メメンとモリ

アートなこと

2023年09月28日

メメンとモリ

素敵な絵本に出会いました。「メメンとモリ」。

京都新聞で紹介されていて、まずタイトルに興味を惹かれました。「メメントモリ」、ラテン語で「死を想え」。写真家、藤原新也さんの著書のタイトルで知った言葉です。

藤原さんがインドで撮られた、人間の死体を犬がついばむ写真。そこに添えられた「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というメッセージ。震え上がるほど衝撃を受けた一冊です。

子供向けの絵本のタイトルにはあまりにもそぐわない言葉ですが、よく見ると「と」がひらがな。どうやら「メメン」と「モリ」という姉弟のお話のよう。作者であるヨシタケシンスケさんのコメントに驚いてしまいました。

 

人は何のために生きるのかとの問いに関し「幸せになるためといわれることもあるが、なれない人もいる」。

「誰も悪くなくても、誰も幸せにならないこともある」

「そういう人たちが失敗だったのかといわれるとちょっと悲しい。幸せにならないといけないという考えは息苦しいし、生きづらくさせることもある。(人は)びっくりするために生きている、(人生は)思う通りにならないと言ってくれる本が欲しかった」。

 

まさに、私は、こう言ってくれる人に会いたかった! そう思ったのです。 

早速購入し、可愛い表紙をめくると…。メメンとモリのなんでもない日常。そのなかで交わされる二人の言葉。それらが肉筆感たっぷりの絵と文字で描かれています。

一度目はざっと読み。二度目はゆっくり読み。そして繰り返し読むたびに、新しい思いが湧いてくる。そんな不思議な絵本です。たとえば…。

姉のメメンが作ったお皿を割ってしまったモリ。メメンは怒るのかと思いきや。落ち込むモリに、とつとつと語ります。その言葉はシンプルながら、禅か、哲学か、と思うほど深く。最後にはこんなことを言ってのけます。

 

つまりは、

「自分では選べないことと、自分で選べることがある」ってことね。

それをみわけられるようになりたいわよね。

 

メメンにそう言われたモリは、わかったような、わからないような。でもすっかり笑顔になって、また新しいお皿を作ります。そのお皿でまた美味しいものを食べて。そうして、また割ってしまう…。

そうそう、人生ってこんなことの繰り返し。あんなこと、こんなことが心に浮かび、読んでいる私が泣きそうになったりして。

世の中には「幸せ」が溢れている…。

そう思うことがよくあります。テレビの中で、ネットの中で、私のまわりのあちこちで。

そうしたものを眺めていると、人は幸せでいるもの。誰しも幸せを目指してがんばるもの。そんな思いに急き立てられるような。

「幸せ」っていいものに決まっているし、「幸せ」でいるに越したことはありません。でも、そもそも「幸せ」ってなに? 

実感しようにも、目指そうにも、この「幸せ」っていうものが実のところよくわからない私…。それは私に感謝が足りないからなんだと反省したりもし。

「幸せ」について考え始めると、いつも迷宮に入り込んでしまい、結果「不幸せ」な気分に陥ってしまうというおかしな事態に(笑)。いやはや本末転倒。私にとって「幸せ」は難儀な代物です。

こんな私のために用意されたのかと思うメメンの言葉があります。つまらない映画を観て損をしたとぼやくモリに向かって…。

 

得だとか損だとか、

生きていることには

ほんとはかんけいないんだよ。

たのしくなくちゃいけないわけでも、

しあわせでなくちゃだめなわけでもないんだよ。

 

じゃあ、人は、なんのために生きてるの?

と問うモリに、メメンが答えます。

 

この世界は、自分が思うほど

いいものでも、わるいものでもない。

わたしとあなたも、自分が思ってるほど

同じじゃないし、ちがってもいない。

自分自身だって、自分が思うほど

すごくもないし、バカにしたものでもない。

人に、自分に、世界に、みらいに、

期待しすぎたり、しなさすぎたり。

「自分の中のイメージ」と「現実」は、

どうしてもずれちゃうのよ。

だから人はいつも、予想がはずれて

びっくりしてる。

つまり人は、「思ってたのとちがう!」って

びっくりするために生きてるのよ。

思ってたのとちがうから、

世界はつらいし、きびしいし、

たのしいし、うつくしい。

 

いいことも、そうでないことも、日々起こることそのものが、生きているってこと。そんな一つ一つにびっくりしながら生きている。ただそれだけでいいんだ。

幸せでなくちゃだめなわけじゃない!

そう思ったら、肩のあたりがすっと軽くなりました。なんだか幸せな気分です(笑)。

メメンの言葉に、これ以上の解説や感想は無用なこと。皆様がそれぞれに解釈し、そのままを感じていただければと思います。

こんな素敵な絵本を世に送り出してくださったヨシタケシンスケさんに、心より感謝申し上げます。

ホーム

家のこと

2023年08月31日

ホーム

誰しもほっとできる場所というのがあるかと思います。行きつけの店だったり、近くの川べりや神社仏閣だったり…。なんといっても自分の家、という方も多いかもしれません。

開店以来、大半の時間を店で過ごすようになった私。家で過ごす時間のありがたさは、このブログでもよく書いています。(ブログ時間)。

さらに最近になって実感しているのが、その時間を過ごしている器、家そのもののありがたさです。

自宅は店から地下鉄で北へ3駅。仕事帰り、駅併設のスーパーマーケットで買い物をし、外に出ると見慣れた風景が広がります。

季節により、時間により、まだ明るかったり、真っ暗だったり。その時々の空を見上げては、「帰ってきたぁ」って懐かしい気持ちになります。

旅行に出かけていたわけじゃなし。たった半日のことなのに不思議です。

帰れば慌ただしく時間は過ぎ、気づけばあと少しで就寝時間。やっとゆっくりできる束の間のひととき。もうちょっと、もうちょっと、とついつい先延ばしにし、翌朝後悔することも。

そして待ちかねた休日。普段できないこまごまとした用事を片付けながら、自宅で過ごすというただそれだけのことがうれしくて、うれしくて。

そんな時、家に宿る「気」というのでしょうか。部屋にゆらゆらとたゆたう空気を感じることがあります。その心地いい空気に包まれながら、日々の疲れが徐々に癒えていくような。

思わず、天井を見上げて「ありがとう」って、声を掛けたりなんかして。

いやはや、知らない人が見たら、かなり怪しい光景です(笑)。

思うに…。私はそもそも備わっている容量が小さいようで。とにかくすぐにいっぱいいっぱいになってしまいます。

しかも処理能力が低く、いろいろなことを並行してこなすのも苦手。私がパソコンならとっくにお蔵入りです(笑)。

なんというか…。仕事でも、プライベートでも。楽しいことにつけ、そうでないことにつけ。自分の中に落とし込むのに時間がかかる性質のようで。

「ため」の時間というのでしょうか。それが人より多く必要な気がしています。とどのつまり要領が悪いだけなんですが(汗)。

店を始めて11年。店は私にとって舞台のようなもの。華やかで楽しくも、常に緊張感を伴う場所です。

一方、今の自宅とはもう20年近い付き合いになります。店が舞台なら、こちらはさながら楽屋裏。素のままの自分でいられる安堵感と共に、ここで「ため」の時間を過ごしているんだなぁと思います。

実のところ3年ほど前に、この家を出て、店の近くに小さなマンションを借りる、という選択肢がありました。けれど結局、この家に留まることに。

小さな家ですが、戸建てというのはやはり手のかかるものです。日々の掃除に、どこかが傷んだといえば修繕し。

通勤時間も片道30分。往復で1時間。暑い日、雨の日、雪の日…。あの時、店近くのマンションを選択していたら、と後悔することしばしばです。

けれど、この家から受ける恩恵は、そうした不自由さを上回るものなのかもしれない。馴れ親しんだ家だからこそ得られる癒しによって、私はまた店に向かうエネルギーを蓄えてこられたんじゃないか。

最近、そう思うようになりました。

先だっていただいた夏休み。今年こそは遠出をと思いながら、台風もあって、ほとんどを自宅で過ごすことに。

ぞうきん片手に、日頃見ないふりをしている、そこここの汚れを拭いてまわったり。微妙にずれている時計の時刻を合わせたり…。

地味だなぁ~と呆れながら、そんな自分がまんざら嫌いでもなく。ぬくぬくとした空気の中、「ため」の時間を堪能した5日間でした。

こんなスローな私、とても経営者に向いているとは思えません。

それでも、店と家、それぞれのバランスをうまく取りながら、自分なりのスタイルでこれからも店を続けていきたい。そう思うこのごろです。

お付き合い行き届かず、各方面に不義理をしてしまっていること。定休日を増やし、お客様にご迷惑をお掛けしていること。この場を借りて心よりお詫びしたく思います。

こんな私でありますが、これからも何卒よろしくお願い申し上げます。

アラーキーの花

アートなこと

2023年07月29日

アラーキーの花

先日、何必館・現代美術館で開催の「荒木経惟 花人生展」に出かけてきました。

何必館のことは、このブログで何度も書いています。作品と向き合いつつ、自分自身と向き合う。そうした貴重な時間を与えてくれる、私にとって大切な場所です。(ブログ何必館の時間 ブログ何必館の時間2

荒木経惟(あらきのぶよし)、アラーキーという方が名が通っているかもしれません。エネルギーほとばしる写真で有名なカメラマン。

その作品と対峙するには、こちらも相当なエネルギーが要るかと。自身の体力、気力を見計らって、会期終盤にようやく出かけられた次第です。

以前にやはり何必館で彼の写真展を観たのは2002年。21年も前のことでした。最愛の奥様を亡くされた悲しみを、写真を通して表現されていたこと。今でも強烈に覚えています。

今回は、花尽くしの写真展でした。

花は私も大好き。自分で買ってきては、写真に撮ってSNSに投稿したり。疲れている時ほど花を欲するようで。花は私にとってなによりの癒しとなっています。

アラーキーが初めて花を撮られたのは、少年時代の遊び場であった東京吉原界隈。遊女たちの投込寺と言われた浄閑寺の墓地に咲く彼岸花だったとか。

花は花でも、私の抱くイメージとはずいぶん違う様相。観る前から緊張が高まります。

展示はテーマごとに分けられ、今を盛りと咲き誇る色鮮やかな花から、枯れて朽ち果てた花。はたまた曼荼羅のごとく壁一面を埋め尽くすポラロイド写真の花まで。

まさに花、花、花…。

花がそこにあるだけ、といえばそれだけのこと。なのに、ドキドキして、ざわざわして、体の芯から揺さぶられる思いでした。

なんというのでしょうか。薔薇は薔薇として、百合は百合として。といって花自身は、自分に付けられた名前など知らず。ましてや人がその花に抱くイメージなど知る由もなく。

ただ咲いて、枯れて、朽ちていく。開けっぴろげに、潔く、醜ささえも厭わずに。

その一瞬一瞬を、写真という永遠の中に切り取られた花たち…。

花はよく女性に例えられますが、まさにさまざまな境遇を生きた女性の生き様を垣間見るよう。とてもドラマチックでした。

何必館館長の解説を読むと、「エロス」と「タナトス」という言葉で見事に表現されていました。それをここでお伝えする技量は、私には到底ありませんが、至極、納得した次第です。

観終わったあとは、最上階の庭でひと息つくのがお約束。ところが、その日は花たちの放つエネルギーに圧倒されたのでしょう。ソファに腰かけるや、グッタリしてしまいました。

私は、今もってまだ自分の花を咲かせられていないなぁ。

咲くことに向けるべきエネルギーを、いつも不安や些末な事ばかりに向けて。開くはずの花びらは、開花を躊躇したまま、心もとなげに縮こまったきり。

どんな花だっていいじゃないか。私は私の花を咲かせるほかはなく。あるがままに咲いてやれ。そして、なすがままに枯れて、朽ちてやれ!

凄味あるアラーキーの花たちに触発され、少し荒ぶって自分をけしかけてみたりして(笑)。

ふと、以前、このブログに花について書いていたことを思い出し、読み返してみました。その締めくくりに書いていた言葉が、なんと…。

私は私の花を咲かせたい。(ブログ私が苦手だったもの 花

日付は2015年2月27日。8年半経って、また同じことを書いているなんて…。いやはや、今度こそ、一刻も早く咲かせたい!

こんな私でありますが、これからも温かく見守ってくださいますよう、よろしくお願いします。

下御霊神社のお祭

お祭りのこと

2023年06月22日

下御霊神社お祭り

先月のことになりますが、地元の氏神様、下御霊神社のお祭りが行われました。

ここ寺町に店を開いて以来、私にとってこのお祭りは一年一年欠くことのできない大切な行事。このブログにも、そのときどきの思いを書いてきました。(ブログ鳳凰様 ブログ下御霊神社 ブログ夢見通りの人々 ブログお祭りの夜に

それがコロナ禍の間、どこのお祭りもそうであったように、関係者の方のみで神事は行われるも、一般の私たちの目に触れることはなく。通りに吊られたお祭り提灯を眺めながら、寂しい思いで過ごしたここ数年でした。

今年は何年振りでしょう。ようやく一連の行事が従来通りに執り行われ、お祭りに欠かせない屋台もずらりと並び。

これこれ! この眺め、この匂い。やっぱりお祭りはこうでなくっちゃ! と、久しぶりに心躍る思いでした。

そして迎えた最終日の夕刻。神様が乗っておられる御神輿が、日焼けした担ぎ手さんたちにより、長い巡幸を終え戻ってくると、お祭りも最高潮。

クライマックスは神社前で繰り返される差し上げです。渾身の力で御神輿が高く掲げられるや、「ホイット、ホイット」の掛け声と共に、屋根に鎮座された鳳凰の尾羽がカシャカシャと鳴り。

まるで御神輿の中で喜んでおられる神様の高らかな笑い声のよう。この音を聞くと、いつも身震いしてしまう私です。

開店から11年。さらにここ数年のコロナ禍。10年ひと昔とはよく言いますが、世の中はいつにも増して大きく様変わりしました。

世の中の変化と共に、私たちもまた、いつにも増してたくさんの選択を余儀なくされてきたように思います。日々の小さな選択から、時に運命を左右する大きな選択まで。

それらを積み重ね、積み重ね、そうして迎えた今日のお祭り。

 

神様はなぜ、この地に店を与えてくださったのだろう。

どうして今日まで店を続けさせてくださったのだろう。

 

この間のさまざまなことが心を巡り、胸がいっぱいになってしまいました。

果たして自分たちのしてきた選択の一つ一つが、正しかったのか、間違っていたのか。検証できるはずもありせん。

ただ確かなことは、開店の年と同じように、今、ここで、御神輿を見上げている私がいる、ということ。

自分のしてきた選択を、正解と思える人生にしたい…。

高らかに鳴るカシャカシャという音を聞きながら、そんなことを思った今年のお祭り。神様、また一年、よろしくお願いします!

私の心の中の瓶2

心と体のこと

2023年05月30日

最新私の心の中の瓶2

このブログで、時々、怪しいことを書くことがあります(汗)。

そんな一つ、ずいぶん以前に、私の心の中に瓶があることを書いたことがあります。ちょうどワインのボトルのような、うっすら色のついた一本の瓶。中には水が入っています。(ブログ私の心の中の瓶

実は私、その時々に感じたことがイメージとして映像となって目の前に現れる。という変わった特技(?)がありまして。うまく書けませんが。(ブログ私の中の女の子2

この瓶も十数年前にふっと現れ、以来、折に触れ姿を見せてくれます。

なんだか心が枯渇しているなぁと思ったら…。あれあれ瓶の中の水が干上がって空っぽ。これは大変とばかりに、以前から欲しかったものを買ってみたり、行きたかった場所に出掛けてみたり。

ちょっと自分を甘やかして過ごしていると、やがて瓶に水が満ち、私の心も潤いを取り戻し。

逆にいろんな感情が湧き出て、どうにも収拾がつかないでいると…。瓶の中の水も溢れ放題。ギャー大変と、静かな時間を持つよう心掛けたり。いっそ好き放題に感情を吐き出してみたり。

自分に気持ちを集中させて過ごしていると、やがて溢れていた水が引き、私の心も平静を取り戻し。

てな具合…。

瓶の中はまさに私の心の中そのもの。水の量が指標となって、今の私の心の状態を視覚的に示してくれるという、とても分かりやすいメカニズムです(笑)。

さてさてその瓶ですが、このところ大きな変化がありまして。といいましても、今回は中身の水の量ではなく、瓶そのものの変化。

これまでワインのボトルのような形状だったものが、カラフェというのでしょうか、お洒落なカフェで出てくる水差しのようなものにすり替わったのです。ちょうど上記の写真のような。

こちらは底も口も広く安定感があり、入れるのも注ぐのも、たっぷりとできそう。透明なので、中で水がたゆたう様子もよく見えます。

どうなっちゃったの? 私の心の中の瓶…。

もっとたくさんのものを取り込みなさい。そして取り込んだものをもっと惜しみなく放出しなさい。たっぷりと、たっぷりと。

そう言ってくれているような。

そういえば、これまでの瓶に少し窮屈さを感じ始めていた頃だったかもしれません。

実のところ、自分の持てる力というものがよくわからない私。

自分を信じられずに、がんばり切れなかったり。向う見ずに突っ走って、息切れしたり。そもそもがんばりどころを間違えているんじゃないの、なんてこともしばしば。

自分が今、持っている力を適正に、いかんなく発揮できたら、もっといろんなことがうまくいくのかもしれない。そう思うことがよくあります。

新しく現れたこの瓶。これからどんな姿を見せ、なにを伝えてくれるのでしょう。こんな私の助けになってくれたらありがたい…。

いやはや、また怪しいことを書いてしまいました。

ちょっと変わった私ではございますが、これからもよろしくお付き合いのほどお願いします。

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