アラーキーの花
アートなこと
2023年07月29日

先日、何必館・現代美術館で開催の「荒木経惟 花人生展」に出かけてきました。
何必館のことは、このブログで何度も書いています。作品と向き合いつつ、自分自身と向き合う。そうした貴重な時間を与えてくれる、私にとって大切な場所です。(ブログ何必館の時間 ブログ何必館の時間2)
荒木経惟(あらきのぶよし)、アラーキーという方が名が通っているかもしれません。エネルギーほとばしる写真で有名なカメラマン。
その作品と対峙するには、こちらも相当なエネルギーが要るかと。自身の体力、気力を見計らって、会期終盤にようやく出かけられた次第です。
以前にやはり何必館で彼の写真展を観たのは2002年。21年も前のことでした。最愛の奥様を亡くされた悲しみを、写真を通して表現されていたこと。今でも強烈に覚えています。
今回は、花尽くしの写真展でした。
花は私も大好き。自分で買ってきては、写真に撮ってSNSに投稿したり。疲れている時ほど花を欲するようで。花は私にとってなによりの癒しとなっています。
アラーキーが初めて花を撮られたのは、少年時代の遊び場であった東京吉原界隈。遊女たちの投込寺と言われた浄閑寺の墓地に咲く彼岸花だったとか。
花は花でも、私の抱くイメージとはずいぶん違う様相。観る前から緊張が高まります。
展示はテーマごとに分けられ、今を盛りと咲き誇る色鮮やかな花から、枯れて朽ち果てた花。はたまた曼荼羅のごとく壁一面を埋め尽くすポラロイド写真の花まで。
まさに花、花、花…。
花がそこにあるだけ、といえばそれだけのこと。なのに、ドキドキして、ざわざわして、体の芯から揺さぶられる思いでした。
なんというのでしょうか。薔薇は薔薇として、百合は百合として。といって花自身は、自分に付けられた名前など知らず。ましてや人がその花に抱くイメージなど知る由もなく。
ただ咲いて、枯れて、朽ちていく。開けっぴろげに、潔く、醜ささえも厭わずに。
その一瞬一瞬を、写真という永遠の中に切り取られた花たち…。
花はよく女性に例えられますが、まさにさまざまな境遇を生きた女性の生き様を垣間見るよう。とてもドラマチックでした。
何必館館長の解説を読むと、「エロス」と「タナトス」という言葉で見事に表現されていました。それをここでお伝えする技量は、私には到底ありませんが、至極、納得した次第です。
観終わったあとは、最上階の庭でひと息つくのがお約束。ところが、その日は花たちの放つエネルギーに圧倒されたのでしょう。ソファに腰かけるや、グッタリしてしまいました。
私は、今もってまだ自分の花を咲かせられていないなぁ。
咲くことに向けるべきエネルギーを、いつも不安や些末な事ばかりに向けて。開くはずの花びらは、開花を躊躇したまま、心もとなげに縮こまったきり。
どんな花だっていいじゃないか。私は私の花を咲かせるほかはなく。あるがままに咲いてやれ。そして、なすがままに枯れて、朽ちてやれ!
凄味あるアラーキーの花たちに触発され、少し荒ぶって自分をけしかけてみたりして(笑)。
ふと、以前、このブログに花について書いていたことを思い出し、読み返してみました。その締めくくりに書いていた言葉が、なんと…。
私は私の花を咲かせたい。(ブログ私が苦手だったもの 花)
日付は2015年2月27日。8年半経って、また同じことを書いているなんて…。いやはや、今度こそ、一刻も早く咲かせたい!
こんな私でありますが、これからも温かく見守ってくださいますよう、よろしくお願いします。
人生は舞台 人はみな役者
アートなこと
2023年04月27日

先月のことになりますが、祇園にある現代美術館、何必館で開催の「エリオット・アーウィット展」に出かけてきました。
何必館のことはこのブログでも何度も書いています。私の大好きな美術館。なくてはならない場所です。(ブログ何必館の時間 何必館の時間2)
エリオット・アーウィット…。私は知らなかったのですが、フォトジャーナリストとして著名人や歴史的社会情勢を捉えた写真を多数、世に送り出したカメラマンです。
マリリンモンローが地下鉄の通気口の風で舞い上がるスカートを押さえる、かの有名な写真が彼のものというのは驚きでした。
一方で自らを「天職はアマチュア写真家」と呼び、なにげない日常を撮影するのがとても好きだったそうです。今回、記録的写真と共に、そうした作品が多数展示されていました。
ふらりと出掛けた街なかで、たまたま出会った一般の人たちが織り成す光景。そんななんでもない一瞬が、とても偶然とは思えない完璧な構図、思わず知らずストーリーが立ち上がってくるようなドラマ性をまとって、芸術的な一枚の写真に仕上がってしまう…。
名カメラマンとはなんと素晴らしいんでしょう!
これまでにこのブログで書いたロベール・ドアノー然り(ブログ 写真家ロベール・ドアノー)。ソール・ライター然りです(ブログ 写真家ソール ライター)。
毎回、作品と共に掲げられている何必館館長、梶川芳友氏の解説文がまた素晴らしく。さらに深く作品を味わえる一助になっています。
今回、シェイクスピアの「人生は舞台、人はみな役者である」という言葉を引用し、一人一人が自分の人生という舞台の中に生きているということ。そうしたものに対するエリオット・アーウィットの眼差しについて語られていて、とても感銘を受けました。
人生は舞台、人はみな役者である
まさにその通りだなぁと思います。そして最近つくづく思うのが、役者であると同時に、そんな自分にとっての演出家でもあるんだということです。
この役者の持ち味はなになのか? それをいかんなく引き出し、表現させるにはどうしたらいいのか? 一番輝いて見える立ち位置はどこなのか?
演出家としての力量が、役者を生かしも殺しもするんじゃないかと思えてならないのです。
才能を見出された若い俳優の卵が、各分野のプロの手によって磨き上げられ、やがて、はまり役、当たり役というものを得ていかれる…。よく目の当たりにすることです。
一般人の私たちは、この作業を全て自らがしていかなくてはいけません。そのためにはまずは自分ととことん向き合うことが必要です。長所も短所もさらけ出し、自分の中の原石に突き当たるまで妥協なく掘り進むこと。
その一方で、自分を俯瞰できる遠い視点も必要で。
いやはや難しい。ああでもない、こうでもない、と模索の毎日です。時に、自分の舞台がとても心もとないものに思え、まわりの舞台から漏れ聞こえてくる喝采ばかりが気になることも。
いけない、いけない。誰もがそうであるように、私は私のこの舞台に立つほかありません。そうであるならば、この舞台でしか演じられない、私ならではの舞台を作り上げたいものです。千秋楽の幕が下りる、その日まで…。
私自身が、自分にとっての最良の演出家たれ!
そんなことを思うこのごろ。まだまだ拙い舞台ですが、どうか温かく見守ってくださいますよう、これからもよろしくお願い申し上げます。
Superflyのこと
アートなこと
2023年02月22日

前回のブログ 大晦日の中で、昨年末のNHK紅白歌合戦の登場歌手について触れています。そのうちのお一人がSuperfly(スーパーフライ)。写真の女性です。彼女が歌われたのが「Beautiful」という曲でした。
記憶が定かでないのですが、司会の方が「女性の解放を謳った…」と紹介されたような。その言葉に惹かれて聴き始めたところ…。
透明感ある声で歌い上げられるメッセージ性の高い歌詞に、一気に引きこまれてしまいました。作詞はSuperflyご本人、越智志帆さん。まずは歌詞の紹介を。
遠くに伸びる影 夜の波が消した
涙を流したなんて 気づかれないままに
心を捨てるくらいなら 傷付く方がマシさ
冷たい風を切って 逃げるように走る
いつかこの雫は 宝石になるのでしょう
美しい心に生まれ変わる そう信じて
世界で一つの 輝く光になれ
私でいい
私を信じてゆくのさ
遠回りしても 守るべき道を行け
私でいい
私の歩幅で生きていくのさ
誰かをうらやむのは 避けられない心情?
誰かをゆるすのは 難しい心情?
ないものを探せば 数えきれないけれど
ゆっくり愛してみよう 私というこの命を
世界で一つの 輝く光になれ
明かりのない
明日を迎えたとしても
悲しみの先に 孤独が押し寄せても
息をしてる
今日も息をして 生きてる
世界で一つの 私に幸あれ
涙に幸あれ 明日に幸あれ
世界で一つの輝く光になれ
泣いてもいい
私を歩いてゆくのさ
涙は頬を 流れる星のようさ
私になれ
私を叶えて生きていくのさ
いつの日も
いつの日も
真っ正直過ぎて、不器用にしか生きられない女性が目に浮かぶよう。そうした女性を励まし、力強く背中を押す曲だなぁと思いました。
どのフレーズも強く胸に迫ります。なかでもリアルなのが「私でいい」の一節です。
助詞の大切さはよく言われることです。これが「私がいい」だったら、まったく違うニュアンスになってしまいますね。
私はまったくもって「私がいい」わけがなく。まわりを見ては、もっとあんな風であれたら、と願うことがたくさんあります。外見、内面、置かれた環境…。
けれど現実はいかんともし難いことばかり。無駄な葛藤を長年続けてきたものだなぁと思います。
ないものを探せば 数えきれないけれど
ゆっくり愛してみよう 私というこの命を
当たり前過ぎて気付かずにいました。私というものは「命」そのものなんだということ。
私がどんな人間であれ、私の命はただ一つ。まさに「私でいい」。「ゆっくり」なら愛していけるかも。私という命を。
私になれ
私を叶えて生きていくのさ
なんてシンプルな言葉でしょう。 本当にありたい自分は、実は既に自分の中に存在している。人生はそれを叶えていく行程なんじゃないか。そう思い始めていたこのごろ。これこそが私にとって、人生の究極の目標です。
けれど決して簡単なことではありません。諸々のことに気を取られ、叶えるべき「私」を見失いがち。自分を過小評価したり。自分で自分にブレーキをかけたり。
心を捨てるくらいなら 傷付く方がマシさ
冷たい風を切って 逃げるように走る
こんな強さが必要なことも。
遠回りしても 守るべき道を行け
泣いてもいい
私を歩いてゆくのさ
こんな忍耐がいることも。
世界で一つの 輝く光になれ
明かりのない
明日を迎えたとしても
悲しみの先に 孤独が押し寄せても
息をしてる
今日も息をして 生きてる
壮絶…。だけれど…。なんて希望に満ちた言葉でしょう。生きるって、こういうことなのかも。
誰しも、いつかは果てる命。こんな風に畏れることなく、自分の命を生き切れたら…。生半可なことではないけれど、そうありたい。
世界で一つの 私に幸あれ
涙に幸あれ 明日に幸あれ
世界で一つの輝く光になれ
多様化の今、ことさら女性、女性ということにはご批判もあろうかと思います。が、やっぱりこれは女性の心の解放を高らかに謳われた曲に、私には思えます。
そして、タイトルの「Beautiful」がいいですね!
このブログを書くにあたり調べていて、Superfly、越智志帆さんのコメントを見つけました。
「自由で自分らしくというのは、いつでも難しいこと。誰かに愛を求めるのではなく、かっこ悪くても、コンプレックスだらけでも、自分自身が“私”を大好きでいられることが、とても大切なことのように思います。自分自身を大切にして、周りの誰かを今よりもっと大切にできますように、そんな願いを込めた曲です」
(ORICONニュースより抜粋)
見事に表現されたことに驚くばかりです。
不思議と、その時々の思いにぴったりの曲に出会うもので。そうした曲が、その時々の私の応援歌となってきました(ブログ風の笛…)。
「Beautiful」。ただ今の私の応援歌です!
youtubeのリンクを貼っております、クリックのうえ是非お聴きください。
宮本浩次さんのこと
アートなこと
2022年11月30日

皆様、お好きな歌手、お気に入りのグループなど、それぞれにいらっしゃることと思います。
私が最近、とても惹かれているのは宮本浩次さんです。あまりテレビを見ない私は、夜、お風呂上りにCDをかけることが多いのですが。最近、よく聴くのが宮本浩次さんの「縦横無尽」です。
彼のことを知るようになったのは、エレファントカシマシからソロ活動を始められてからのこと。なのでまだファン歴は浅く、詳しいことはほとんど知りません。そんな私が彼について語るなんておこがましいのですが。
とにかく好き! なもので…。私なりの思いを書いてみたいと思います。
まず好きなのが詞です。本気で生きている人にしか見えない光景を見せてくれているような。うん、うん、そうだ、そうだ! なんて、詞の中の誰にともなく共感し、エールを送ってしまいます。
そして、声。声に力があるというか、声に心がこもっている感が半端なく。ありきたりの言葉も彼の声に乗ると、胸に迫ってくるような。声は人そのものなんだなぁと思います。
その声で、切なさや愛しさを切々と歌うかと思えば。溢れ出す愛や夢を爆発的に歌ったり。とにかく強気で、ストレートな歌いっぷりが、なんともカッコよく。イカしてる、って形容がぴったりです。
私の拙い感想より、歌詞を紹介するのが一番かもしれません。いくつかの曲から、私が大好きなフレーズを抜粋してみたいと思います。
【sha・la・la・la】
遠い星空に誓った幼き日
俺は絶対勝つってよ
強く 気高く やさしく
でっかい heart で街を行く男なのさ
umh、いつしか時は流れ大人になった俺が
相も変わらず心で叫び続けている
俺は絶対勝つってよ
夜空には今日も星がまたたいていた
夢は
sha・la・la・la sha・la・la・la…
「おまえはどこまで夢を追いかけるるつもりなんだい?」
sha・la・la・la sha・la・la・la…
空にはあの頃と同じ星がまたたいている 今日も空には
……
時は
sha・la・la・la sha・la・la・la
「お前は今どのあたりを歩いているんだい?」
sha・la・la・la sha・la・la・la 時は流れ流れ
ああお前は今どのあたりなのさ? sha・la・la・la
……
さあ行こうぜ
sha・la・la・la sha・la・la・la…
明日も夢を追いかけ続けるのさ sha・la・la・la
この曲を聴くと、いつも自分に問いかけられている気持ちになります。私はどこまで夢を追いかけるつもりなんだろう。今、どのあたりにいるんだろう…。
それがわかれば計画も立てやすいけれど、わからないから夢を追いかけ続けられるのかもしれない。
【rain-愛だけを信じて】
浮わついた日和見のup down に一喜一憂してる
世間という名の party を抜け出して
時に揺さぶられるような想いにかられて
心のすべてを解き放ちたい ああ
だれかの所為(せい)にしたくない わたしの未来を
……
愛を求めてさすらう heart は
体中で感じたい そう 生きてることを
ココロで全てを受け止めるよ
愛だけを信じて明日を抱きしめたい
悲しみけむる rain
心に降りつづける rain uuh rain
大丈夫、わたしはまた笑顔になるから
……
芯から強い女性を歌っているんだなぁ。私もこうありたいと願いつつ、「大丈夫、わたしはまた笑顔になるから」の部分、いつも一緒にシャウトしてしまいます(笑)。
そして、ラストの一曲…。
【P.S .I love you】
例えば若き日の夢が 悲しみと交差するとき
その時から人のナミダが 希望を語り始めるのさ
悲しみの歴史それが 人の歴史だとしても
ああ やっぱ何度でも立ち上がる人の姿は どこかまぶしい
雨の日 傘をさすようにあるいてゆこう
ゆこう ゆこう 大人の本気で さあ 立ち上がろ
I love you I love you 悲しみの向こう
立ち上がれ がんばろぜ バカらしくも愛しき ああこの世界
I love you I love you いつまでも輝きもとめて
ああ 愛してるぜ日々を P.S. I love you
愛って何だかわかった日が きっと新たな誕生日
出会いと別れ ああ 人生を経て 宝物を手に入れたのさ
悲しみの歴史それが 人の歴史だとしても
ああ ひとつぶのナミダのその向こうに きみの笑顔を見つけた
晴れた日 自然に足どり軽くなるように
ゆこう ゆこう 大人の旅路は着の身着のままがいい
愛してる 愛してる 悲しみの向こう
立ち上がれ がんばろぜ 果敢(はか)なくもうるわしき ああこの世界
I love you I love you いつの日も喜びもとめて
ああ 愛してるぜ日々を P.S .I love you
……
世界では愚かしいことが性懲りもなく繰り返され。日本でも、私のまわりでも、困ったこと、心配なことの山積みで。
それでも愛しきこの世界。私も愛と夢を胸に、着の身着のまま、大人の本気で生きていこう。なんて思いつつ…。
ラストの「ああ 愛してるぜ日々を P.S .I love you」の部分、ここでもまた一緒にシャウトすると、なんだか気持ちスッキリ。
余計な不安や怖れはさて置いて、明日からまたがんばろう! そんな気持ちになって、あとは眠りに就くばかり。
いやはや、好き勝手に、熱く語ってしまいました(笑)。
宮本浩次さん、この先、年齢を重ね、どんな詞を聴かせてくれるんだろう。そして、それをどんな風に感じる私がいるんだろう。これからがまたスリリングで楽しみです。
「ある一つの事」
アートなこと
2022年10月20日

前回のブログで、陶器のオブジェ「月23」がうちにやって来てくれた顛末を書きました(ブログ月23)。そのご縁を結んでくださった陶芸家 I さんのことを、もう少し書いてみたくなりました。
改めてご紹介します。陶芸家、伊藤均さん。前衛的なオブジェを得意とされ、その尖がった作風が私は大好きで。個展の案内をいただくと、今回はどんな作品だろうと出かけて行くのが楽しみでした。
なかでも上記の写真のシリーズは、私が一番好きなものです。えもいわれぬ造形と色。眺めるほどに深い世界に引き込まれるようで、飽かず眺めていたのを覚えています。
数年前に突然、天国に旅立ってしまわれたのは本当に残念なことでした。けれど今回、教え子さんの作品「月23」と出逢わせていただき。ひとは亡くなったあとも、なにかしらの形でこの世にあり続けるものなのだ。そう実感した次第です。
その展覧会でのこと。伊藤さんが生前、陶芸の雑誌に寄稿されていた文章が壁に掲げられていました。
なんとはなしに読み始めたのですが、この言葉を読み流してはいけない。そんな思いに駆られ、奥様の了解を得て写メに納めさせていただきました。以下、書き出してみます。
ただ森羅万象の内に「ある一つの事」に非常に興味を持ち始めると、その事をテーマに作品を創る。他人が何を言おうと、世間がどう動いていようと、作家という当人においては、ただ黙々と「つくる」という行為をくり返すだけなのだ。
仮に、「ある一つの事」が、どんなにつまらない事であっても、当人には、今非常に重大なテーマなのだ。
そして作品が出来る事は、彼の宇宙に新しい空間が生まれることを意味する。そこから又次の作品への足がかりが出現する。
とはいっても、そう次から次へと、新しい出会いが表出する訳でもなく、行きつ、戻りつの様である。作品を見て「心を悩まし」、新しい出会いに「思い焦がれる」のである。
作者は、きっと、己の次の作品をつくる為に、今の作品をつくっているのではないかと思う。
伊藤 均「おもう」(陶説1988年9月号に掲載)より抜粋
まるで哲学者のよう。こんなことを思いながら、伊藤さんは作品と対峙されていたんだなぁ。これまでの作品の数々を思い浮かべると、納得がいく気がしました。
何度も読み返していると、ふと、これは必ずしも芸術の世界に限ったことではないんじゃないか。ビジネスや人生そのものにも置き換えることができる。そう思えてきました。
お蔭様で「しののめ寺町」は今年で10周年(ブログ10周年)。この間、たくさんの経営者の方に出会う機会に恵まれました。代々続く家業を継がれた方。一念発起、自ら起業された方…。
皆さん、それぞれに確固たる理念と覚悟を持って事業に邁進されていることが、自信に満ちた風貌、言動から感じられます。
私はというと…。ご縁と成り行きで、気づけばおじゃこ屋さんになっていた。気づけば代表なんて立場になっていた。というのが正直なところです。
負い目、引け目のようなものがついてまわり。いつまでたっても覚悟が定まらないまま。一昨年、作成した経営理念も、まだまだ実践できずにいます。(ブログ経営理念)
それでもこれまで続けてこられたのは、私の中に「なにかしら思うもの」があったからだと思います。まさしく、伊藤さんの語るところの「ある一つの事」です。
けれど、その時々の状況により揺れたり、迷ったり。自分でも明確にできないまま、変遷を繰り返し今日まで過ごしてきました。
10年を過ぎ、最近、ようやく明確になりつつあるように感じています。けれど、まだ確信を持てない。
伊藤さんの言葉は、そんな私へのメッセージに思えてなりません。なかでも「他人が何を言おうと、世間がどう動いていようと…」というくだりは、とてもリアルに心に迫ります。
確かに、今の私の思いなど、人に話したら呆れられるんじゃないかとビビッている自分がいます。そんなちっぽけな不安を、見事に蹴散らしてくれるよう。
仮に、「ある一つの事」が、どんなにつまらない事であっても、当人には、今非常に重大なテーマなのだ。
身をもって実践してこられた伊藤さん。それが決して間違いでなかったことを、素晴らしい作品たちがなにより雄弁に証明してくれています。
なかなかに困難なことだと思います。けれど、私の中に芽生える「ある一つの事」を大切に、店も、人生も進んでいきたいという思いが募るこのごろ。これからも温かく見守ってくださいますよう、よろしくお願いします。