼に思えます。
どうも人間よりも樹木寄りの私、きっと前世は樹木だったんじゃないかと思っています。(笑)
自宅近くの京都府立植物園の北側、北山通りの街路樹の銀杏もきれいに色づいています。華やかなものが苦手な私は、燃え立つようなまっ赤な紅葉より、黄葉の方が好き。陽を浴びて黄金色(こがねいろ)に輝く銀杏は本当に美しいと思います。
私の前世が樹木で間違いないなら、きっともみじではなく銀杏だと思います。(笑)
紅葉スポットに出かけなくても、こうした街中の街路樹を眺めているだけで秋を満喫できるものです。忙しくて出かけられずにいる自分への言い訳、でもありますが。
それにしても…、あまりに美しいものを見ると哀しくなるのは私だけでしょうか。そんなことを思う紅葉の頃です。
イリーナ・メジューエワさんのこと
アートなこと
2013年11月24日
先日、イリーナ・メジューエワさんのピアノ・リサイタルに出かけてきました。京都在住のロシアのピアニストです。
「しののめ寺町」開店当初から、日本人のご主人様と共にご贔屓いただいている大切なお客様です。陶器の人形のように美しく、初めてご来店くださった時、見とれてしまったのを覚えています。しばらくして新聞記事で有名なピアニストと知った次第、ふだんはとても控え目な方です。
初めて出かけるイリーナさんのリサイタル、どんな姿でどんな音色を奏でられるのか、とても楽しみに登場を待ちました。フランス人形のようなドレスを想像していたのですが、現れたのは流れるようなシルエットの黒いシンプルなドレス姿。意外でしたが、むしろイリーナさんの素の美しさを引き立てていて素敵でした。そして演奏開始…、
驚いてしまいました。
素人にも一目瞭然の技術の高さ、華奢な体のどこにこんなパワーが秘められているのかと思う力強さ、ほとばしる熱情…。そこにいるのは、店で会うイリーナさんとは違う、ピアニスト、イリーナ・メジューエワ。一人の芸術家でした。
感動しながら、不思議な感覚も味わっていました。音楽の素養のない私、もともとクラッシックに興味があったわけではありません。そんな私が、今ここにいて、目にしている光景、耳にしている音、感じている思い…。これらは「しののめ寺町」がなければ、そこでのイリーナさんとの出会いがなければ、生まれなかったものだなぁと。
これからもイリーナさんのピアノ・リサイタルがあれば出かけていくでしょう。ひとつ、新しい扉が開いた気がしました。
人は意識の底に、その何倍もの無意識を抱えていると言われています。自分で「私はこれが好き」って思っていることは、実はほんの一部で、気づいていない「好き」、残念にも気づかないまま終わってしまう「好き」を、人はたくさん抱えているのかもしれません。ゆらゆらと起こされ、目覚めの時を待っているたくさんの「好き」が、心の底深くにまだたくさん眠っている。イリーナさんの演奏を聴きながら、そんなことを思いました。
「しののめ寺町」でのさまざまな方との出会いに感謝し、そこから生まれる「好き」を見逃さず、大切に育んでいきたいと思います。「好き」が多ければ多いほど、人生は楽しくなるはずですから。
感動した私、リサイタル終了後、CDを購入してサイン会の列に並んでしまいました。私に気付いたイリーナさん、とても恐縮した様子でした。翌日、さっそくご来店いただいたのには、今度は私の方が恐縮してしまいました。日本人顔負けの律義さです。(笑)
感動を伝えると、消え入りそうな声で「恥ずかしい…」と言って、ご主人の後ろに隠れんばかりに…。舞台上のイリーナさんはもちろん素敵だけれど、いつものイリーナさんもまた素敵で、なんだかホッとしました。
私の中の「好き」をひとつ目覚めさせてくださったイリーナさんに、心から感謝です。
メレンゲ妃
店のこと
2013年11月14日
【山椒メレンゲ】もう召し上がっていただいたでしょうか。
今年3月の一周年企画を考えるなかで思いついたのが、じゃこ山椒にちなんで山椒風味のオリジナル菓子をプレゼントしては、ということでした。ご近所の洋菓子店「シェ・ラ・メール」さんに相談したところ、快く引き受けてくださり、誕生したのが【山椒メレンゲ】です。とても好評で、引き続き販売することになった次第です。
いわば、フランスの「シェ・ラ・メール」家から、日本の「しののめ寺町」に国境を越えてお嫁に来てくれたようなもの。この【メレンゲ妃】、色の白さといい、フォルムの可愛らしさといい、地味ぃ~なじゃこ山椒と塩昆布に花を添えてくれています。よく出来たお嫁ちゃんだなぁと、いつも惚れ惚れ眺め、大切に扱っている私です。
それにしても、うちでお菓子を販売するなんて思ってもいないことでした。「シェ・ラ・メール」さんにしても、たくさんの商品を作ってこられたお店ですが、うちの依頼がなかったら山椒風味のメレンゲ菓子は生まれなかったのではないでしょうか。まさにコラボならではの商品です。
この【山椒メレンゲ】ますます好評で、「シェ・ラ・メール」さんにも問い合わせが多く寄せられているようです。いっそ「シェ・ラ・メール」さんで販売してはという声もあるとか。けれど「『しののめ寺町』さんで販売している限り、うちでは売らへん」と言ってくださっています。「それが商売の筋というもの!」と。まるでお嫁に出した娘さんのよう。まさに【メレンゲ妃】です。
ありがたくて「シェ・ラ・メール」さんには足を向けて寝られません(笑)。改めまして、この場を借りてお礼申し上げます。
心を開いて飛び出していくと、その先にこんなにも素敵な出会いが待っていて、そうしてこんなにも素敵な新しいものが生まれる…。【山椒メレンゲ】を眺めながら、改めてなんて素晴らしいことだろうと思うこのごろです。
これからも、まだまだ新しいものが生まれていきそうな予感がしています。「しののめ寺町」にも、そして私にも…。末永く見守っていてくださるよう、今後ともよろしくお願いします
志村ふくみさんの言葉
素敵な女性
2013年10月29日
先日、胸に迫る文章に出会いました。インターネットを通じて配信された貴重な情報を、知り合いの方が届けてくださったものです。少し長いのですが、引用させていただきます。
『人生は織物のようなもの』
志村ふくみ 染色家で紬織の人間国宝
「致知」2013年11月号 特集「道を深める」より
自分の色というものは、
たった一つしかないのかもしれません。
それを求めてもらいたいと思いますね。
一つしかない色だけれど、喜びや悲しみなど様々な感情、
刺激によって輝いていく。
その色に出逢うための人生じゃないですか。
それと同じように、
人の人生も織物のようなものだと思うんです。
経(たて)糸はもうすでに敷かれていて
変えることはできません。
人間で言えば先天性のもので、
生まれた所も生きる定めも、
全部自分ではどうすることもできない。
ただ、その経糸の中に陰陽があるんです。
何事もそうですが、織にも、
浮かぶものと沈むものがあるわけです。
要するに綾ですが、これがなかったら織物はできない。
上がってくるのと下がってくるのが
一本おきになっているのが織物の組織です。
そこへ緯(よこ)糸がシュッと入ると、
経糸の一本一本を潜り抜けて、トン、と織れる。
私たちの人生もこのとおりだと思うんです。
いろんな人と接する、事件が起きる、何かを感じる。
でも最後は必ず、トン、とやって一日が終わり、朝が来る。
そしてまた夜が来て、トン、とやって次の日が来る。
これをいいかげんにトン、トン、と織っていたら、
当然いいかげんな織物ができる。
だから一つひとつ真心を込めて織らなくちゃいけない。
きょうの一織り一織りは
次の色にかかっているんです。
出典 致知出版社 「人間力 メルマガ」
どこにも無駄のない言葉が綴られていて、何度読み返しても心に響きます。なかでも胸打たれたのが下記のくだりです。
経(たて)糸はもうすでに敷かれていて
変えることはできません。
人間で言えば先天性のもので、
生まれた所も生きる定めも、
全部自分ではどうすることもできない。
宿命、あるいは宿業、宿縁といったものでしょうか。確かに自分ではどうすることもできないのですが、さりとて受け入れ難く、抗ったり、時に恨んだりしがちです。自分がああだったら、ああなれたのに。こうだったら、こうはならなかったのに、なんて。
けれど、人生ってここを受容することからしか始まらないのかもしれません。いいものも悪いものも、すべては天からの賜りものと思って。そう思うのは相当難しいことですが。
織り機にピンと張られて整然と並ぶ経糸は、どこか潔く、それだけで美を感じさせます。まさに天からの賜りもの。緯糸を通していくのは自分の手です。経糸を生かすも殺すも緯糸次第、そう思うと可能性は無限大です。
自分の色がどんな色なのか、まだわかりません。真心込めて織るうちに自ずと浮かび上がってくるはず。そう信じて、今日の一織り、明日の一織り、丁寧に織っていきたいと思います。これからの人生、まだまだ楽しみです。
マーク・ロスコの闇
アートなこと
2013年10月15日
すっかり陽が短くなってきました。6時に店を閉め、帰る頃にはもう真っ暗です。秋の始め、うす暗がりのなか一人歩く道は、とてもさみしいものでした。いっそ真っ暗になると諦めがつくのか、さみしさにも慣れてきました。
前回のブログ「ポテトなじかん」で、私はセンター向きじゃないと書きました。それと関連して、私は陽の当たる場所向きじゃないなぁ、と思うこのごろです。
ブログ「イサム・ノグチの輪っ!」で書きましたが、近代アートというのか前衛アートというのかそういうのが好きで、絵画ではマーク・ロスコが好きです。
マーク・ロスコと聞いて「?」と思われ方が多いでしょうか。ご存知の方はご存知の方で、違った意味で「?」と思われるかもしれません。絵の具を塗りたくっただけのような、しかも黒が多くて、とても暗い絵を描く画家です。
数年前、滋賀の美術館で彼の絵を観た時のこと…。黒い絵の具の部分を見ていて、見入ってしまい、ぐいぐい引き込まれ、引き込まれ引き込まれ、そうして突き抜けて、パーンと解放されるような、そんな感覚に陥りました。不思議な感覚でしたが、とても爽快だったことを覚えています。
戒壇巡りというのをご存知でしょうか? お寺の床下を巡るもので真の闇を体験できます。時々やっている寺院があり、清水寺で体験した時は、観光地のこと前後に人の気配があり、アトラクション気分でした。滋賀の木之本地蔵院というお寺では、全くの一人でしたので、それはそれは怖かったです。ならば、しなければいいのですが、なんか好きなんです。(笑)
原始以来、人間は闇は怖いものなのでしょう。真の闇は怖いものですが、真の闇に至るまでには様々なうす闇があり、それぞれに趣が変わるように思います。
マーク・ロスコの描く黒はやはり闇を連想させます。ただ、暗いけれどほの明るい。なにか温かみが感じられ、ゆっくりなら進んでいけそうな気配。かすかに希望を包み込んでいて、どこかにつながっていると思わせる闇…。私のまったくの主観ですが。 引き込まれたのは、そのせいだったのでしょう。
陽の当たる場所を全力で颯爽と駆け抜けるのは素敵なことですが、私には晴れがまし過ぎて、とても出来そうにありません。
うす闇で全力疾走は難しく、自然と歩みは遅くなります。うす闇に目が慣れてくると、いろいろなものが見え出すことがあります。陽の当たる場所に慣れた目では見えなかったものが。そうしたものを見つけながら、ゆっくり歩いていくのが、私には向いているように思います。
それでも、やっぱり闇は不安で怖くて、さみしいものです。「この道でいいんだよ」と、足元にそっと明かりを差し出してくれる手が欲しいと思うことも。
そんなあれこれを思いながら、秋が深まっていきます。