佐藤初女さんのこと5

素敵な女性

2018年12月27日

先月末のことになりますが、素敵な催しに出かけてきました。青森県弘前市、岩木山の麓に建つ「森のイスキア」。そこで「食は命」の信念のもと、全国からの来客をもてなされてきた佐藤初女さん…。その最晩年をカメラに収められたカメラマン、オザキマサキさんの写真展です。

写真展を拝見するのは二度目なのですが(ブログ佐藤初女さんのこと4)、今回は初女さんの遺志を引き継ぐ方たちによるワークショップ「お結びの会」という、素敵なおまけ付きです。まずはオザキマサキさんのトークショーからスタート。スクリーンに「森のイスキア」の風景や在りし日の初女さんのお姿が、スライドショーとなって映し出されます。撮影時のエピソードを交えながら、その時々に感じてこられたことを語られました。

初女さんが、髪を垂らして横たわる女性の横顔のようだと例えられた、岩木山の優美な稜線。「森のイスキア」の台所や各部屋の設え。初女さんが野菜を切ったり、ごはんをよそわれる時の佇まい。初女さんのまわりで、かいがいしく立ち働かれるスタッフの皆さんの表情や声。旬の食材のあれこれ。そこにたゆたう空気感…。

9年前のことになりますが、「森のイスキア」を訪ね、初女さんの心づくしの手料理ともてなしを受ける幸運に恵まれた私(ブログ佐藤初女さんのこと2)。写真を見ながら、トークを聴きながら、その時のことが鮮明に思い出され、心の中で「そうそう!」と何度も叫んでいました。

あぁ、体験するというのはこういうことか、と思いました。

繊細な感性をお持ちのオザキマサキさんのお話は、それはそれは素晴らしいものでした。「森のイスキア」に出かけたことのない方たちの心にも、十分に伝わったと思います。それでもやはり、そこにいたかのような臨場感で伝わる思いは、行ったことがある者だからこそ、だったのではないでしょうか。

私が森のイスキアまで出かけたと知ると、皆さんよく「行きたかったけど、遠くて…」と言われます。私も調べた時、確かに遠いし不便な場所だなぁと思いました。でも、同時に思ったのです。遠いけれど、不便だけれど、行こうと思えば行ける、と。

実際にに行ってみると、本当に遠くて不便な場所でした(笑)。電車に乗り、バスに乗り、最後は徒歩しかありません。合っているかもわからぬまま、不安な思いいっぱいで、半ば後悔しながら、ひとり歩いた一本道。いったい何に突き動かされて、こんなところまで来てしまったのかと…。うしろで引っ張るキャリーバッグの音が、そんな私にぶつくさ言っているようでした(ブログ佐藤初女さんのこと3)。

そうまでして出かけて行った「森のイスキア」。そこで自分の目で見たもの。耳で聞いたこと。自分の手で触れ、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、心で感じたこと…。その時に体験したすべてが、生涯の宝となりました。オザキマサキさんのお話を聴きながら、9年を経た今なお、こんなにも鮮明に蘇ったのは、「体験したこと」の持つ力だったのだと思います。心細く一本道をひとり歩いた、あの時の自分に、よくやった! と声を掛けている、今の自分がいました。

続く「お結び」のワークショップでは、始めにスタッフの方によるデモンストレーションが行われました。心を込めて料理する人の姿は美しいものだなぁと思いながら、初女さんのお姿を重ねて眺めていました。下の写真は、左が「森のイスキア」到着後の昼食に、初女さんが握ってくださったお結び。右が今回の参加者のお結びです。まだまだ修行が足りないのは歴然ですが(笑)、精一杯真似て握ったお結びは、我ながら上出来の美味しさでした!

今年も間もなく終わろうとしています。この一年、いろいろなことがありました。豪雨や台風による二度の臨時休業、値上げや閉店時間の繰り上げなど、お客様にご負担やご不便をおかけし、心苦しいことの多い一年でもありました。寛容なご理解を賜りましたこと、改めて心より感謝申し上げます。一方で至らないことも多く、お叱りをいただきましたことは、真摯に心に留めていきたいと思っております。

いいことであれ、そうでないことであれ、「体験する」というのは貴重なこと。それぞれに意味があり、その時は気づかなくても、自分の力となって蓄えられ、いつかなにかにつながる時が来る。二の足を踏むよりも、勇気をもって一歩を踏み出し、一つでも多くの体験を重ねていきたい。それが年齢を重ねていくことの醍醐味でもあるんじゃないか…。先日の初女さんの催しを思い出しながら、そんなことを思う年の暮れです。

ドキュメント72時間

店のこと

2018年11月18日

もうずいぶん前からになりますが、あまりテレビを見なくなりました。今は時間がないせいもありますが、そもそも見たいと思う番組が見当たらないような。なので話題のドラマも、人気のアイドルもさっぱりわからず、知人との会話についていけないことしばしばです。そんな私ですが、最近、気に入っている番組があります。NHKの「ドキュメント72時間」です。

店を始めてから、金曜の夜は仕事終わりにヨガに出かけるのが日課となりました(ブログアロマキャンドルヨガ)。帰ってから、遅い夕食を軽く取り、お風呂から上がると、11時前。なんとなくテレビをつけ、たまたま見つけた番組です。

毎回、違ったある場所で三日間、つまり72時間、定点観察をするというもの。デパートの化粧品フロアだったり、東京湾の海釣り公園だったり、函館のハンバーガーショップだったり…。そこを訪れる人を映しながら、許可を得られればインタビューを。なぜここに来たのか、よく来るのか。

初めて見た回は、京都の私設図書館だったかと記憶します。ずいぶん以前に存在を知り、ぜひ行ってみたいと思いながら行けずじまい。その場所に興味をそそられ、最後まで見てしまいました。不思議な空気感の番組だなぁというのが、最初の感想です。ドラマのようにストーリーがあるわけではないので、途中から見ても、見逃す週があっても、一向に差し支えないのも好都合。以来、金曜の夜のお風呂上りは、「ドキュメント72時間」タイムとなりました。

登場人物はまったくの一般の人々。皆さん、カメラの前で話すなど、おそらく初めての経験だと思うのですが、聞き手のお人柄なのでしょうか。とつとつと語られる口調は、知り合いに話しかけるように自然です。ほんのわずかな会話から、その方の暮らしぶりや、人となりが垣間見られるよう。思わず知らず、人生観や美学がにじむことも。

恵まれた状況を想像させる方もあれば、逆の場合も。時には、カメラの前で話すには勇気が要ったろうと思う方も。それでも皆さんのお話には、一様になにかしらの幸福感が漂っているように感じます。どんな状況であれ、その方なりの幸せの見つけ方を知っておられる。それが「ドキュメント72時間」に登場される方の共通点のように思います。

たまたまそこにいる人が、ありのままの事情や思いを語る。ただそれだけのことなのですが、見ていてとても心地よく、いつからか、見終わったあと、えもいわれぬ充足感を味わっている自分に気づくようになりました。静かな感動、と言ってもいいような。

11月2日放送の「東京駅”銀の鈴”で会いましょう」の回では、とりわけ印象深い方がありました。言わずと知れた待ち合わせの場所「銀の鈴」前で、人待ち顔の高齢の男性。ご友人と、時々、この場所で待ち合わせをされるとのこと。そのご友人は病気がちで、ここまで来るのも大変で、会食はいつも駅構内の店なのだとか。

携帯電話を駆使される世代ではないのでしょう。時間を過ぎても来ない友人に、今日は体調が悪いのかと諦めて帰りかけるも、諦めきれずにまた戻り。そうこうするうちに、おぼつかない足取りのご友人が現れ、喜びの対面。見ている私も、思わず心の中で拍手。そのご友人が満面の笑みを浮かべて言われた言葉…。「幸せだねぇ」。

やられたぁ、って思いました。

まだ1ヶ月ありますが、開店から6年目の今年は、大きな転換点だったように思います。いろいろな問題が浮き彫りになり、その対応に追われるなか、「幸せ」についてよく考えるようになりました。私の思い描いていた「幸せ」って、一体どんなものだったんだろう。私にとっての本当の「幸せ」って、どんなものなんだろう…。

「絵に描いたような幸せ」という言葉があります。テレビコマーシャルのワンシーンみたいなイメージでしょうか。そういうものを遠目に見ながら、いつも自分と対比している私がいます。自分には備わっていないもの、自分には手に入れられないもの。そんなものばかりを欲しがって、いつも誰かを羨んでいる私が…。

「幸せ」と「不幸せ」は表裏一体。七夕の短冊のように、表と裏を絶えず翻しながら、私たちのまわりでひらひらと舞っているものかもしれない。同じ状況であっても、どちらの面が見えるかは、私たちの視点次第…。「ドキュメント72時間」を見ていて、ふと、そんなことを思いました。

今、あまりに作り物過ぎるもので溢れかえっている気がします。もはや、どれが本物で、どれが作り物か、その判断もつかないくらいに。私が思っていた「絵に描いたような幸せ」も、そうした作り物の一つに過ぎなかったのでしょう。人の数だけ人生があり、人の数だけ「幸せの絵」がある。「幸せの絵」は自分の手で描いていくもの。それが「本物の幸せ」。そんな当たり前のことに、ようやく気づいたこのごろです。

はてさて「しののめ寺町」で「ドキュメント72時間」をやったらどんな感じでしょうか。お客様にとって、私たちにとって、それぞれに幸せを感じられる場所でありたいと願います。

何必館の時間2

アートなこと

2018年10月27日

京都には大小たくさんの美術館や博物館があります。いたる所に画廊があり、デパート開催の展覧会もあり。アート好きな私にとって、京都は有り難い街です。なかでも私が一番好きなのが「何必館・京都現代美術館」。祇園の真ん中にある、それはそれは素敵な美術館です(ブログ何必館の時間)。

店の定休日は、心身のメンテナンスと、たまった用事を片づけている間に終わり。自分の楽しみに使う時間はなかなか捻出できないのが現実です。働く女性は、皆さん同じようなものかもしれません。特に今年は夏の猛暑やたて続く災害もあり、心身ともに余裕のない日が続いていました。

芸術の秋とはよくいったもの。秋の気配を感じるようになったとたん、何必館に行きたいなぁという思いが、ふっと湧いてきました。開催中の展覧会に…ではなく、何必館に…というのがおもしろいところです。

これまでに何必館で観た展覧会は、サラ・ムーンやロベール・ドアノーなど、写真展が多かったでしょうか(ブログ写真家ロベール・ドアノー)。そうたびたび出かけているわけではないのですが、いずれも強烈な印象で記憶に残っています。何必館開催の展覧会は、綺麗とか、心安らぐとか、そういうものとは一線を画した、なんというか緊張を伴うもののように思います。

大きな美術館と違い、フロアに私一人ということしばしば。作品から発せられるエネルギーに射すくめられ、時には恐怖すら感じ、早く誰か来てぇ、と心で叫んでしまう、なんてことも。それでも、決して目をそらさないぞ、と踏ん張って、一枚一枚の作品と対峙する時間。それは取りも直さず自分自身と向き合う時間でもあるような。私にとって何必館は、ただの鑑賞者でいることを許されない、そんな気がする美術館です。

さて、開催中の展覧会を調べてみると、「いま、又、吉田カツ展」とのこと。イラストレーターとしても活躍された画家さんのようです。存じ上げない方でしたが、何必館での展覧会には裏切られない。そんな確信を持って出かけて行きました。

こどもが思いのままに絵の具を塗りこめたような自然や静物。かと思うと、エロス溢れる男女の姿態…。どれも自由で、大胆で、生命力ほとばしる絵ばかり。奔放さにたじろぎながらも、ふっと笑ってしまうユーモアも垣間見え。いやはや、気持ちのいい展覧会でした。

全作品を観終わったあと、導かれるように最上階の坪庭「光庭」に辿り着くのが、この美術館の魅力のひとつです。その前に置かれたソファーでひと休みするのが、私のお約束。外の雑踏をよそに、ここだけ時間が止まっているかと思うばかりの静けさのなか、光射しこむ天窓を突き抜けて枝を伸ばす木を見上げていると、さっきまでの張りつめた気持ちから、一気に解放されていくよう。ふと、座禅を終えて縁側で庭園を眺めている時って、こんな感じかも、なんて思ったり。座禅の経験はないのですが…。

帰宅後、改めてホームページを開いてみました(http://www.kahitsukan.or.jp/)。そこで、定説を 「何ぞ必ずしも」 と疑う自由な精神を持ち続けたい…。そんな願いをこめて「何必館」と名づけられたことを知りました。私がなぜこうも、この美術館に心魅かれるのか。改めて腑に落ちた思いでした。

なににつけ、まわりを見渡し、他のなにかと比べ、その中に自分を当てはめがちな私。そこでは自分に欠けているものしか見えなくて。自分は外れているとしか思えなくて。どんどん自分を不自由にして、そうして自分を見失ってしまう…。

何必館の展覧会を観る時、私はとても自由な気持ちになります。作家のエネルギーに触発されて、ふだん囚われているもの…幻の「当たり前」や、幻の「ふつう」や、幻の「みんな」…。そんなものを根こそぎ剥ぎ取って、ありのままの自分に帰っていける気がするのです。

ただ、それだけでは済まされないのが「何必館」。作品の向こうから、作家の鋭い眼差しが、その自由を支える強さはあるか? その孤独に耐える覚悟はあるか? 厳しい問いを突き付けてきます。たちまち、あたふたしてしまう私。残念ながら、まだまだのもようです。

何必館で過ごす時間の中で、好きなアートを通して、定説を「何ぞ必ずしも」と疑う自由な精神を持ったひとになっていきたい…。そんなことを思った秋の一日でした。

価格とは

店のこと

2018年10月03日

先般よりお知らせしていましたが、9月14日より価格の改定をさせていただきました。既に新価格でご購入いただいたお客様はいらっしゃるでしょうか。どのような感想を持たれたか、気になるところです。

開店から6年半。この間に、原材料、包装資材など、諸々のものが値上がりしてまいりました。実のところ、価格の見直しは、数年前からいつも頭の片隅にあったことでした。

そんななか、昨年末より、ちりめんじゃこの不漁と価格高騰という事態に。これまでにない深刻な状況に、いよいよ値上げやむなし。との思いを強くし、年頭より今年最大の課題と位置付けた次第です。

とはいえ、価格の改定は大きなリスクを伴います。額はどのくらいが妥当か。時期はいつが適切か。果たしてお客様に受け容れていただけるのか…。慎重にも慎重な検証が必要です。

うちの商品をまじまじと眺めながら、まわりにに溢れる商品やサービスを見渡しながら、頭の中にあるのはいつも「価格」のこと。

ふだん自分はどんな風に買い物をしているんだろう、と考えてもみました。目の前にある物やサービスと、それにつけられた価格を見比べ、納得すれば買うし、納得しなければ買わない。

結果、満足することもあれば、不満に思うこともあり。そうした経験を繰り返し、自分なりの値ごろ感をつかみ、価値観を培い、私流の購買行動が生まれていったんだなぁ、と思います。

店を始めて、価格の仕組みや、からくりなど、少しわかってきました。売る側と、買う側、双方の思いがあり、うまくかみ合うか、かみ合わないか。その駆け引きの妙が、買い物の醍醐味というものなのかもしれない。

なんて偉そうなことを思いつつも、自分の店のこととなると、一向に答えが出ません。そもそも値上げなど、お客様から喜ばれるはずもないこと。答えを出すのが怖い、というのが正直なところかもしれません。

京都には「おじゃこ」を扱われるお店が、数えきれないくらいあります。今回の値上げに当たっても、店頭で、ネットで、他店をいくつか調べてみました。

破格に安価なお店から、破格に高額なお店までさまざまです。各店の価格には、それぞれに意味があり、その意味を求めるお客様で、そのお店は成り立っているのでしょう。

7年前の秋、急に決まった開店でした。物件が見つかるや、短い準備期間のなか、改装や備品の調達などハード面の整備に忙殺される毎日。独立という事情から、価格については踏襲するのが当たり前と考え、改めて見直す余裕もないままのスタートとなりました。

開店から、どれくらいのお客様に来ていただいたでしょう。お一人お一人がご購入の折に、ふと漏らされるご意見やご感想があります。私たちの思いが伝わっていると実感できることもあれば、ズレに気づかされることも。

出来る範囲で改善を繰り返してきましたが、そうしたことでは解消し切れない、もどかしさのようなものが、いつからか私の中から消えないものとなりました。これは一体なになのか…。

それは、自分たちの価値をお客様にきちんと伝えられていない、という歯痒さなのではないか。そう思い至りました。

厳選された上質な素材を使い、秘伝の調味で、毎日、炊き上げるじゃこ山椒(ブログ味2)。風情ある街、寺町で、安心安全な手作りの味を、手から手へ届けること。それが私たちの価値であると考えています。

そうした価値を表現するもの。それが価格なのではないか。適正につけられた価格は、単なる値段にとどまらず、価値を雄弁に語ってくれるものなのだと気づきました。

お客様に喜んでいただくことは、なにより大切なことです。同時に自分たちが心身ともに健康で、喜びを感じながら商売をできること。不遜ながら、それもまた大切なことだと考えます。

そうして長く店を続けていくことが、ひいてはお客様の喜びにつながる…。そうあれることが願いですが、そのために欠くことができないのが、やはり適正につけられた価格なのでは。

価格について考えることは、店の有り様(ありよう)について、自分たちの人生について、考える良い機会となりました。

一方で、漁の回復を期待してきましたが、春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が来るも、その兆しは見えず。これ以上の先延ばしはできないと判断いたしました。熟慮を重ね、最後は他店との比較ではなく、うちとしての適正価格を探り、出したのが今回の価格です。

暴利をむさぼるつもりは毛頭ありません。どんな反応も受ける覚悟ができたところで、日程を9月14日と決め、店頭やホームページでの告知に踏み切りました。ところが…。

価格表の変更など諸々の準備を終え、あとは当日を待つばかりとなった、前日の9月13日。その日は定休日でしたが、私は朝からパニック状態に陥っていました。お客様から非難ごうごう受け、泣きそうになっている自分の姿が、頭から離れません。

気休めでもなんでも、なにかしていないと、緊張と恐怖で圧し潰されそう。足裏マッサージ、岩盤浴、等々…。日頃、時間とお金を割り振りながら受けている心身のメンテナンスを、贅沢にも朝から夕方までフルコース詰め込みました(笑)。

蓋を開けてみると、お客様の反応は思いのほか寛容なものでした。「スーパーで売っているちりめんじゃこも高くなっているわねぇ」なんて、理解を示してくださるお客様も。

私は幻の魔物と、ひとり格闘していたんですね。ここまでプレッシャーに弱い人間だったかと呆れるばかりですが、うれしい肩透かしに、ただただホッとしているところです。

まだ値上げをご存じでないお客様もたくさんいらっしゃいます。ご負担をお掛けすることは心苦しくはありますが、丁寧に説明を続けていこうと思っております。何卒ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。

マザーレイク 琵琶湖

心と体のこと

2018年09月04日

9月となりました。残暑はまだ続きそうですが、ひとまずやれやれ、というところでしょうか。甚大な被害をもたらした西日本豪雨、連日の猛暑…。天候だけをとってみると、とても過酷な夏だったように思いますが、皆様はどのように過ごされましたでしょう。

 

私はといいますと、正直のところ、心身共にとても消耗した夏でした。開店から6年となる今年は、年初からなにかと難しさを感じる年でした。無我夢中だった5年を過ぎ、至らなさばかりが目についたり。先延ばしにしていた問題が、一気に噴出したり…。解決していくには、知恵も経験もまだまだ足りず、手をこまねいているばかり。「6年目の壁」というものがあるのかどうか存じませんが、いよいよ力を試される年にさしかかったんだなぁと、見えないプレッシャーがつきまとう前半戦でした。

 

こうした精神状態に追い打ちをかけたのが、今年の天候。日本各地で起こる想定外と言われる異常気象の連続に、先の見えない不安が増幅したのでしょうか。心身のバランスを保つことが、とても難しい夏だったように思います。(ブログ西日本豪雨のこと

 

そんな身には夏休みが待ち遠しいところですが、世の中のお盆休みは、「しののめ寺町」がふだんより賑わう時期。毎年、少しあとにずらして夏休みをいただくことにしています。が、この時期からの一日一日の堪(こた)えることといったらありません。人間の体は、お盆に休養するようにできているに違いない、と思うくらい。暑かった今年はなおさらで、一日千秋の思いで待つ夏休みでした。

 

店を始めるまでは旅好きだった私ですが、今は計画することも、出かけることも億劫に。休みは「ただただ家にいたい派」になってしまいました。気づけば、もう何年も旅行らしい旅行をしていません。体は楽ちんですが、気持ちをリフレッシュするには、やはり違った場所に身を置く方がいいのかも…。

 

今年は気持ちの疲れの方が勝(まさ)っていたのでしょうか、そんなことを考えていると、無性に琵琶湖に行きたくなりました。ここなら京都からは近く、面倒な計画も要らず、日帰りでも充分のんびりすることができます。

 

夏休みに入った初日、スイッチを一気にオフにすべく、さっそく出かけてみました。幸い猛暑が一段落した日。あいにくの曇り空で、湖面も美しい色とは言えませんでしたが、疲れた心身には、これくらいがいい感じ。琵琶湖から吹く風は心地よく、あぁ、夏休みだぁ~と、心も体もたちまち解放された気分になりました。

 

なにしろ琵琶湖が大好きな私。以前は、年に何度も出かけたものです。大きくて、穏やかで、眺めているだけで、安心感に包まれるよう。心沈む時などは、一人でふらりと出かけ、飽かず湖面を眺めたことも。開店間もない頃、行き詰まった思いで出かけた先も、やっぱり琵琶湖でした(ブログ滋賀県 菅浦 つづらお荘)。琵琶湖は「マザーレイク(母なる湖)」と呼ばれていますが、私にとってまさにそんな存在です。

 

久し振りに眺める琵琶湖は、やっぱり大きくて、穏やかで。いいことも、そうでないことも、すべて優しく包みこんで、受け容れてくれました。リゾートと呼ぶにはあまりにささやかですが、とても豊かな時間を過ごすことができました。

 

長い長い夏でした。過酷だった分、いろんなことを考え、そのなかで気づくことがたくさんありました。気づいたことを、後半戦は行動に移していける人になりたい。うまくいくこと、いかないこと、あるでしょう。それでも、失敗を恐れず。たとえ失敗したとしても、そんな自分をも受け容れられる私でありたい。琵琶湖を眺めながら、そんなことを思った夏休み…。

 

私の心の中に、碧(あお)い水を湛えた、小さな小さな湖が生まれた気がしています。

 

【追記】このブログは、台風で臨時休業となった9月4日午前に書き上げました。それから想像を絶する台風の襲来。幸い、自宅と店は大丈夫でしたが、各地で大きな被害が出ているもよう。心からのお見舞いと、一日も早い復旧をお祈りしています。

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