やゑのさんのこと

素敵な女性

2021年08月09日

やゑのおばあさん

いつか書けるかな、書けたらいいな、と思っていたこと。書いてみます。

私は京都の中心部、その中でも下町の雰囲気漂うあたりで生まれました。苗字はたいていは父方の実家と同じ、でなければ母方の実家と同じだと思うのですが。うちは父方とも、母方とも違っていて、子供の頃、それがとても不思議でした。

自宅の仏壇には、高齢の女性の遺影が置かれていました。かつて一緒に住んでいて、私が幼い頃に亡くなったおばあさんです。そのひとの苗字を名乗っているんだろうとまでは想像がつきますが、なぜ、そのひとなのか…。

知りたければ両親に聞けばいいのに、触れてはいけないことのような気がして聞けない。私はそんな子供でした。

ほどなくその家から引っ越し、成長して新しい実家からも独立し、長い間すっかり忘れていました。

自分のルーツを知りたくなる年齢というのがあるのでしょうか。相当おとなになってから、このおばあさんのことがとても気にかかるようになりました。

彼女が亡くなったのは、どうやら私が3歳の時のよう。なので、ほとんど記憶がありません。それでも記憶を辿ると、その底の底に浮かぶ映像があります。

夏の夜、おばあさんとふたり、蚊帳のなか。そこで交わした言葉も、その声も鮮明に覚えています。

それが現実だったのか、私のイメージの中で作り替えられたものなのか。確かめる術もありませんが、大切にしている記憶です。

もう一度会いたい。会って、幼い日のようにそのかいなに抱かれたい。そんな思いが膨らみ、幽霊でもいいから出てきてほしい、なんて願うほどになりました。

そして、子供の頃に聞けなかったことを、やっと父に尋ねてみることにしました。

名前はやゑのさん。子供がなく、ご主人に先立たれてからは、自宅で小さな下駄屋を営みながら一人暮らしをしていたとのこと。子だくさんが当たり前の時代、さぞや寂しかったろうと思うのですが…。

おおらかで、世話好きな性格だったのでしょう。地域のひとたちとの交流も多く、民生委員もしていたとのこと。たくさんの人に慕われ、自宅が若い人たちの溜まり場になることもあったとか。

まだ独身だった父も、そんな一人として出入りするようになったようです。当時としては婚期を過ぎていた父の身を案じ、縁談を持ちかけ、よければうちの二階に住みなさいとまで提案し。その縁談の相手というのが母でした。

そんな人柄に、両親の親たちも信頼を寄せ、次男だった父は、結婚を機に夫婦で養子に入るということに相成ったようです。

そこに兄が生まれ、私が生まれ…。人目にはふつうの三世代同居に見えたことでしょう。

まさか晩年にこんな暮らしが待っているとは思ってもいなかったはず。実の祖母以上に、私たちを可愛がってくれたのではと思います。なのに申し訳なくも、私は彼女のことをなんて呼んでいたかも覚えていません。

なので、私の中では「やゑのさん」…。

やゑのさんのことをもっと知りたくなり、3歳上の兄にも尋ねてみたことがあります。するとこんな話をしてくれました。

やゑのさんが亡くなった通夜の日、私たちきょうだいは二階で寝かされていました。幼い私はすぐに寝てしまったようですが、兄はなかなか寝つけずにいたとのこと。

というのも、階下で多くの人が出入りし、そして歌い踊るような気配が夜遅くまで続いたというのです。兄はその時はわからなかったけれど、のちにその歌が朝鮮民謡「アリラン」だったと知ることに。

やゑのおばあさんは愛知が出自の日本人ですが、当時、私たちが住んでいたあたりには在日の方も多かったようです。ご近所さんとして、あるいは民生委員としてお世話するなかで、親しくなるひともいたのでしょう。

「アリラン」は確か中学の音楽で習いました。初めて聴いた時、なんともいえない郷愁を感じたことを覚えています。

「アリラン」が通夜の席で歌われる歌なのか、私にはわかりません。が、その切ない調べは、愛しい人の死を悼み、あの世に送るのにふさわしい歌のように思います。

やゑのさんを慕う在日の方たちが、思いを込めて歌ってくださったのでしょう。私自身は見ても聴いてもいないのに、映画のワンシーンのようにありありと浮かぶ光景…。今でも思い出すたびに、胸がきゅうっと締め付けられる思いがします。

このエピソード一つで、やゑのさんがどんな生き方をしてきた人なのかわかった気がしました。世の中がまだ貧しく、あからさまな差別もあったであろう時代に、地縁血縁を超えて、誰に対しても分け隔てなく寄り添って生きた一人の女性…。

いつからか、やゑのさんは私の永遠の憧れとなりました。

実は先だって父が亡くなり、遺品整理をするなかで古いアルバムが数冊出てきました。その中にやゑのさんの生前の姿がたくさん収められていました。

ご自身の親族はもとより、私の父方、母方、それぞれの両親とも親密に交流していた様子が写されています。着物に割烹着で、地域のお祭りで立ち働く姿なども。

どの写真もやゑのさんは柔和な笑顔で、そのまわりにはいつも和やかな空気が漂っています。

やゑのさんは、ひとや場をつなぐことが、とても上手な人だったんだなぁ。そして、まわりの幸せを、自分の幸せとして感じられる人だったんだなぁ。

そうやってつながれた縁の一つで、私がこの世に生を受けたんだと、改めて思い知ることとなりました。

もっと長生きしてほしかった。そうすれば、私の人生も少し違うものになっていたのではと残念でなりません。

けれど、3年の間に、やゑのさんは幼い私に自分の持てる全てを注ぎ込んでくれたんだ。今はそう信じたいと思います。

たおやかで、それでいて凛とした強さのある佇まい。私は彼女のようになりたい。時代も環境も違うけれど、彼女のような生き方をお手本としたい。そんな思いを強くした今年の夏。

そのために、私はなにができるだろう…。

やゑのさん、空の上からずっと見守っていてくださいね。

人生って、ただごとじゃないのよねぇ

素敵な女性

2021年02月25日

人生って、ただごとじゃないのよねぇ

このブログでも何度か書いていますが、行き詰まると出かけたくなるブックカフェがあります。そこに行くと答えが見つかるという不思議な場所です(ブログ画家 堀文子さんのこと(ブログ自分の中に毒を持て

去年の7月はじめ、その時もなにか行き詰っていたのでしょう、仕事帰りにふらりと出かけました。

座った席の前に並んでいたのが、翻訳家 須賀敦子さんのエッセイ数冊でした。やはり、このブログでも何度か書いている敬愛する女性の一人です(ブログユルスナールの靴 ユルスナールの靴2)。

「そうきましたかぁ!」と思わず心の中で叫んでしまいました(笑)。

見覚えのあるタイトルの中で、初めて目にするのが「遠い朝の本たち」でした。読書家であった須賀敦子さんが愛しんだ文学作品の数々を、それにまつわるエピソードと共に紹介されたもので、その最初の章が「しげちゃんの昇天」でした。

戦中戦後、多感な年ごろを共に過ごした幼馴染みのしげちゃん。よく文学談義をし、小説家になってもいいほどの文才がありながら、学校卒業と同時に戒律厳しい修道院に入ってしまいます。

「世の中で、だれか祈ることにかまける人間がいてもいいんじゃないかと思って」。そう言って…。

会うこともままならないまま互いに人生を重ね、ようやく会えたのは35年後。病床にあるしげちゃんを見舞った時でした。それも修道院の広い格子窓を隔てて。

大学のころの思い出話に花が咲くなか、こんなやりとりが交わされます。

 

ほんとうにあのころはなにひとつわかってなかった、と私があきれると、しげちゃんはふっと涙ぐんで、言った。ほんとうよねぇ。人生って、ただごとじゃないのよねぇ、それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きてた。

 

厳格な暮らしの中で、数知れぬ苦労があったはずなのに、そんなことは語らなかったというしげちゃん。この短い言葉の向こうに、どんな人生があったのでしょう。俗社会に生きる私には想像もつきません。

ただ、真に大人の女性が持つ寛容さと強さ。そうしたものがこの言葉には秘められている気がして、何度読み返しても心に迫ります。なんというか、哀しいのだけれど、美しい…。

それを汲み取り、静かに聞き入る須賀敦子さん。離れていても育み続けられた友情が、ひたひたと伝わってきます。そして最後、こう結ばれています。

 

しげちゃんが、ただごとでない人生を終えて昇天したのは、それからひと月もしないうちだった。

 

これが、行き詰っていたであろうその時の私の答えになったのかどうか、記憶は定かではありません。ただ、なにか腑に落ちるものを感じてカフェをあとにしたことを覚えています。

印象深く心に残ったこの言葉ですが、どうしたことか、このところしきりに思い出されます。年齢を重ね、経験を積むごとに実感する思いなのでしょうか。コロナ禍の混沌も影響しているかもしれません。

しげちゃんの、ただごとじゃない人生を支えたものはなんだったんだろうと考えます。私などが語るのは僭越ですが、それはやはり覚悟と信念だったのではないでしょうか。

自分が信じること、自分が決めたこと、そのことへの揺るぎない覚悟と信念。それが確かな指標となって、ただごとじゃない人生を全うされたんじゃないか。

この本は、病床にある須賀敦子さんが、最後まで推敲を加えて完成されたとのこと。須賀敦子さんもまた、ただごとじゃない人生を全うされたのだなぁと思います。ご自身の覚悟と信念を持って。

とうてい及びませんが、私もお二人のように、ただごとじゃない人生を全うしたい。私は私の覚悟と信念を持って。

そんなことを思うこのごろ。店共々、これからもよろしくお願い申し上げます。

べネシアさんのこと2

素敵な女性

2020年11月11日

べネシアさんのこと2

先月のことになりますが、岐阜県在住の女性から、店に一通のメールが届きました。

アメーバブログをされているとのこと。そこでベニシアさんのことを紹介しようと検索していて、偶然に私のブログを見つけられたようです。

ベニシアさんというのはイギリス出身で、今は京都大原にお住いのハーブ研究家。素敵なライフスタイルでマスコミでも有名な女性です。去年、私がその展覧会に出かけた際の感動をブログに書いていたのでした。(ブログベニシアさんのこと

岐阜の女性、ありがたくも私のその文章を気に入ってくださったそうで、ご自身のブログの中に、私のブログのリンクを貼られたもよう。メールはその報告と、事後承諾になったことのお詫びでした。

さっそくその方のブログを覗いてみると、とても素敵な文章で。こちらこそ光栄なことと返信させていただきました。

改めて自分のブログも覗いてみると、昨年9月のものでした。自分で書いていながら、案外忘れているもの。一年前はこんなことを思っていたんだぁ、なんて懐かしく読み返した次第です。

そのブログの中でべネシアさんのこんな詩を引用していました。

 

日本の女性はとても賢い。

疲れていても、悲しくても、いつも微笑み、笑っているから。

私は、日本の女性から「和」と「柔」という英知を学びました。

 

 日本女性を言い得て妙な表現だなぁと改めて感心しながら、そのあとに続く一節に驚いてしまいました。

 

子供の頃は、人生の意味についてよく考えました。

どうして私たちは生きているのか。

ある日、その答えに気づきました。「幸せになるため」だと。

 

実は私、同じことに気づいたばかりだったのです!

そんな折も折、舞い込んできたメールに導かれ、ベニシアさんのこの詩にまた巡り会うなんて…。シンクロニシティというのでしょうか。とても不思議な気がしました。

それにしても、生きているのは幸せになるため、なんて…。どうして今まで気づかなかったのか、と思うくらい当たり前の答えです。不幸になるために生きている人など、多分いないはずですから。

子供の頃に気づかれたべネシアさんとは大違い。私はずいぶん時間がかかってしまいました。その分、気づけた爽快感はひとしおです。

誰しもそうだと思いますが、楽しいことばかりの毎日というわけにはいきません。時には泣きたい思いの帰り道も…。

そんな日も探せば一つくらい、いいことがあるものです。見上げた夜空に綺麗な月を見つけたとか。せめてもの慰めに買った成城石井のあんみつが、思いのほか美味しかったとか(笑)。

それだけのことで、ささやかでも幸せな気持ちになっている自分に、「うん、うん、その調子!」なんて声を掛けるこのごろです。

詩はこう締めくくられています。

 

物事をどう見るかで、幸せは決まります。

知恵と優しさと笑いの心を持って、人生を受け入れましょう。

 

「幸せ」は、自分が決めること。

 

Listen to your heart

自分の心の声に耳を傾けて

 

改めて、心に響くべネシアさんからのメッセージです。

思いはいろいろなところで、いろいろな形でつながっている…。そんなことを思わせられた今回の出来事。メールをくださった女性には心から感謝です。

これからもいろいろな思いをブログに綴っていこうと思います。引き続きお付き合いのほどよろしくお願いします。

ベニシアさんのこと

素敵な女性

2019年09月22日

先日、素敵な展覧会に出かけてきました。「ベニシアさんの手づくり暮らし展」です。

ベニシア・スタンリー・スミスさんという女性をご存じでしょうか? ご実家は本物のお城という、イギリス貴族の家系のお生まれ。けれど19歳で貴族社会を離れ、インド滞在を経て日本へ。やがて京都大原の地にたどり着かれます。

大原というのは京都の北の方。市内中心部からみると、とてものどかな地域です。そんな自然の中に建つ築100年の古民家を買い取り、日本人のご主人と共に自分たちで手直しをして住まわれるように。

ハーブを中心に、食や手仕事、周囲の方たちとの交流を大切に、それはそれは素敵な暮らしをされているご様子は、NHKの「猫のしっぽ カエルの手」でお馴染みで、私もその番組を見てべニシアさんを知った次第です。

会場では実物を使って、ご自宅のキッチンやお庭が再現されています。一つ一つ選び抜かれた調度品は、やはり貴族の生まれという環境の中で育まれた審美眼によるものなのでしょう。えもいわれぬ存在感のあるものばかりです。

広大なお庭は、エリアごとにストーリーをもって作られ、まるで絵本に出てくるおとぎの国のよう。

日本人が忘れてしまっているような日本の伝統的なものと、ヨーロッパの香り漂うものとをうまく融合させ、オリジナルの世界観が広がるお住まい。そしてライフスタイル…。東洋と西洋がやさしく調和した様は、まさにベニシアさんそのものに思えます。

ひとはそれまでの人生で培ってきたもので出来ているんだなぁ。そう思わずにはいられません。

会場ではご主人である山岳写真家、梶山 正さんによる写真も多数展示されていました。大原の美しい自然と、それを慈しむようなベニシアさんの表情を捉えた写真の数々。そして傍らに添えられたベニシアさんの詩的なメッセージ…。

自然の移ろいに心を寄せ、敬虔な思いと感謝の気持ちで暮らしておられることが、シンプルな言葉から伝わってきます。なかでも心に響いた一文を書き出してみます。

秋は実りの季節。木の葉が落ちて枯れていくと、

人生について考えてしまいます。

私たちは、日々の悩みや心配事で頭がいっぱいになり、

身の周りの自然の美しさに気づかないことがよくあります。

真っ青な空に浮かぶ傘のような雲や、

秋の可憐なコスモスの上を軽やかに舞う二匹の蝶。

こんな何気ない美しさを、私たちは見逃してしまいがちです。

太陽は毎日、みんなのために輝き、

驚くほど美しい日の出と夕映えを見せてくれます。

なのに私たちは、果てしない考え事で

太陽を雲のように覆ってしまいます。

せめて時々は考えることを止めて、思い出しましょう。

人生は舞台稽古ではなく、美しく生きる機会なのだと。

なんか泣きそうになってしまった私…。

自然に寄り添うことは、自分の心に寄り添うことなんだなぁ。毎日が舞台稽古のような暮らしの中で、いつの間にかパサついてしまっていた心に、慈雨がしみ込んでいくようでした。

数奇な運命に翻弄されることもあったかとお察しするベニシアさんの人生。紆余曲折ありながらも、その時々にご自分の心に正直であられたからこそ、唯一無二な、こんな素敵な暮しにたどり着かれたのだと思います。

展覧会で買い求めた画集は、ベニシアさんのこんなメッセージで締めくくられています。

日本の女性はとても賢い。

疲れていても、悲しくても、いつも微笑み、笑っているから。

私は、日本の女性から「和」と「柔」という英知を学びました。

子供の頃は、人生の意味についてよく考えました。

どうして私たちは生きているのか。

ある日、その答えに気づきました。「幸せになるため」だと。

物事をどう見るかで、幸せは決まります。

知恵と優しさと笑いの心を持って、人生を受け入れましょう。

この境地に至るにはまだまだです。それでも、べニシアさんのメッセージの一つにあるように、日に一度でも空を見上げる時間を持ちながら、自分の幸せを見失わないように生きていきたいものだと思います。

Listen to your heart

自分の心の声に耳を傾けて

たくさんのヒントを与えていただいた展覧会でした。

堀文子さんの言葉4

素敵な女性

2019年05月13日

私が敬愛する女性の一人、堀文子さんが今年2月、100歳でお亡くなりになりました。「群れない」「慣れない」「頼らない」をモットーに、絶えず新たな画風を切り拓いてこられた孤高の画家です。

 

訃報は残念ではありましたが、天寿を全うされたというにふさわしい見事な人生。お疲れ様でしたとご冥福をお祈りするばかりでした。

 

そんな折、京都高島屋で堀文子展が催されるというニュースが届きました。生誕100年展が、巡回中に追悼展になったとのこと。これもまた見事な巡り合わせに思えます。

 

堀文子さんを知ったのは、ずいぶん前に放送された教育テレビ「日曜美術館」でのことです。ご本人が、自身の創作活動をそれはそれは楽しそうに話されるのが印象的でした。司会の壇ふみさんがまぶしそうに向けられていた視線が、私の視線そのもののように感じたのを覚えています。(ブログ画家 堀文子さんのこと

 

それからだいぶ経った数年前、とあるブックカフェで偶然に堀文子さんのエッセーに出会いました。楽し気に創作活動を語られていた、その笑顔の向こうにある孤独と厳しさ…。以来、心から敬愛するようになりました。(ブログ堀文子さんの言葉3

 

とはいえ作品を観るのは、テレビや著書のなかの写真でばかりでした。今回、初期の作品から絶筆まで一堂に会されるとのこと。矢も盾もたまらず出かけて行きました。

 

会場はテーマに沿ってコーナーが設けられていました。角を曲がるごとに現れる新しい画風の絵に、驚きと感動の連続。その多彩さは、いったい何人の画家の手によるものかと思うくらいです。

 

なかでも今回、一番楽しみにしていた作品があります。「幻の花 ブルーポピー」。標高5000メートルのヒマラヤに、この世ならぬような青色の花が咲くと知り、82歳でヘリコプターに乗り、酸素マスクをつけ、岩場を上り下りし、命がけで探し当て、スケッチされたという花の絵です。

 

会場後半でいよいよ対面できた「幻の花 ブルーポピー」。花は可憐だけれど、外敵から身を守るためなのでしょう、根元にはこれでもかというほどの鋭利な棘。その絶対的な存在感に驚かされました。

 

過酷な環境で、誰の目に留まることなく、ましてや褒められることもない。それなのに、一体なんのためにと思うほど美しく、逞しく咲く花。気高いその姿は、まさに堀文子さんが愛された「孤高」を体現したかのようです。

 

やっと出逢えた憧れの絵でしたが、うれしさよりも戸惑いの方が大きかったかもしれません。心地良い美しさとは全く違う、痛みを伴う美しさ、とでもいうのでしょうか。それは生まれて初めての感覚。出逢ったことのない「美」でした。

 

「美」は私が思っているより、もっと多様なものなのかもしれない。

 

「花の画家」とも称される堀文子さん。最晩年のコーナーに向かうと、描かれる花や木々も、終焉をイメージさせるものが増えていきます。

 

けれど決して寂しげでも、はかなげでもありません。虫食いだらけだけれど、フィナーレを飾るにふさわしい鮮やかな色彩の落葉。凄みすら感じられる、枯れ果てたひまわりの立ち姿。絶筆の紅梅の赤は、私には命ほとばしる鮮血の色に見えました。

 

「美」は生き様そのものなんだなぁ。

 

知人で洋画家の野見山暁治さんが、こんな追悼文を寄せておられます。堀文子さんはよくお酒を召し上がる方だったそうですが、酔うと「あたしはね、今まで流した涙の量だけ飲むのよ」と漏らされることがあったとか。そして、自分で言ってきまり悪くなると、少しばかり不機嫌になったりされると。(京都新聞 2月21日掲載)

 

孤独の空間と 時間は 何よりの 糧である。

 

堀文子さんの言葉です。この言葉の向こうに、どんな人生があったんだろう。人知れず、どれだけの涙を流してこられたんだろう。想像も及びませんが、堀文子さんの人間臭い一面を垣間見させてもらった気がするエピソードです。

 

「なんで、そんなことをばらすのよ!」と、天上で苦笑いしておられる堀文子さんのお顔が浮かぶようです(笑)。

 

追悼文はこう結ばれています。あれだけ日本画で新しい世界をつくり、多くの人を魅了しながら、ついに国からは何の栄誉も与えられなかったことを、ぼくは堀さんの素晴らしい勲章だと思っている、と。

 

自由で革新的なグループを活動の場とし、最後はどこにも属することなく、全く自由な創作に徹せられたとのこと。勲章を与えられなかったことは意外で、あれこれ憶測をしてしまいます。が、堀文子さんの前では、そんなこともつまらぬことに思えてきます。まさに「幻の花 ブルーポピー」の如し。

 

私もいつか「幻の花 ブルーポピー」としっかり向き合えるようになりたい…。

 

堀文子さんから宿題をいただいたような気がする展覧会でした。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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