堀文子さんの言葉

素敵な女性

2014年09月14日

前回のブログで日本画家、堀文子さんのことを書きました。(ブログ画家 堀文子さんのこと

ふと立ち寄ったカフェで、たまたま座った席の正面に置かれたていたのが、堀文子さんのエッセイ「堀文子の言葉 ひとりで生きる」でした。絵と共にその生き様が素晴らしく、珠玉の言葉をたくさん残しておられる堀文子さん。私の憧れの女性です。思わず手に取ると、冒頭こんな文章が…。

私は九十年もの長い間さまよって、やっと少しわかったというか、私は自分を否定して、自分のことを劣っていると思っていましたから、よその世界に憧れて世界中をさまよったのです。自分は日本の生物だったと、そのことがわかるまでに長い時間がかかりました。

見つかったかどうかは知りませんけど、「青い鳥はよそにはいない」ということがわかったのです。皆さんも「青い鳥は自分のなかにいる」はずです。

私も自分のことを、なにか決定的なものが欠落した、ひとより劣った人間だと思ってきました。欠けているものを埋めたくて、劣っているところを補いたくて、随分と模索を続けてきました。堀文子さんには遠く及びませんが、方々探し回り、あれこれと試みてきたように思います。

けれど、どこも自分の居場所ではないような、どれも自分が求めていたことではないような、そんな気がしてすごすごと撤退、なんてことを繰り返してきました。飽き性とも少し違う、どれもしっくりとこなかったのです。

そんな様子を好奇心旺盛とか、行動力があるとか言ってくださる方もありますが、どれも大成することなく投げ出してきただけです。また回りををキョロキョロして、ひとと自分を比較して、ないものねだりをして、手に入らないことに途方に暮れて…。不全感はますます募るばかりでした。

思いがけず店を始めることになって二年半が過ぎました。生活は激変。あれこれ言っている余裕などなく、ただ目の前にある「しののめ寺町」と向き合ってきた日々。それはとりもなおさず、自分と向き合ってきた時間でもあります。

突然、商売の世界に飛び込んだ私は、ひとのなん倍も努力しなければいけないと思っていました。まわりの華やかな方たちを見て、私には到底真似はできないと思うことも。正直ちょっと疲れ気味に(ブログストック)。

一日の大半の時間を過ごす店、そこに立つ自分…。初めてここが私の居場所だと思えました。求めていたことがここにはあるのだと。だからどんなに疲れても、今度ばかりは続けてこられています。

自分の思いが店に反映し、店の印象が私に投影される。そんな毎日を送るなかで、気づいたこがあります。店をよくしていくには、まず自分がよくあらねばいけないということ。店を大切に思うなら、まず自分を大切にしなければいけないということ。

まわりから学ぶことはたくさんあります。もちろんこれからも学び続けていくつもりです。が、同時に自分に目を向けていくことも大切なんじゃないか、そう思うようになりました。自分の中に眠るものを呼び覚ますこと。くすんだまま放置しているものに磨きをかけること。そこにはまだまだ大きな可能性が秘められているような。逆行するようですが、改めてそこから始めてみようと思います。

私の心の中に、青い明かりが灯りました。よく見ると、濃い鮮やかな青色をした鳥でした。以来、ときどき手に載せて優しく撫でてやります。両の掌で包むようにそっと抱いてやります。繊細な羽を傷つけぬよう大切に。鳥は安心したように身を委ね、私の心も穏やかになっていきます。

堀文子さんの言葉のとおり、青い鳥は誰の心の中にも一羽ずついるはず。気づくか気づかないかは本人次第。気づけた私は幸運でした。

余談ですが、8月のこと、自宅の玄関先のやまぼうしの鉢植えに、鳥が巣を作りました。ぴぃぴぃと可愛い鳴き声を上げて、いたいけなヒナが二羽。親鳥が餌をくわえては通ってきます。巣立ちを楽しみに、木を見上げる日が数日続きました。

今年は大雨続きの夏でした。そこは屋根もない場所で、心配していたところに台風が。ぱったりと鳴き声が聞こえず、可愛い顔を見せてくれることもなくなりました。巣を覗いてみると、中は空っぽ。巣立ちには早すぎます。どうしたことやら。私の力不足のようで申し訳ない気もしましたが、自然界で生き抜くのは容易なことではないのかもしれません。

勝手な解釈ではありますが、折も折、私の心に青い鳥のイメージを届けに来てくれたような、そんなエピソードでした。

画家 堀文子さんのこと

素敵な女性

2014年08月30日

少し前のことになりますが、仕事帰り、とあるブックカフェに立ち寄りました。

京都には素敵なカフェや喫茶店がたくさんありますが、なかでも京都通の知人が勧めてくれていた店で、お一人でどうぞ、という意味深なコメントも気になっていました。ちょっとクールダウンしたい気分のその日、ふと思い出して出かけたのでした。

とてもわかりづらい建物の一室、怪しい扉を恐る恐る開けると…。中は一変、お洒落なカフェでした。窓に向かって設えられたカウンター席に、ひとり客が数名。本を読んだり、パソコンをしたり。外の世界とは隔絶したような独特の雰囲気。とにかく静か。コメントの意味がすぐに理解できました。

空いた席に腰かけると、真正面にあった一冊の本に思わず手が伸びました。「堀文子の言葉 ひとりで生きる」。憧れの女性、日本画家の堀文子さんのエッセイでした。

堀文子さんのことを初めて知ったのは、NHKの「日曜美術館」という番組。壇ふみさんが司会をされていましたので、ずいぶん前のことです。ご本人も出演されていて、絵の美しさはもとより、そのお話のユニークさに驚いたのを記憶しています。

すべてにおいて、ひとところに留まるということを知らない生き方。常に未知なものを求めて、挑戦し、感動し、また挑戦し…。過酷ではないのかと思いきや、むしろ楽しくってしょうがないご様子。孤高な芸術家の顔と、愛らしい童女の顔を併せ持った、とても魅力的な方という印象でした。

群れない 慣れない 頼らない

堀文子さんのモットーです。以来、私も常々自分への戒めとしてきました。が、気づけば、長らく忘れていました。茨木のり子さん(ブログ自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ)や須賀敦子さん(ブログユルスナールの靴)のことは、開店後もよく思い出していたのに。

ページを繰ると、容赦ない厳しい言葉が並びます。研ぎ澄まされた言葉に息をのみつつも、どこかしら漂うユーモアに救われる、というのが堀文子さん流でしょうか。そうそう、これこれ、と思い出し、一気に読破しました。

自由は、命懸けのこと

自由でありたいというのは、誰しも願うことです。私もせめて心だけは自由でありたいと思います。なにものにも囚われず、あるがままでいたい。

それが、命懸けって…。そこまでの覚悟はあるか?! と喝を入れられたような。90歳を超えた童女から見れば、私などまだまだ尻が青い(笑)。

読み終えて本を戻すと、不思議な爽快感が。いつの間にやら、窓の外は真っ暗。小一時間、しばし異次元に迷い込んだような奇妙な感覚でした。間違いなく、私はこの一冊に呼ばれて、ここに来たんだと思いました。偶然のようで、実は必然の出来事。入店時のふさいだ心持ちから一転、心軽くなって店を出る自分に、そう実感しました。

思い悩むことの尽きない毎日です。同時に、まるで用意されたように必要な助けが現れる毎日でもあります。一気に解決とはいかないけれど、また進んでいこうと思える一助となるものが、私の前には必ず現れます。ひとであったり、言葉であったり…。大きな計らいが働いていることを感じずにはいられません。

そんなことをまさに体現した出来事でした。

堀文子さんの珠玉の言葉の数々は、また改めて紹介していきたいと思います。

美しいひと

素敵な女性

2014年03月31日

店を始めて気づいたことの一つが、世の中には美しい女性がたくさんいらっしゃるんだなぁ、ということです。

ご来店くださるお客様を拝見していても、皆さん、ご自身の個性に合った装いがお上手で、それぞれにお綺麗。着物を召した方も珍しくなく、清楚に、粋に、持ち味を活かした着こなしが素敵です。

ここ寺町界隈は若いファミリーが多く住まわれている地域で、ベビーカーを押しながらご来店くださるママの姿も。子供さん共々にファッショナブルで、雑誌から抜け出たようだと思うことしばしばです。

店の中からガラス戸越しに通りを行き交うひとを眺めながら、京都には美しい女性が似合うなぁ、なんて思います。

事業をされている女性に会う機会も増えました。意識の高い女性は美意識も高く、自身を魅せる能力にも長けておられます。学ぶことが多く、いつも眩しく眺めています。

女性の数だけ美しさがあるなぁと思います。

そういう 私はというと…。学生の頃からいつも友達の引き立て役ばかりしていたような。そこへ男性が近づいてきたなら、疎まれる前に一人その場を離れる、なんてタイプでした。美人を見ると、まわりから綺麗、綺麗と言われて生きる人生ってどんなんだろうと妄想してしまいます(笑)。

女性の美しさは、他人事に語るには気楽ですが、自分のこととなると厄介です。

どんなに痩せても、自分は太っていると拒食をやめない女性がいるとか。他人にとっては取るに足らないこと、むしろチャームポイントに思えることが、本人にとっては大きなコンプレックスであることも。

過度なうぬぼれはよくありませんが、自分を卑下しすぎるのもよくない。けれど、そもそも自分の容貌を客観視することなど、土台無理な話です。

女性が美しく装って街を歩けることは、なによりの平和の証、素晴らしいことです。さらにアンチエイジング流行りの今、お金と時間があれば誰でも何割増しかで綺麗になることも可能、女性にとって恵まれた時代です。

そもそも女性の美しさってなんなんだろう、と迷ってしまうことも。

「あなたが思う美しいひとは?」と聞かれたら、私が一番に思い浮かべる女性がひとり、横田早紀江さん、北朝鮮の拉致被害者、横田めぐみさんのお母様です。想像を絶する苦悩の日々を長きにわたって送られていることは周知の通りです。

そんななかにあってなお、常にそこはかとなく漂う気品。恨みつらみで表情を歪めることなく、揺るがない美しさ…。それらはどこからくるんだろう。支えているものはなんなんだろう。テレビで拝見するたびに考えます。

最近、お孫さんと面会された由。会見で見せられた笑顔はいつにも増して美しいものでした。近い将来、めぐみさんとの再会も叶うことを願ってやみません。その時に見せられる笑顔はまたどんなに美しいことでしょう。

様々なことは天からの授かりものと思うこのごろ、容貌も例外ではありません。人と比較して羨んだり、ないものねだりじゃなく、ありのままを認めてみる。そこからしか始まらないことがあるような。

自分なりの魅力、年齢相応の美しさ、そういうものを目指して生きていきたいなぁ。努力は怠れないけれど、抗い過ぎず。そうして、容貌だけでなく、丸ごとの自分を認められるようになりたい。

そんなことを思う年度末です。

宮古島 農家民宿 津嘉山荘

素敵な女性

2014年02月16日

厳しい寒さが続きます。2月のこの時期になると蘇る思い出があります。3年前のちょうど今頃、沖縄の宮古島へ一人旅をしました。「しののめ寺町」開店の一年前、そんなことになるとは想像だにしていなかった時です。


真冬に? 一人で? なんで宮古島?


ユタに会いに…。

これまでにも増して驚かれたでしょうか。ユタというのは女性のシャーマン(民間霊媒師)で、沖縄では生活に根差した存在です。当時、まわりからはいつも元気そうやねと言われながら、心の中は閉塞感でいっぱいいっぱいだった私。ただ誰かにそっと背中を押してほしかった。それがユタ…というのは、やっぱり変わっているかもしれません(笑)。

宮古島はスピリチュアルな島といわれています。どこもかしこも絵になる風景で、出会った方々は誰も彼もユニーク、摩訶不思議なエピソードが満載の不思議な旅でした。私に才能があれば、まちがいなく一本の映画が作れたと思います。

生憎その才能を持ち合わせていない私は、いらぬ誤解をされるのも怖く、うまく表現できないまま、ひとり心の中であたためてきました。どこまでお伝えできるか自信はありませんが、そろそろ表現してみようと思うようになりました。まずはお宿から…。

宿泊先をインターネットで検索していて見つけたのが、「農家民宿 津嘉山荘」。宮古島はトライアスロンが行われる土地で、選手のあいだでは有名なお宿のようです。アットホームな雰囲気、心づくしの手料理、そして名物おかみ千代さんの圧倒的存在感! 豪華なリゾートホテルも気楽なビジネスホテルも適わない魅力に、即決しました。

千代さんとの出会いは衝撃的でした。 出会ってわずかばかりの会話を交わしただけの私を、突然がばと抱きしめてくださったんです。しかも目に涙を浮かべて。なにが起こったかわからないくらい驚きました。そのころ泣くこともなくなって久しかった私ですが、思わず泣いてしまいました。

これが会ってほんの数分後のこと。心が触れ合うって、こういうことなんだと思いました。

朝夕の食事時、宿泊客は母屋の広間に集まります。部屋には仏壇や神棚、ご先祖の写真が飾られています。大きなお膳を囲むと、知らない同士もたちまち打ち解け、旧知の友人か親戚のよう。しばしば箸が止まるほど話が盛り上がり、笑い声が上がります。ひときわ大きな笑い声が千代さん。

供されるのは、千代さんのご主人が育てられた野菜を使った手料理の数々です。カリフラワー、ニラ、トマト…、どの野菜も力強い。ウミブドウ、ゆし豆腐、ゴーヤーチャンプルー…、ひとつひとつの料理がエネルギーに満ちている。そして名物は千代さんが農林水産大臣賞を受賞したというラフテー(豚バラの角煮)。柔らかくって、それはそれは美味しかった。

京都に帰る日の朝食後、誰もいなくなった広間で千代さんと二人きり、ゆっくり過ごす時間を持てました。千代さんはご自身の波乱万丈の人生を重ね合わせながら、いろいろな話をしてくれました。そして言いました。力を込めて、何度も、何度も。

「先のことはわからないよ。先のことはわからない」

先にはきっといいことがあるよ、きっとある。そう言ってくれているように聞こえました。千代さんが言うんだからそうかもしれない、その言葉をお土産に帰ってきました。気づけば思いもよらなかった「しののめ寺町」開店という事態に。千代さんの言葉の通りでした。

このブログで以前、青森の佐藤初女さんのことを書きました(佐藤初女さんのこと佐藤初女さんのこと2)。ふるさとがないと嘆いている私ですが(ふるさと)、北には初女さんの「森のイスキア」が、南には千代さんの「農家民宿 津嘉山荘」が、素晴らしいふるさとがふたつもありました。中間の京都で暮らしながら、左右の両手をしっかり握られ、支えられているようです。

今につながる予言的な言葉や力をたくさん授かった旅でした。まだまだ途上、その意味を理解するには時間がかかりそうです。折り合いのついたことから少しずつお伝えしていけたらと思います。

志村ふくみさんの言葉

素敵な女性

2013年10月29日

先日、胸に迫る文章に出会いました。インターネットを通じて配信された貴重な情報を、知り合いの方が届けてくださったものです。少し長いのですが、引用させていただきます。

 

『人生は織物のようなもの』

                              志村ふくみ 染色家で紬織の人間国宝

           「致知」2013年11月号 特集「道を深める」より

 

   自分の色というものは、

   たった一つしかないのかもしれません。

   それを求めてもらいたいと思いますね。

 

   一つしかない色だけれど、喜びや悲しみなど様々な感情、

   刺激によって輝いていく。

   その色に出逢うための人生じゃないですか。

 

   それと同じように、

   人の人生も織物のようなものだと思うんです。

   経(たて)糸はもうすでに敷かれていて

   変えることはできません。

 

   人間で言えば先天性のもので、

   生まれた所も生きる定めも、

   全部自分ではどうすることもできない。

 

   ただ、その経糸の中に陰陽があるんです。

   何事もそうですが、織にも、

   浮かぶものと沈むものがあるわけです。

 

   要するに綾ですが、これがなかったら織物はできない。

   上がってくるのと下がってくるのが

   一本おきになっているのが織物の組織です。

   そこへ緯(よこ)糸がシュッと入ると、

   経糸の一本一本を潜り抜けて、トン、と織れる。

 

   私たちの人生もこのとおりだと思うんです。

   いろんな人と接する、事件が起きる、何かを感じる。

   でも最後は必ず、トン、とやって一日が終わり、朝が来る。

   そしてまた夜が来て、トン、とやって次の日が来る。

   これをいいかげんにトン、トン、と織っていたら、

   当然いいかげんな織物ができる。

   だから一つひとつ真心を込めて織らなくちゃいけない。

   きょうの一織り一織りは

   次の色にかかっているんです。

 

             出典 致知出版社 「人間力 メルマガ」

 

どこにも無駄のない言葉が綴られていて、何度読み返しても心に響きます。なかでも胸打たれたのが下記のくだりです。

 

   経(たて)糸はもうすでに敷かれていて

   変えることはできません。

 

   人間で言えば先天性のもので、

   生まれた所も生きる定めも、

   全部自分ではどうすることもできない。

 

宿命、あるいは宿業、宿縁といったものでしょうか。確かに自分ではどうすることもできないのですが、さりとて受け入れ難く、抗ったり、時に恨んだりしがちです。自分がああだったら、ああなれたのに。こうだったら、こうはならなかったのに、なんて。

 

けれど、人生ってここを受容することからしか始まらないのかもしれません。いいものも悪いものも、すべては天からの賜りものと思って。そう思うのは相当難しいことですが。

 

織り機にピンと張られて整然と並ぶ経糸は、どこか潔く、それだけで美を感じさせます。まさに天からの賜りもの。緯糸を通していくのは自分の手です。経糸を生かすも殺すも緯糸次第、そう思うと可能性は無限大です。

 

自分の色がどんな色なのか、まだわかりません。真心込めて織るうちに自ずと浮かび上がってくるはず。そう信じて、今日の一織り、明日の一織り、丁寧に織っていきたいと思います。これからの人生、まだまだ楽しみです。

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