ボヘミアン・ラプソディ

アートなこと

2019年02月27日

映画「ボヘミアン・ラプソディ」をご覧になった方はあるでしょうか? 伝説のロックバンド、クイーンをモデルにした映画です。クイーンのファンというわけではないのですが、心魅かれるものがあり出かけてきました。

といっても1月のこと。ブログに書くのがすっかり遅れてしまいました。が、期せずしてアカデミー賞受賞で話題に上る時期と重なり、これはこれで良いタイミングだったということでご容赦を(笑)。

この映画を観て初めてメンバーの一人一人を知ったほどの無知ぶりですが、予備知識なく観るのもまた新鮮なものでした。

そんな私でも映画の中で流れる曲は、いずれもどこかで聴き覚えがあり、これってクイーンの曲だったのかと思うものばかり。改めて偉大さを知った次第です。

今は亡きボーカルのフレディ・マーキュリーを中心に据えたストーリーですが、自信満々に見える姿のむこうに、様々な葛藤があったことが描かれています。出自のこと、容貌やセクシュアリティのこと、スターならではの苦悩も…。

なんでも上顎の歯の数が通常より多かったらしく、特徴的な歯並びをからかわれることも多かったようです。けれど伸びやかな声と、音域4オクターブのサウンドは、この歯のお蔭だと信じ矯正しなかったとのこと。

自信をつけていくに従い、歯を隠していた仕草が徐々になくなり、大きく口を開けて歌ったり笑ったりするようになったというのは、示唆に富んだエピソードです。

自分がコンプレックスに思っている部分は、実は自分にとって大切な特性なのかもしれません。が、そう思うには、相当の自信がなけれ難しい。たいていはコンプレックスのまま包み隠してしまいがちではないでしょうか。

フレディ・マーキュリーの場合、葛藤しつつも、その自信を支えたものはなにだったのだろうと考えます。

それは、一貫して自分に正直であったことではないでしょうか。ひとと対峙する時、自分の思いを率直に語ること。既成の価値に囚われず、自分の価値を尊重すること。前に進む時の指標が、外のどこかではなく、自分の内にあること…。

自分に正直であることは、自分を支える最強の力になるのだと思いました。

恋愛関係が終わった後も、生涯にわたってフレディの真の友人であり続けた女性メアリーとの関係も、この映画の大きな柱になっているように感じました。

多様なセクシュアリティについて、まだ理解を得られていなかった時代。一般には不思議に思える関係だったことと思います。が、恋人、夫婦、友人といった一般にある枠組みを超越した、固有の愛情が交わされていたのだなぁと想像します。これもまた、自分に正直であればこそ成立した関係だったでしょう。

既成概念にとらわれず、自分をなにかに分類することなく、ただありのままでいることを大切にして生き切った人生。だからこそ生まれたクリエイティブな音楽…。それが、クイーンというバンドが、フレディ・マーキュリーという人物が、多くの人に愛された所以なのではないでしょうか。

かくいう私も一夜でたちまちファンになり、さっそくCDを購入してしまった次第。にわかファンの私などが、こんなことを語るのは僭越ですが…。

フレディ・マーキュリーが生きた時代より、さらに年月が過ぎた今。誰もが自由に発信でき、多様なことが少しずつ認められるようになってきました。

その一方で、いいことも、よくないことも、たちまちに拡散し、いつ非難の的になってしまうかわからない怖さも併せ持つように。なにが正しくて、なにが間違っているのか。溢れる情報のなかで、混沌とした時代を生きている気がします。

フレディ・マーキュリーのような才能もカリスマ性もないけれど、私は私の価値に照らして、自分の中の指標に導かれて進んでいきたい。たとえ、それが、まわりと少しばかり違ったものだったとしても恐れずに。

そのために必要なこと、それは、ひとえに自分に正直であること。

そう確信させてくれた「ボヘミアン・ラプソディ」。素晴らしい映画と出会えました。さらにロングラン上映されることになるかもしれません。ご興味ある方は、是非ご覧になってみてください。

なんくるないさー

店のこと

2019年01月26日

新年のご挨拶がすっかり遅くなってしまいました。皆様、どのようなお正月を過ごされましたでしょう? 九州地方では新年早々に地震があったもよう。被害に遭われたお客様はなかったでしょうか? 今年こそ災害のない一年になることを祈るばかりです。

私はと言いますと、ちょっと長めのお休みをいただいたお蔭で、ゆっくりとした時間を過ごすことができました。ありがとうございます。といって優雅なことなどなにもなく、元日から家の整理なぞ始めてしまいました。「しののめ寺町」開店と共にライフスタイルが変わったのに、家の中の収納は「ほぼ専業主婦」時代と変わらぬまま。時間のない身には、使い勝手が悪くなってきていました。ああでもない、こうでもないと、1階と2階を何度も往復しては、引き出しの中の物をあちらへ、こちらへ…。

お正月からなにやってるんだかと呆れながらも、ぬくぬくとした幸せな気持ち…。気ままに過ごせる時間と空間というのは、それだけで、なんとありがたいものでしょう。一日の大半を店で過ごす生活になり、身に沁みて思うようになったことです。そんな自分の一年の労をねぎらいつつ、心からの安息を味わう贅沢な時間となりました。

毎年のことながら、昨年もいろんなことがありました。店をやっていくには、まずは心身の健康が第一です。が、生身の体、いつもいつも万全というわけにはいきません。時に、明日、店を開けられるだろうかと不安になることも。健康面のみならず、次々出てくる課題に途方に暮れてしまうことも。そんな時、決まって口をついて出てくる言葉があります。

「なんくるないさー」。

店を始める前、沖縄の宮古島に一人出かけたことがあります(ブログ宮古島 農家民宿 津嘉山荘)。以来、宮古島を第二の故郷のように思っている私(ブログ月は満ち 欠け また満ちていく)。しんどいなぁと思う時、宮古島の美しい海を思い出します。こんな時、おおらかな沖縄の人は、どんな風に声を掛けてくれるだろう。なんて想像しているうちに、いつからか自分を励ます言葉になりました。

なんとかなるさ、って感じでしょうか。心の中で唱えるだけでは飽き足らず、聞きかじりの沖縄のイントネーションで、声に出して言うこともあります。「なんくるないさー」。しんどければしんどいほど、大きな声で「なんくるないさー」。空に向かって「なんくるないさー」。知らない人が見たら、かなり怪しい光景です(笑)。

昨年は何度「なんくるないさー」と口にしたことでしょう。繰り返し言っているうちに、本当になんとかなるような気がして、そうして一日、一日をやり過ごし、気づけば最終日にたどり着いていた…。そんな一年でした。

なんとかなったのかどうかはわかりませんが、とにもかくにも無事に一年を終えられたこと。お正月から家の整理などしながらも、幸せな気持ちの自分がいたこと。それが私なりの「なんくるないさー」だったのだと思います。

ブログを書くにあたり、念のため「なんくるないさー」の意味を調べてみました。そこには辛苦を経験された沖縄の方たちの歴史があること。命があることに感謝し、たとえ報われなくても希望を持って前に進んでいこう。そんな思いのこもった言葉であることを知りました。

私は言葉には魂が宿っていると信じています。言霊(ことだま)です。「なんくるないさー」と口にする時に、体の中から湧いてくるエネルギー。それは辛苦を経験された沖縄の方たちの、魂のこもった言葉だからこそだったのだと、改めて思い知った次第です。

最終日、仕事を終えたあと、心からの安堵と解放感をかみしめながら、ちょっと街中に出てみました。立ち寄った店で、たまたまビートルズの「Let  it  be (レットイットビー)」が流れていました。「なすがまま、あるがまま」という意味でしょうか。「Let  it  be Let  it  be Let  it  be Let  it  be…」。お馴染みのリフレインに聴き入りながら、ふと、英語版「なんくるないさー」じゃないかと思いました。

そういえばフランスでは「ケセラセラ」なんて歌もあります。微妙なニュアンスは違うのかもしれませんが、いずれも底流には同じものがある気がします。困難に真摯に向き合い、努力を続けながらも、最後は目に見えない大きな力に委ねてみよう…って感じでしょうか。軽やかな音(おん)のリズムが心地いいのも共通しています。洋の東西を問わず、古来より人は、こうした言葉を口にしながら、人を励まし、自分を励まし、そうして生きてきたのだなぁ、なんて思いに耽ってしまいました。

今年は元号が変わったり、消費税の値上げもあったり、また大変な年になりそうです。まずは自力でがんばれる限りがんばって、あとはやっぱり「なんくるないさー」。そんなことを思う1月です。

今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

佐藤初女さんのこと5

素敵な女性

2018年12月27日

先月末のことになりますが、素敵な催しに出かけてきました。青森県弘前市、岩木山の麓に建つ「森のイスキア」。そこで「食は命」の信念のもと、全国からの来客をもてなされてきた佐藤初女さん…。その最晩年をカメラに収められたカメラマン、オザキマサキさんの写真展です。

写真展を拝見するのは二度目なのですが(ブログ佐藤初女さんのこと4)、今回は初女さんの遺志を引き継ぐ方たちによるワークショップ「お結びの会」という、素敵なおまけ付きです。まずはオザキマサキさんのトークショーからスタート。スクリーンに「森のイスキア」の風景や在りし日の初女さんのお姿が、スライドショーとなって映し出されます。撮影時のエピソードを交えながら、その時々に感じてこられたことを語られました。

初女さんが、髪を垂らして横たわる女性の横顔のようだと例えられた、岩木山の優美な稜線。「森のイスキア」の台所や各部屋の設え。初女さんが野菜を切ったり、ごはんをよそわれる時の佇まい。初女さんのまわりで、かいがいしく立ち働かれるスタッフの皆さんの表情や声。旬の食材のあれこれ。そこにたゆたう空気感…。

9年前のことになりますが、「森のイスキア」を訪ね、初女さんの心づくしの手料理ともてなしを受ける幸運に恵まれた私(ブログ佐藤初女さんのこと2)。写真を見ながら、トークを聴きながら、その時のことが鮮明に思い出され、心の中で「そうそう!」と何度も叫んでいました。

あぁ、体験するというのはこういうことか、と思いました。

繊細な感性をお持ちのオザキマサキさんのお話は、それはそれは素晴らしいものでした。「森のイスキア」に出かけたことのない方たちの心にも、十分に伝わったと思います。それでもやはり、そこにいたかのような臨場感で伝わる思いは、行ったことがある者だからこそ、だったのではないでしょうか。

私が森のイスキアまで出かけたと知ると、皆さんよく「行きたかったけど、遠くて…」と言われます。私も調べた時、確かに遠いし不便な場所だなぁと思いました。でも、同時に思ったのです。遠いけれど、不便だけれど、行こうと思えば行ける、と。

実際にに行ってみると、本当に遠くて不便な場所でした(笑)。電車に乗り、バスに乗り、最後は徒歩しかありません。合っているかもわからぬまま、不安な思いいっぱいで、半ば後悔しながら、ひとり歩いた一本道。いったい何に突き動かされて、こんなところまで来てしまったのかと…。うしろで引っ張るキャリーバッグの音が、そんな私にぶつくさ言っているようでした(ブログ佐藤初女さんのこと3)。

そうまでして出かけて行った「森のイスキア」。そこで自分の目で見たもの。耳で聞いたこと。自分の手で触れ、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、心で感じたこと…。その時に体験したすべてが、生涯の宝となりました。オザキマサキさんのお話を聴きながら、9年を経た今なお、こんなにも鮮明に蘇ったのは、「体験したこと」の持つ力だったのだと思います。心細く一本道をひとり歩いた、あの時の自分に、よくやった! と声を掛けている、今の自分がいました。

続く「お結び」のワークショップでは、始めにスタッフの方によるデモンストレーションが行われました。心を込めて料理する人の姿は美しいものだなぁと思いながら、初女さんのお姿を重ねて眺めていました。下の写真は、左が「森のイスキア」到着後の昼食に、初女さんが握ってくださったお結び。右が今回の参加者のお結びです。まだまだ修行が足りないのは歴然ですが(笑)、精一杯真似て握ったお結びは、我ながら上出来の美味しさでした!

今年も間もなく終わろうとしています。この一年、いろいろなことがありました。豪雨や台風による二度の臨時休業、値上げや閉店時間の繰り上げなど、お客様にご負担やご不便をおかけし、心苦しいことの多い一年でもありました。寛容なご理解を賜りましたこと、改めて心より感謝申し上げます。一方で至らないことも多く、お叱りをいただきましたことは、真摯に心に留めていきたいと思っております。

いいことであれ、そうでないことであれ、「体験する」というのは貴重なこと。それぞれに意味があり、その時は気づかなくても、自分の力となって蓄えられ、いつかなにかにつながる時が来る。二の足を踏むよりも、勇気をもって一歩を踏み出し、一つでも多くの体験を重ねていきたい。それが年齢を重ねていくことの醍醐味でもあるんじゃないか…。先日の初女さんの催しを思い出しながら、そんなことを思う年の暮れです。

ドキュメント72時間

店のこと

2018年11月18日

もうずいぶん前からになりますが、あまりテレビを見なくなりました。今は時間がないせいもありますが、そもそも見たいと思う番組が見当たらないような。なので話題のドラマも、人気のアイドルもさっぱりわからず、知人との会話についていけないことしばしばです。そんな私ですが、最近、気に入っている番組があります。NHKの「ドキュメント72時間」です。

店を始めてから、金曜の夜は仕事終わりにヨガに出かけるのが日課となりました(ブログアロマキャンドルヨガ)。帰ってから、遅い夕食を軽く取り、お風呂から上がると、11時前。なんとなくテレビをつけ、たまたま見つけた番組です。

毎回、違ったある場所で三日間、つまり72時間、定点観察をするというもの。デパートの化粧品フロアだったり、東京湾の海釣り公園だったり、函館のハンバーガーショップだったり…。そこを訪れる人を映しながら、許可を得られればインタビューを。なぜここに来たのか、よく来るのか。

初めて見た回は、京都の私設図書館だったかと記憶します。ずいぶん以前に存在を知り、ぜひ行ってみたいと思いながら行けずじまい。その場所に興味をそそられ、最後まで見てしまいました。不思議な空気感の番組だなぁというのが、最初の感想です。ドラマのようにストーリーがあるわけではないので、途中から見ても、見逃す週があっても、一向に差し支えないのも好都合。以来、金曜の夜のお風呂上りは、「ドキュメント72時間」タイムとなりました。

登場人物はまったくの一般の人々。皆さん、カメラの前で話すなど、おそらく初めての経験だと思うのですが、聞き手のお人柄なのでしょうか。とつとつと語られる口調は、知り合いに話しかけるように自然です。ほんのわずかな会話から、その方の暮らしぶりや、人となりが垣間見られるよう。思わず知らず、人生観や美学がにじむことも。

恵まれた状況を想像させる方もあれば、逆の場合も。時には、カメラの前で話すには勇気が要ったろうと思う方も。それでも皆さんのお話には、一様になにかしらの幸福感が漂っているように感じます。どんな状況であれ、その方なりの幸せの見つけ方を知っておられる。それが「ドキュメント72時間」に登場される方の共通点のように思います。

たまたまそこにいる人が、ありのままの事情や思いを語る。ただそれだけのことなのですが、見ていてとても心地よく、いつからか、見終わったあと、えもいわれぬ充足感を味わっている自分に気づくようになりました。静かな感動、と言ってもいいような。

11月2日放送の「東京駅”銀の鈴”で会いましょう」の回では、とりわけ印象深い方がありました。言わずと知れた待ち合わせの場所「銀の鈴」前で、人待ち顔の高齢の男性。ご友人と、時々、この場所で待ち合わせをされるとのこと。そのご友人は病気がちで、ここまで来るのも大変で、会食はいつも駅構内の店なのだとか。

携帯電話を駆使される世代ではないのでしょう。時間を過ぎても来ない友人に、今日は体調が悪いのかと諦めて帰りかけるも、諦めきれずにまた戻り。そうこうするうちに、おぼつかない足取りのご友人が現れ、喜びの対面。見ている私も、思わず心の中で拍手。そのご友人が満面の笑みを浮かべて言われた言葉…。「幸せだねぇ」。

やられたぁ、って思いました。

まだ1ヶ月ありますが、開店から6年目の今年は、大きな転換点だったように思います。いろいろな問題が浮き彫りになり、その対応に追われるなか、「幸せ」についてよく考えるようになりました。私の思い描いていた「幸せ」って、一体どんなものだったんだろう。私にとっての本当の「幸せ」って、どんなものなんだろう…。

「絵に描いたような幸せ」という言葉があります。テレビコマーシャルのワンシーンみたいなイメージでしょうか。そういうものを遠目に見ながら、いつも自分と対比している私がいます。自分には備わっていないもの、自分には手に入れられないもの。そんなものばかりを欲しがって、いつも誰かを羨んでいる私が…。

「幸せ」と「不幸せ」は表裏一体。七夕の短冊のように、表と裏を絶えず翻しながら、私たちのまわりでひらひらと舞っているものかもしれない。同じ状況であっても、どちらの面が見えるかは、私たちの視点次第…。「ドキュメント72時間」を見ていて、ふと、そんなことを思いました。

今、あまりに作り物過ぎるもので溢れかえっている気がします。もはや、どれが本物で、どれが作り物か、その判断もつかないくらいに。私が思っていた「絵に描いたような幸せ」も、そうした作り物の一つに過ぎなかったのでしょう。人の数だけ人生があり、人の数だけ「幸せの絵」がある。「幸せの絵」は自分の手で描いていくもの。それが「本物の幸せ」。そんな当たり前のことに、ようやく気づいたこのごろです。

はてさて「しののめ寺町」で「ドキュメント72時間」をやったらどんな感じでしょうか。お客様にとって、私たちにとって、それぞれに幸せを感じられる場所でありたいと願います。

何必館の時間2

アートなこと

2018年10月27日

京都には大小たくさんの美術館や博物館があります。いたる所に画廊があり、デパート開催の展覧会もあり。アート好きな私にとって、京都は有り難い街です。なかでも私が一番好きなのが「何必館・京都現代美術館」。祇園の真ん中にある、それはそれは素敵な美術館です(ブログ何必館の時間)。

店の定休日は、心身のメンテナンスと、たまった用事を片づけている間に終わり。自分の楽しみに使う時間はなかなか捻出できないのが現実です。働く女性は、皆さん同じようなものかもしれません。特に今年は夏の猛暑やたて続く災害もあり、心身ともに余裕のない日が続いていました。

芸術の秋とはよくいったもの。秋の気配を感じるようになったとたん、何必館に行きたいなぁという思いが、ふっと湧いてきました。開催中の展覧会に…ではなく、何必館に…というのがおもしろいところです。

これまでに何必館で観た展覧会は、サラ・ムーンやロベール・ドアノーなど、写真展が多かったでしょうか(ブログ写真家ロベール・ドアノー)。そうたびたび出かけているわけではないのですが、いずれも強烈な印象で記憶に残っています。何必館開催の展覧会は、綺麗とか、心安らぐとか、そういうものとは一線を画した、なんというか緊張を伴うもののように思います。

大きな美術館と違い、フロアに私一人ということしばしば。作品から発せられるエネルギーに射すくめられ、時には恐怖すら感じ、早く誰か来てぇ、と心で叫んでしまう、なんてことも。それでも、決して目をそらさないぞ、と踏ん張って、一枚一枚の作品と対峙する時間。それは取りも直さず自分自身と向き合う時間でもあるような。私にとって何必館は、ただの鑑賞者でいることを許されない、そんな気がする美術館です。

さて、開催中の展覧会を調べてみると、「いま、又、吉田カツ展」とのこと。イラストレーターとしても活躍された画家さんのようです。存じ上げない方でしたが、何必館での展覧会には裏切られない。そんな確信を持って出かけて行きました。

こどもが思いのままに絵の具を塗りこめたような自然や静物。かと思うと、エロス溢れる男女の姿態…。どれも自由で、大胆で、生命力ほとばしる絵ばかり。奔放さにたじろぎながらも、ふっと笑ってしまうユーモアも垣間見え。いやはや、気持ちのいい展覧会でした。

全作品を観終わったあと、導かれるように最上階の坪庭「光庭」に辿り着くのが、この美術館の魅力のひとつです。その前に置かれたソファーでひと休みするのが、私のお約束。外の雑踏をよそに、ここだけ時間が止まっているかと思うばかりの静けさのなか、光射しこむ天窓を突き抜けて枝を伸ばす木を見上げていると、さっきまでの張りつめた気持ちから、一気に解放されていくよう。ふと、座禅を終えて縁側で庭園を眺めている時って、こんな感じかも、なんて思ったり。座禅の経験はないのですが…。

帰宅後、改めてホームページを開いてみました(http://www.kahitsukan.or.jp/)。そこで、定説を 「何ぞ必ずしも」 と疑う自由な精神を持ち続けたい…。そんな願いをこめて「何必館」と名づけられたことを知りました。私がなぜこうも、この美術館に心魅かれるのか。改めて腑に落ちた思いでした。

なににつけ、まわりを見渡し、他のなにかと比べ、その中に自分を当てはめがちな私。そこでは自分に欠けているものしか見えなくて。自分は外れているとしか思えなくて。どんどん自分を不自由にして、そうして自分を見失ってしまう…。

何必館の展覧会を観る時、私はとても自由な気持ちになります。作家のエネルギーに触発されて、ふだん囚われているもの…幻の「当たり前」や、幻の「ふつう」や、幻の「みんな」…。そんなものを根こそぎ剥ぎ取って、ありのままの自分に帰っていける気がするのです。

ただ、それだけでは済まされないのが「何必館」。作品の向こうから、作家の鋭い眼差しが、その自由を支える強さはあるか? その孤独に耐える覚悟はあるか? 厳しい問いを突き付けてきます。たちまち、あたふたしてしまう私。残念ながら、まだまだのもようです。

何必館で過ごす時間の中で、好きなアートを通して、定説を「何ぞ必ずしも」と疑う自由な精神を持ったひとになっていきたい…。そんなことを思った秋の一日でした。

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