オードリー・ヘップバーン
素敵な女性
2022年07月14日

先月のことになりますが、映画「オードリー・ヘプバーン」を観てきました。
女優オードリー・ヘプバーンといえば、数ある出演作の中でも「ローマの休日」がやはり代表作でしょうか。画面から溢れる気品と美しさ、そして茶目っ気ある可愛らしさと愁い…。
皆様のなかにも、ファンだと仰る方が多いことと思います。
5年前、友人のジャズライブに出かけた際、「ムーンリバー」を歌ってくれたことがあります。映画「ティファニーで朝食を」の中の名場面。オードリーが窓辺でギターを弾きながら歌った曲です。
友人が歌う前に歌詞の意味を語ってくれたのですが、軽やかなメロディーとは裏腹に、壮大でとても意味深いものでした。この曲を歌う時のオードリーの愁いある表情を思い浮かべつつ、その時期の自分の思いと相まって、とても印象深かったことを覚えています。(ブログムーンリバー)。
今回の作品は、彼女の近しい人達の証言や、本人のインタビューを交え、生い立ちから最期までを、様々な角度から迫ったドキュメンタリー映画とのこと。
女優としてだけでなく、時々、耳にする彼女の人としてのエピソードにかねてよりとても興味があった私は、是非にと出かけて行った次第です。
完璧とも思える美しさと魅力を持ちながら、彼女はなんと、自分は欠陥のある人間だと思っていたらしく。しかもあんなに世界中から愛されながら、愛に飢え、愛を渇望していたという…。その事実がまず衝撃でした。
その源泉はやはり生い立ちにあるのでしょう。幼い頃、父親に愛されたいと願いながら叶わず。父親は家族を捨てて家を出てしまいます。あまりに悲しい出来事が欠落感となって、のちのちまで彼女を苦しめることになる…。
オードリーほどの人をもってしてもこれだけ苦しむとは、トラウマというものの根深さを思わずにはいられません。
戦争も彼女の人生に大きな影を落とします。バレリーナになりたいという夢は、栄養失調で衰えた体と、練習のブランクのため、絶たれることに。それでも踊っているだけで幸せという思いで、ミュージカルなどの舞台に立ちます。
そうした姿が見出され、「ローマの休日」の大抜擢。アカデミー賞受賞…。その後の活躍はここに書くまでもありません。
先の「ムーンリバー」のシーンは、当初、カットされる予定が、オードリーの強い反対で残されたというエピソードも紹介されます。演技のみならず、その優れた感性と意志の強さにも驚きました。
こうして女優として花開かせつつ、二度の結婚と離婚を繰り返します。子供時代に満たされなかった、愛されたいという切なる願いは、残念ながら結婚生活の中でも叶わなかったようです。
傷心のせいでしょうか、その後、映画界から遠ざかりますが、そんななかユニセフの親善大使を務めることに。
彼女自身、戦争中、ユニセフからの食糧支援で救われたことに大きな恩義を感じていたようです。悲惨な状況に置かれた子供たちは自分と重なる存在だったのでしょう。
それまで女優としての名声を実感しておらず、インタビューなども苦手だったというオードリー。それがユニセフの親善大使として、なにかを語るたびに多額の寄付が集まるという事実に、彼女は大きく変わっていきます。
子供たちのためならと、自らその名声を利用することを決意し、意欲的にマスコミに露出するように。そして、まわりの心配をよそに何度も紛争地域に赴きます。
痩せこけた幼い子供たちを抱きしめる姿は、本当に慈悲深く、溢れる愛が見えるよう。人生の集大成として、この活動に出会い、生涯を捧げられることに、大きな喜びを感じている様子がひしひしと伝わってきました。
そうしたなか、結婚はしなかったものの心から信頼できるパートナーにめぐり逢い、欠陥があると思っていた自分を好きになれたとのこと。
最後の最後、トラウマから解放され、本当の自分に出会えたということでしょうか。真剣に生きた人だけが辿り着ける境地なのではないかと思います。
父親の裏切り、戦争、挫折、成功の裏の孤独、愛の枯渇…。苦難の多い人生を振り返り、彼女が語ります。
「経験した苦しみを、のちに、自分の助けにできた」。
経験した苦しみのすべてを糧として、求めてやまなかった愛を与える愛に変換し、自分の人生を能動的に生きたひとだったのだなぁと思います。
6年前のブログで、美しさは経験なんじゃないかと書いたことがあります(ブログ美しいということ)。当時、フィギュアスケート選手だった浅田真央ちゃんの、無垢な少女から、苦悩を知る大人の女性になった姿に感動して書いたものです。
今回の映画を観て、改めて思いました。美しいということは、経験すること。その経験をどう生かしていくかということ。
63歳で生涯を終えたオードリー。短くも美し過ぎる人生に、終始、涙が溢れた映画でした。
さて、私はどう生きていこう…。
やってみはったら!
素敵な女性
2022年05月11日

先日、素敵な本に出会いしました。タイトルは「やってみはったら!」。著者は京都と東京でカフェを経営する料理研究家の平野顕子さんです。
カフェの一店、アップルパイで有名な「松之助」様には開店当初より、ご贔屓いただいておりまして。早速ホームページを拝見すると、オーナーである平野顕子さんの略歴が書かれていました。
専業主婦から、45歳で離婚、47歳で単身アメリカ留学、帰国後は製菓教室とカフェの経営…。
かねてよりどんな方なんだろうと思っていたところ、新聞で新著の発売を知りました。しかも経歴は更新され、60代からニューヨークでの再婚ライフを満喫されているとのこと。さらに驚いた次第です。
記事によると、平野さんは安定した暮らしを手放してでも「自分らしく生きたい」との思いを持ち続けておられたそうです。
「自分らしく生きたい」というのは、ひととして究極の願いなのではないか。そして、それがとりもなおさず究極の幸せなのではないか。
それは年齢を重ねるごとに私自身が痛感し、願ってやまないことです。
私のみならず、平野さんのような生き方に共感する方は多いかと思います。カッコいいと憧れを感じるのは簡単なことですが、その思いを貫き、実践するのは並大抵のことではありません。
平野さんはどうやって現実のものとされたのか、とても興味があり、すぐさま購入した次第です。
冒頭、最初の結婚の折にお母様から伝授された言葉を紹介されています。
「人には添ってみよ」
大切にしてこられたその言葉を、「縁に添って生きていきなさい」と解釈された平野さん。
結婚に限らず、出会った人も、出合ったモノもコトも、味わった感情ですら、自分を導いてくれる縁。そのひとつひとつに丁寧に向き合うこと。
その縁あるものとの関係を一歩先に進めていくためのエールが、タイトルの「やってみはったら!」なのだとか。
味わった感情も縁と捉える考えは、初めて聞くことで、とても新鮮でした。確かにそれは自分自身との出会い。なににも増して大切な縁かもしれません。大きなヒントをいただいた気がしました。
アメリカで留学中の壮絶な孤独の中で、じっくりと自分と向き合い、人に倣った生き方にgood bye。一人で生きていくことを決心し、自分の意志で歩み始めました。
胸に迫る一節です。
こうした日々があってこそ、一主婦からビジネスで成功を収めるセカンドライフ。新たなパートナーを得て愛を育むサードライフへと、未来が開けていかれたのでしょう。
苦難に堪え、覚悟を決めた人にだけ与えられる、神様からのお計らいに思えてなりません。
平野さんのように、自分らしく生きるための、その一歩を踏み出せる人。踏み出せずに終わる人…。
それぞれの環境もあるでしょう。その人の持つ資質もあるでしょう。ともあれ、決めるのは自分自身。その責任を負うのもまた自分自身。人生は誰のせいでもない、自分で描いていくもの。
この著書を読むと、そう思わずにはいられません。言い訳なんかしている場合じゃない。
店も人生も、日々、大小さまざまな選択の連続です。迷うこと、時に途方に暮れることも。そんな時、まずは自分の中に芽生える感情を見逃さず、大切な縁として尊重し、従ってみる。
やってみたいけれど、自分には無理なんじゃないか…。
「やってみはったら!」
やってみたいけれど、人からなんと思われるかなぁ…。
「やってみはったら!」
背中をポンと押してくれるおまじないの言葉みたい。軽やかに一歩を踏み出せそうな気がします。
実は「迷った時は、GO!」が、かねてよりの私の合言葉でした。同じような意味かと思いますが、断然「やってみはったら!」の方がいいですね。やっぱり私には、英語よりも京都弁の方が身に馴染みます(笑)。
11年目のこれからは「やってみはったら!」精神で進んでいきたいと思います。引き続きよろしくお願いします。
倚りかからず
素敵な女性
2022年03月07日

茨木のり子さんという詩人をご存知でしょうか? 名前はご存じなくても、こんな一節を聞かれたことがあるかもしれません。
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ
彼女の代表作と言っていい詩の一節です。
このブログでもずいぶん以前に書いた記憶があります。調べてみると2012年4月。開店の一ヶ月後でした(ブログ自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ)。その三日後、立て続けにもう一つ(ブログ廃屋)。
いずれも心をえぐるような、容赦ない言葉が並ぶ詩です。
激変した生活のなか、戸惑う自分に喝を入れるために書いていたんだなぁと思います。折に触れては思い出し、自分への戒めとしてきた2編です。
先日、たまたまつけたテレビで、彼女の特集番組を見る機会がありました。なんでも長引くコロナ禍のなか、今また注目が集まっているのだとか。
一寸の揺るぎもない彼女の言葉は、混沌の時代を生きる私たちに、一つの指標となるのかもしれません。
番組は、その一寸の揺るぎもない言葉が生まれた背景を伝えていて、とても興味深いものでした。
大正15年生まれの茨木のり子さん。若き日に戦争を体験。いともたやすく軍国少女となってしまうも、19歳で終戦。信じていたはずの価値が、あっけなくひっくり返るのを、多感な年代に目の当たりにすることに…。
その体験が、なにものにも翻弄されることなく、自分の感性を信じ、個として生きる決意を打ち立てさせたようです。
綴られる厳しい言葉は、実は自分自身に向けられたものとのこと。だからこそ、読んだ誰もが我がこととして向き合えるのでしょう。
コロナ禍に限らず、さまざま生きにくさを感じることの多い現代。彼女の詩がまた注目を浴びるのは、いつの時代も抱える課題は普遍、ということなのかもしれません。
番組内で「倚(よ)りかからず」という詩が紹介されていました。茨木のり子さん、73歳の時の作品です。
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
無駄な言葉が微塵もない、なんと潔い詩でしょう。縮み上がるばかりで、私なぞは到底この域に至ることはできないと思います。
ただ、私もそこそこ長く生きてきて。少しは経験を積んできて。最近、気づいたことがあります。それは…。
答えは自分の中にある、ということ。
なにが正しくて、なにが間違っているか。判断してくれるものが欲しくて、ずいぶんあちこち探し回ったけれど、そんなものは、どこにも見つからなくて。よくよく見たら、はじめから自分の中に用意されていたじゃないか、みたいな。
自分の目と耳を信じ、自分の足で立ち、なにものにも倚りかからずに生きていく。とても、とても、困難なことだけれど、そんな私でありたいな。
助け合ったり、寄り添ったり、そういうことは素敵だけれど、倚りかかるのはよくないな。
私が倚りかかっていいものがあるとしたら…。自宅で過ごす休日の昼下がり、突っ伏してうたた寝してしまうダイニングテーブルくらいかな(笑)。
そんなことを思うこのごろです。
卵を割らなければ、オムレツは食べられない
素敵な女性
2021年09月09日

先月のこと、行きつけの美容院で雑誌を読んでいて、あるページに書かれた文字に目が留まりました。
卵を割らなければ、オムレツは食べられない
女優の岸惠子さんが最近、自伝を出版されたようで、それはそのタイトルでした。
見た目の美しさはもとより、ご自分の言葉ではっきりとものを仰るところが素敵だなぁと、かねてより敬愛していた女優さんです。
その岸惠子さんが自伝のタイトルに選ばれたこの言葉。フランスの格言とのこと。フランス人はこうした例えまでお洒落なんだなぁと感心しつつ、その意味するところの厳しさに衝撃を受けてしまいました。
これって、まさに今の私に必要な言葉じゃないか…。
不思議なことに、必要な時に、必要な言葉に出逢う。それも本を通して…。ということが私にはよくあります。このブログでもずいぶんたくさん書いてきました。(ブログ画家 堀文子さんのこと ブログ自分の中に毒を持て…)
この言葉もまたそうした出逢いに思えてならず、早速、本を購入しました。
割れた鏡に映るような、美しくも険しい表情の著者の写真。そこに添えられた、卵を割らなければ、オムレツは食べられない という言葉。
なにか挑発されているみたいな緊張感の漂う表紙です。これは腰を据えて一気に読みたいと思い、しばしお預けに。先だっての夏休みに読み上げることができました。
類まれな美貌と才能、際立つ個性。戦争体験はじめ、いくたの危機を果敢に乗り越えてこられた精神力と行動力。いったい何人分かと思うくらい波乱万丈の人生です。
私などには想像もつかないことですが、それでも想像するに…。その原動力となったのは覚悟だったのではないでしょうか。覚悟の決まった人の持つ、揺るぎない強さが、全編に貫かれているように思いました。
実はその時、私は覚悟が定まらないまま、ちょっと混乱の中にいました。
岸惠子さんはどうして、かくも強い覚悟を決めてこられたのか。興味深く読みながら感じたのは、どのページにも溢れる自信でした。
日本人にありがちな無用な謙遜など一切せず、ご自身を常に正当に評価されています。気持ちいいくらいに。自分の力を信じられる人が、覚悟を決められる…。
私が覚悟を決められないわけがわかりました。私は、ずっと自分を信じられずにいました。いつも心をかすめるのは、自分はダメなんじゃないか、おかしいんじゃないか、そんな自信のないことばかり。これでは覚悟を決められるはずがありません。
私は自分で作ったオムレツを食べてみたいと思っています。不格好でも、たどたどしくても、ほかの誰でもない、自分で作ったオムレツを食べてみたい。
そのためにはまず自分を信じなければいけないと気づかされました。ちょっと妙ちくりんな私だけれど、そんな自分を信じられた時に、初めて卵を割る勇気が湧いてくるのだと。
卵を割らなければ、オムレツは食べられない
最初にこの言葉を見た時、「おまえに覚悟はあるか?」と問われた気がしました。鋭いなにかを突き付けられたような迫力で。読み終えて、まさに核心を突かれていたんだと驚いています。
覚悟が決まったのかどうか、まだまだ危なっかしいところですが、混乱からは抜け出せたもよう。ちょっと新境地の気分も…。
はてさて、この先の人生、店作りにどう反映していきますか。これまで同様おおらかに見守ってくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
今の私に必要な言葉をもたらしてくれた今回の一冊。著者の岸惠子さんに心から感謝です。
やゑのさんのこと
素敵な女性
2021年08月09日

いつか書けるかな、書けたらいいな、と思っていたこと。書いてみます。
私は京都の中心部、その中でも下町の雰囲気漂うあたりで生まれました。苗字はたいていは父方の実家と同じ、でなければ母方の実家と同じだと思うのですが。うちは父方とも、母方とも違っていて、子供の頃、それがとても不思議でした。
自宅の仏壇には、高齢の女性の遺影が置かれていました。かつて一緒に住んでいて、私が幼い頃に亡くなったおばあさんです。そのひとの苗字を名乗っているんだろうとまでは想像がつきますが、なぜ、そのひとなのか…。
知りたければ両親に聞けばいいのに、触れてはいけないことのような気がして聞けない。私はそんな子供でした。
ほどなくその家から引っ越し、成長して新しい実家からも独立し、長い間すっかり忘れていました。
自分のルーツを知りたくなる年齢というのがあるのでしょうか。相当おとなになってから、このおばあさんのことがとても気にかかるようになりました。
彼女が亡くなったのは、どうやら私が3歳の時のよう。なので、ほとんど記憶がありません。それでも記憶を辿ると、その底の底に浮かぶ映像があります。
夏の夜、おばあさんとふたり、蚊帳のなか。そこで交わした言葉も、その声も鮮明に覚えています。
それが現実だったのか、私のイメージの中で作り替えられたものなのか。確かめる術もありませんが、大切にしている記憶です。
もう一度会いたい。会って、幼い日のようにそのかいなに抱かれたい。そんな思いが膨らみ、幽霊でもいいから出てきてほしい、なんて願うほどになりました。
そして、子供の頃に聞けなかったことを、やっと父に尋ねてみることにしました。
名前はやゑのさん。子供がなく、ご主人に先立たれてからは、自宅で小さな下駄屋を営みながら一人暮らしをしていたとのこと。子だくさんが当たり前の時代、さぞや寂しかったろうと思うのですが…。
おおらかで、世話好きな性格だったのでしょう。地域のひとたちとの交流も多く、民生委員もしていたとのこと。たくさんの人に慕われ、自宅が若い人たちの溜まり場になることもあったとか。
まだ独身だった父も、そんな一人として出入りするようになったようです。当時としては婚期を過ぎていた父の身を案じ、縁談を持ちかけ、よければうちの二階に住みなさいとまで提案し。その縁談の相手というのが母でした。
そんな人柄に、両親の親たちも信頼を寄せ、次男だった父は、結婚を機に夫婦で養子に入るということに相成ったようです。
そこに兄が生まれ、私が生まれ…。人目にはふつうの三世代同居に見えたことでしょう。
まさか晩年にこんな暮らしが待っているとは思ってもいなかったはず。実の祖母以上に、私たちを可愛がってくれたのではと思います。なのに申し訳なくも、私は彼女のことをなんて呼んでいたかも覚えていません。
なので、私の中では「やゑのさん」…。
やゑのさんのことをもっと知りたくなり、3歳上の兄にも尋ねてみたことがあります。するとこんな話をしてくれました。
やゑのさんが亡くなった通夜の日、私たちきょうだいは二階で寝かされていました。幼い私はすぐに寝てしまったようですが、兄はなかなか寝つけずにいたとのこと。
というのも、階下で多くの人が出入りし、そして歌い踊るような気配が夜遅くまで続いたというのです。兄はその時はわからなかったけれど、のちにその歌が朝鮮民謡「アリラン」だったと知ることに。
やゑのおばあさんは愛知が出自の日本人ですが、当時、私たちが住んでいたあたりには在日の方も多かったようです。ご近所さんとして、あるいは民生委員としてお世話するなかで、親しくなるひともいたのでしょう。
「アリラン」は確か中学の音楽で習いました。初めて聴いた時、なんともいえない郷愁を感じたことを覚えています。
「アリラン」が通夜の席で歌われる歌なのか、私にはわかりません。が、その切ない調べは、愛しい人の死を悼み、あの世に送るのにふさわしい歌のように思います。
やゑのさんを慕う在日の方たちが、思いを込めて歌ってくださったのでしょう。私自身は見ても聴いてもいないのに、映画のワンシーンのようにありありと浮かぶ光景…。今でも思い出すたびに、胸がきゅうっと締め付けられる思いがします。
このエピソード一つで、やゑのさんがどんな生き方をしてきた人なのかわかった気がしました。世の中がまだ貧しく、あからさまな差別もあったであろう時代に、地縁血縁を超えて、誰に対しても分け隔てなく寄り添って生きた一人の女性…。
いつからか、やゑのさんは私の永遠の憧れとなりました。
実は先だって父が亡くなり、遺品整理をするなかで古いアルバムが数冊出てきました。その中にやゑのさんの生前の姿がたくさん収められていました。
ご自身の親族はもとより、私の父方、母方、それぞれの両親とも親密に交流していた様子が写されています。着物に割烹着で、地域のお祭りで立ち働く姿なども。
どの写真もやゑのさんは柔和な笑顔で、そのまわりにはいつも和やかな空気が漂っています。
やゑのさんは、ひとや場をつなぐことが、とても上手な人だったんだなぁ。そして、まわりの幸せを、自分の幸せとして感じられる人だったんだなぁ。
そうやってつながれた縁の一つで、私がこの世に生を受けたんだと、改めて思い知ることとなりました。
もっと長生きしてほしかった。そうすれば、私の人生も少し違うものになっていたのではと残念でなりません。
けれど、3年の間に、やゑのさんは幼い私に自分の持てる全てを注ぎ込んでくれたんだ。今はそう信じたいと思います。
たおやかで、それでいて凛とした強さのある佇まい。私は彼女のようになりたい。時代も環境も違うけれど、彼女のような生き方をお手本としたい。そんな思いを強くした今年の夏。
そのために、私はなにができるだろう…。
やゑのさん、空の上からずっと見守っていてくださいね。