地震のこと

心と体のこと

2018年06月26日

先日の6月18日、月曜日の朝の地震には驚きました。仕事に出かける直前のこと。けっこう揺れましたが、すぐに治まり、いつも通りに店に向かいました。

 

店に着いてテレビをつけると、震源地はお隣の大阪とのこと。思いのほか影響は大きく、交通の乱れも報じられています。前日の日曜日にお越しいただいたご旅行のお客様は、きのうのうちに帰宅されただろうか。発送した荷物は大丈夫だろうか。いろいろ案じられ、不穏な思いのスタートとなりました。

 

店のパソコンには、早速にご心配のメールがいくつか届いていました。ほかにも心配してくださっている方があるかも…。ご覧になっているかどうかわかりませんが、せめてもと、店のフェイスブックで無事の旨のお知らせをした次第です。

 

今回の地震で犠牲になられた方には、心からのお悔みを申し上げるとともに、今も不自由な生活を余儀なくされている方には、一日も早い復旧を祈るばかりです。

 

上の写真は、地震の二日前の土曜日に撮ったものです。月が好きなことは、このブログでも何度か書いています(ブログ三日月 ブログ月は満ち 欠け また満ちていく)。仕事帰りに、夜空を見上げ、月を眺める。一日の終わりのささやかな楽しみです。

 

その日は触れると指先を切りそうなくらい、細く尖った三日月でした。その上に、光る星ひとつ。まるで見えないチェーンでつながった星と月のよう。なんだかドラマチック…。束の間、メルヘンの世界にいざなわれた気分で、飽かず眺めていました。

 

いつも携帯しているカメラで撮影すると、意外にも見たままに写すことができました。こうして見ると、一枚の切り絵のよう。僭越ながら、切り絵作家、藤代清次さんの絵を思い出しました。

 

その夜はたまたま綺麗な月と星だった。それを見つけて、いつにも増してうれしかった…。その時は、ただそれだけのこと、と思っていました。

 

いろんなことがある毎日、店をやっていると、なおさらです。いいこともたくさんあるけれど、そうばかりはいきません。それでも、ともあれ一日を無事に終え、安堵と感謝を胸に、夜空を見上げる帰り道。それだけで、なんて幸せなことだろう。改めて写真を眺め、そんなことを思っています。

 

地球もひとつの星。そこに間借りさせてもらっている私たち。地球には地球のなりたちというものがあって、人間の都合に合わせるわけにはいかないでしょう。それでも、どうか地球の神様、穏やかでいてください。そう祈らずにはいられません。

 

大震災を経験された方のご苦労はいかばかりか。どんなに想像力を働かせても及びません。が、お隣大阪が震源地ということで、我が事としていろいろ考えさせられた、今回の地震でした。

 

あの日から、月は日に日に丸みを帯び、満月も近いような。当たり前に見ていた月の変化が、とても愛おしくられる感じられるこのごろです。

自分の中に毒を持て

アートなこと

2018年06月05日

日帰りでも、泊まりでも、一人でふらりと出かけることが好きだった私。知らない場所に、ただ一人、身を置く感覚が好きでした。本を読むことも好きで、日がな一日、読書に耽っていたいと思うくらい。そのどちらも、店を始めて以来、すっかりできなくなってしまいました。

そんな私の思いを、束の間、両方、満たしてくれる場所があります。街中にあって、ちょっと非日常な空間。心ゆくまで本の世界に浸れる、極上の場所…。ブックカフェです。以前のブログでも少し紹介しました(ブログ画家 堀文子さんのこと)。

仕事帰りが多いのですが、先日の定休日、近くに所用があり、珍しく昼間にふらりと立ち寄ってみました。座った席の前には、いつもながらに魅力的なタイトルの本がずらり。その中にひときわ異彩を放った一冊がありました。

「自分の中に毒を持て ~あなたは”常識人間”を捨てられるか~」                              

著者は岡本太郎氏。「君は、この本を手に取る勇気があるか ? ! 」。ギョロリと向いた目で、にらみつけられた気がしました。これはもう受けて立たないわけにいかない! 意を決して手を伸ばしました。

 岡本太郎氏といえば、なんといっても1970年大阪万博の「太陽の塔」がお馴染みです。個性的でエネルギッシュなイメージは作品のみならず、作者自身と重なります。生まれながらの天才。それが素のままの方だと思っていました。

著書を読み、その裏には激しい葛藤があったことを知りました。なにものにも、おもねらない独自の感性、美意識、価値観。世の中に溢れかえる「常識」に、一人立ち向かう孤独な戦い。迸るエネルギーがどのページからも溢れていて、たちまち引き込まれてしまいました。

自分の中に毒を持て

そのエネルギーの源となっていたのが、この言葉だったのだと、挑発的なタイトルの意味が理解できました。同時に、私の心にストンと落ちるものがありました。

「しののめ寺町」開店以来、毎日が試行錯誤の連続。うまくいくこともあれば、いかないこともあり。それでも昨日よりは今日、今日よりは明日…、と少しずつ前に進んできたように思います。お蔭様で6年が過ぎました。

もちろん今も、より良い店にしていくべく、試行錯誤の毎日に変わりはありません。ですが、なんだか前に進まない、という感覚に陥ることが増えました。これまでと同じやり方では、もう通用しないのではないか。新しい視点が必要な時期に来ているのかもしれない。そんな思いが心に去来するようになりました。 

仕事でもプライベートでも、まわりと協調していくことは、大切なことです。無用な軋轢を生まないよう、多少、自分の思いをセーブしてでも、まわりに合わせる。一般的と言われる流れに沿う。リスクは避けて、無難に、平穏に…。

この著書を読み、思わず知らず、そういう考え方で行動することに慣れてしまっている自分に気づかされました。あながち悪いことではないかもしれないけれど、自分で限界を作ってしまっているような。なんだか、おもしろくない。

太郎氏のような生き方は、とてもじゃないけれどできませんが、エッセンスだけは取り入れてみたい。以来、試していることがあります。

日常でなにか決断をする時、例えば買い物に迷った、なんてささやかな場面。「自分の中に毒を持て」と心の中で唱えてみる。すると少し違った選択ができる気がします。自分が本当に選びたかったのは、こちらだったんだ、と意外に思うことも。

弱気になりそうな時「自分の中に毒を持て」と唱えてみる。すると、強気がむくっと頭をもたげ、内なるエネルギーを呼び覚ましてくれるような。エネルギーを封じ込めていたのは、私自身だったのかも、と少し自分を俯瞰できます。

「自分の中に毒を持て」は、私のおまじないの言葉になりました。唱えてみるだけで、なんだか、おもしろい。まだ、よくわかりませんが、なにかが変わっていく、大きなヒントが含まれている気がしています。

太郎氏のみならず、誰もが個々に持つ感性や美意識や価値観。そうしたものを解き放って、もっと自由に生きられたら素敵だなぁ。それが、今ある「常識」と言われるものから、少しばかりはずれていたとしても。そんなことを思うこのごろです。

今回は、まだまだ未知数の話となりました。またご報告できることがあれば、書いていきたいと思います。

私の中の女の子 2

心と体のこと

2018年05月01日

以前のブログでも書きましたが、私の中に一人の小さな女の子がいます(ブログ私の中の女の子)。

専門的なことはよくわかりませんが、インナーチャイルドと言うのだとか。誰の心の中にもいると思うのですが、私の場合、会ったことがあるというか、なんというか…。見える、というのは珍しいことかもしれません。

もともと人から「変わっている」とよく言われる私。このブログでも、怪しげなことを書いているなぁと思うこと、たびたびです(笑)。ですが、正直がモットー。引かれるのを覚悟で、ありのままを書いてみようと思います。

女の子に初めて会ったのは、私が二十歳過ぎの頃。当時、勤めていた会社の研修が東京であり、その帰りの新幹線の中でした。車内はすいていて、二人掛けの席を一人占めで、東京駅のホームで買い求めた文庫本を読んでいました。

任務を終えた安堵感と、そのあと東京で遊んだ高揚感。ちょっと大人になったような満足感もあったでしょうか。心地いい疲労感に浸りつつ、ふとページから目を上げた時でした。

唐突に、幼い女の子が現れました。頭の中に浮かんだ映像なのでしょうが、私には「現れた」という感覚でした。

3歳くらい。短いおかっぱ頭。こちらに背を向けてしゃがみこみ、棒切れかなにかで、地面に絵を描いているようです。舗装などされていない、砂の地面。あたりの風景は見えないのですが、私が生まれた家の近く、幼い頃によく遊んでいた路地であることがわかります。

女の子は無心で一人遊びに耽っています。その姿は幼くはあるけれど、存在感が絶大で、私は近寄ることも、声を掛けることも、ましてや触れることなど出来そうにありません。顔は見えませんが、私は確信します。

その女の子は、幼い日の私…。

突然、涙が溢れました。なんの涙なのかわかりません。強いて言うなら、侵しがたいものへの、畏怖の念のような。しばらくして、女の子は消えました。

あまりに不思議な出来事でした。なにかメッセージを届けに来たのかなぁと思いながら、日々の生活のなかですっかり忘れていきました。

再び、彼女が現れたのは、さらに20年近く経った頃でしょうか。人生半ば、いろいろ思い悩む時でした。女の子はまた唐突に現れ、初めての時と同じ状況で佇んでいます。私は彼女より相当、年齢の離れた大人になっているにもかかわらず、やはり彼女の絶大な存在感に圧倒され、怖れさえ感じていました。

以来、女の子は頻繁に現れるようになります。彼女はなにがあっても弱音を吐かないし、わがままも言わない。とにかく我慢強い。決して動じることなく、いつもそこにいます。

彼女がすべてを引き受けてくれている。彼女にはとうてい敵わない…。私にとって、女の子はそういう存在でした。

変化が表れたのは、店を始めて一年くらい経った頃でしょうか。女の子は、振り返るようになり、無邪気に笑ったり、時に泣いたり。少しずつ感情をあらわにするようになりました。彼女が安心した表情でいられること。いつからか、それが私の中の指標になりました。

その彼女、今年に入った頃からでしょうか。どうしたことか、なんだかやんちゃになってきまして。思うままを口走ったり、大声で泣きわめいたり。いやはや私は手を焼くばかり。通るわがままもあれば、通らないわがままもあり。それでも泣いて叫んだあとは、気が済むらしく、またあどけない表情に戻ります。

店を始めて、たくさんの方に出会い、たくさんの経験をし、たくさん心を揺さぶられ、私の中の女の子は、本来の子供らしさを取り戻してきたのだなぁと思います。あまりに遅ればせではありますが。

女の子は、とりもなおさず、私自身…。

彼女に翻弄されながらも、決して嫌ではなくて。むしろ、もっともっとわがままを言ってしまえ。秘めてきた思いを全部、吐き出してしまえ。なんて、けしかけている私です。

年齢は一年一年重ねていくもの。過去にさかのぼって、やり直すことなど許されません。が、本当にそうでしょうか。私自身、時々、人生を逆行して生きているような気がすることがあります。あるいは、どこかの地点から生き直しをしているように思うことも。もしかしたら、人生は行きつ戻りつできるのかも。

上記の写真は、私が大好きなサラ・ムーンという女性のカメラマンの作品。今回のタイトルで、ふと思い浮かんだ写真です。それを自分のカメラで撮ってみました。

いつにも増して怪しい話にお付き合いいただき、ありがとうございました。まだまだ摩訶不思議な、私の中の女の子。これからの変化を、またご報告できたらと思います。

桜 2

季節のこと

2018年04月12日

今年の京都は、春の訪れを感じるや、暑いまでに気温の高い晴天続き。桜の季節も、例年にない早さで過ぎていってしまいました。皆様のお住まいの地域ではいかがでしょうか?

店に来てくださるご旅行のお客様のなかにも、花見のつもりじゃなかったのに、思いがけずラッキーだったわ、とお喜びの方。一方で、お花見目当てで来たのに、もう散っちゃっていたわ、とお嘆きの方。と、さまざま。

紅葉の季節にも思うことですが、なにぶん自然相手のこと。予想が当たったり、外れたり。そうしたことも一興かな、なんて思ったりします。外れたお客様には申し訳ないのですが。

そういう私はと言いますと…。

これまでのブログでも何度か書いていますが、春がとても苦手でして(ブログ私が苦手だったもの 春 天狗おじいさん)。春が近づくや、土中の虫や、芽吹く前の植物のうごめく気配に、心がざわざわと落ち着かなくなってしまいます。

いよいよ春本番となるや、満開の桜のあまりの見事さに、そうまで美しさを誇らなくってもいいじゃない。なんて、天邪鬼なことを思ったり。美しい余りの痛々しさに、胸苦しくなったり。しまいには桜のことを考えただけで、涙なんか出てくる始末。若い娘じゃあるまいし、と漫才ばりのツッコミを自分に入れるも、相方はボケきれず、すべるすべる(笑)。いやはや、私にとって春は困った季節です。

そんな苦手意識も、店を始めてから少しずつ解消されてきたように思うのですが…(ブログ)。今年は新年から行動力に欠けたまま足踏み状態が続く私でありまして(ブログ堀文子さんの言葉3。裏腹に、例年にない早さで開花していく桜の、段取りのいいこと。毎年感じる「置いてきぼり感」は、いつも以上となってしまいました。

そんななかでも、私なりの春の楽しみ方、桜の愛で方を身につけつつあるのかも、と思うことも。上の写真は、店の近くの御所南小学校の桜です。仕事帰り、地下鉄丸太町駅まで歩く道すがらの夜桜見物が、恒例の楽しみとなりました。校舎からの明かりでライトアップ。この日は枝の合間から月が覗いて、風流をひとり占め。これはこれで贅沢、かな? と、一人、悦に入ったりなんかして。

店を始める前はよく美術館に出かけたものですが、地下鉄から近道となる川沿いの小道を通るのがお気に入りのコースでした。どの季節も風情があるのですが、春、川面に枝をせり出させて、水面につかんばかりに咲く桜が、それはそれは綺麗でした。ふと思い出して、仕事帰り、夜の散歩と洒落こんでみることにしました。

お花見のピークを過ぎた平日。ふだんでも穴場のような小道。静かです。少し散った花びらが川面で花いかだとなっていましたが、幸運にもまだ満開の木もありました。照明といっても、近くの住居から漏れる明かりがあるばかり。それでも桜は自らが灯りとなって、自らを浮かび上がらせるようです。薄明りの中で見る桜は、ひときわ美しいものでした。

急ぎ足で去っていくかに思えた春が、ここではゆったり進んでいるような。名残を惜しんでいるような。置いてきぼりを食らったと思っていた春の背中に、辛うじて指先でタッチできた気がしました。

見惚れ過ぎたのでしょうか、写真を撮ることをすっかり忘れていました。記憶の中の映像を、自分のイメージを膨らませて思い出すのも、またいいものかもしれません。その年の、その時の、自分の気持ちを重ね合わせながら。

 

桜の楽しみ方は様々あるものなのだなぁ。名所じゃなくても、お日様の下じゃなくても、ライトアップされていなくても、自分流の楽しみ方を見つければいい。そんなことに気づいた今年の春でした。

来年の春、私は、どこで、どんな風に、桜を見上げているんだろう。そんなことを想像してみると、早くも来年の桜が楽しみに思えてきます。桜の枝の上で、鬼が笑っているでしょうか(笑)。

春はミステリアスな季節です。

アロマキャンドルヨガ

心と体のこと

2018年03月24日

以前のブログでも書きましたが、店を始めてから、自宅近くのフィットネススタジオに通うようになりました。夜遅い時間や店の定休日を利用して、ヨガやピラティスといったプログラムに参加しています。(ブログ

店をやっていくためには、なんといっても健康が一番。体のメンテナンスのためにと通い始めたのですが、思いのほか心のケアに役立っていることに驚いています。なかでも金曜日の夜のアロマキャンドルヨガは、心身共にリラックスできる心地いいプログラムです。

週休二日のOLさんたちは、ここで一週間の疲れを癒して、素敵な週末に入っていかれるんだろうなと想像します。水曜と第2、4木曜が定休日の私は、金曜日はまだ始まったばかり。そうはいかないのが、ちょっと辛いところではありますが。

照明を落とし、アロマキャンドルの灯りと香りのなか、まずはヨガマットに横たわり、目を閉じて、力を抜いて、深い呼吸を繰り返すことから始まります。

この時に先生から掛けられる言葉が、心にストンと落ちていくことがあります。まるでその日の私のために用意されていたかのように…。とてもシンプルな言葉なのですが、禅問答のような、哲学のような、神の啓示のような。大袈裟に思われるかもしれませんが、私にとってはそんな感じです。

そうした時々の言葉と心模様を記録しておきたくて、帰宅するなりフェイスブックに投稿することがあります。私にとってフェイスブックは、ネット上の絵日記のようなもの。印象深いことがあった日は、写真を添えて投稿するのが、いい息抜きになっています。振り返ってみたくなり、いくつかピックアップしてみました。

今夜はアロマキャンドルヨガ。目を閉じて、自分の呼吸に意識を向けて。「手放したいものを呼吸にのせて、全部吐き出しましょう。ストレスだったり、傷みだったり…」って、先生。ヨガって、深い。

2014年9月12日

 

今夜はアロマキャンドルヨガ。久し振りに来たら、心も体もこわばっているのがよくわかる。「今日は、ただただ自分の呼吸に意識を向けてみましょう」って、先生。自分勝手はよくないけれど、自分中心はいいのかも。

2014年10月3日

 

今夜はアロマキャンドルヨガ。ここで聞く言葉はいつも心地いい。ネガティブな言葉は全部洗い流して、いい言葉だけ残して、今夜は眠ろう。

2015年11月20日

 

今夜はアロマキャンドルヨガ。「日常に起こる小さなアクシデントは、なにかのお知らせかも知れません」って、先生。お知らせだらけの毎日、気づきがいっぱい(笑)。そう思ったら、おもしろい。

2016年3月11日

 

今夜はアロマキャンドルヨガ。「自分の動きやリズムに違和感があれば、自分のイメージに変換することができます」って、先生。嫌なことは、嫌なまま残しておかなくていいんやなぁ。って、私流の解釈。

2016年4月1日

 

今夜はアロマキャンドルヨガ。スタジオの窓から満月。「満月の夜は、要らないものを手放しやすい日です。自分の感情のなかで、これは要らないと思うものを、吐く呼吸にのせて手放すことができます」って、先生。なんだか身軽になれた、満月の夜。

2016年4月22日

 

今夜はアロマキャンドルヨガ。「ちょっといいかも、って思えることを見つけられると、自分は変われる」って、先生。ここに来ると、あくび連発の私。しかもお構いなし。どんだけリラックスしてるんやろ。こんな緊張感のない私って、ちょっといいかも。

2016年5月27日

 

今夜はアロマキャンドルヨガ。マットに横になって、目を閉じて、深い呼吸をして。「評価しないで、自分を観察してみましょう」って、先生。なんか、涙が出た。

(ブログ評価しない

2016年12月2日

 

今夜はアロマキャンドルヨガ。まるで障害物競走みたいなこのごろ。一つクリアするたびに、息つく間もなく「ほら次、次」って急き立てている私がいて。「自分のペースに合わせて呼吸をしてみましょう」って、先生。それだけのことが、こんなに心地いいなんて。なんか、ほっとした。

2017年4月7日

 

今夜はアロマキャンドルヨガ。手を合わせて、目を閉じて、ただ立つポーズ。体が微妙に揺れるよう。「揺れを止めなくていいですよ。その揺れを味わいましょう」って、先生。わからないこと、決められないこと、だらけの毎日。そんな揺れている今も、大事な時間かも。 2017年10月20日

 

今夜はアロマキャンドルヨガ。「自分の中に秘めているもの、出し切れていないもの、そういうものに目を向けてみましょう」って、先生。えぇ~、私の中、そういうものでいっぱいや~ん。

2018年2月23日

今夜はアロマキャンドルヨガ。瞑想の時間。「頭の中を駆け巡るものが出てきたら、そっと眺めてみましょう」って、先生。それは怖いものだったりするけれど、そっと眺めてみる…、その距離感はいいかもしれない。

2017年3月9日

 

こうして読み返してみると、その時々の思いが、手に取るように思い出されます。時に途方にくれていたり、疲れ果てていたり。それでも、いつもいつも心にあったのは「明日、店を開けなくちゃ」という思いでした。

邪念が頭をかすめながらも、ひとつひとつポーズをとっていくうちに、少しずつ体の偏りが修正され、滞っていたものが流れていくのを感じます。連動して、心にも同じ感覚が。

得体のしれない巨大なものと戦い、翻弄されているように思っているけれど、実は自分のありよう次第なのかもしれない。そんなことに気づかされます。

帰宅後、フェイスブックの投稿を済ませ、軽い夕食を取り、お風呂から上がると、たちまち深い眠りに落ちていきます。翌朝の目覚めは、いつもすっきり。こうやって一週間、一週間…。

お蔭様で「しののめ寺町」は3月16日、6周年を迎えることができました。店と向き合ってきた年月は、とりもなおさず自分と向き合ってきた年月だったのだなぁと思います。そして、フェイスブックの私の拙い投稿に「いいね!」をくださった方をはじめ、たくさんの方に励まされてきた年月でもあります。

節目の5年を過ぎ、新たな力が必要な時が来ていると感じるこのごろ。ますますしっかり自分と向き合い、自分の中に秘めているものを惜しみなく出していかなければ。怖いことはいっぱいあるけれど、それでも踏み出していく勇気を持たなければ。そんなことを思っています。

来年、元気で7周年を迎えられるよう、この一年またがんばってまいります。これからもよろしくお願い申し上げます。

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