富士屋ホテルの紅葉

お友達のこと

2014年12月04日

今年の紅葉の季節、皆様、どのようにお過ごしだったでしょうか。

お客様からお話を伺いながら、あちらこちら行った気に、見てきた気になる、というのが開店以来の私の行楽スタイルですが、紅葉もしかり。自称、妄想もみじ狩りで、今年もたっぷり楽しませていただきました(笑)。

そんな私ですが、以前は方々出かけたものです。印象深い紅葉のスポットはたくさんありますが、なかでも忘れ難いシーンが。

数年前、長男が東京に住んでおり、私もたびたび上京する時期がありました。その際に横浜在住の女性と知り合う機会が。私より10歳ほど年上で、とにかく笑顔が素敵。話すうちに、独身で、定年を前に退職し、夢実現に向けて勉強の日々を送られていることがわかりました。

女きょうだいのいない私は、素敵な女性を見ると、こんなお姉ちゃんがいたらなぁと、すぐになついてしまう変な癖があります(笑)。まさにそんな方で、あっという間に意気投合。長男が京都に戻ってからも交友は続き、めったに会えなくなった今も大切な存在です。

4年前のちょうど紅葉の季節、会いたくなって連絡すると、ぜひうちにと泊めてもらうことになりました。素敵なプランをあれこれ立てて迎えてくれたのですが、なかでも一押しが箱根でした。

二日目の朝早くに家を出て、まずは箱根湯本で日帰り温泉。長らく友人とお風呂に入る経験のなかった私は、ちょっとどぎまぎ。けれど全く平気な彼女につられてすぐに平気に。まさに裸のお付き合い。

昼食においしいおそばをいただき、あとは登山電車で宮ノ下へ。「富士屋ホテル」のティーラウンジでお茶をすることを、彼女はとても楽しみにしている様子でした。

ホテルに着いた途端、彼女の思いがすぐに理解できました。老舗ホテルらしい風格あるたたずまいは、それはそれは素晴らしいものでした。ただ時期が時期、大変な混雑で、ずいぶん長い順番待ちとなりました。

その間、建物のなかをぶらぶらし、宝塚歌劇ばりの階段を上ったり下りたり。庭を散策して紅葉をバックに写真を撮ったり。ロビーの椅子に腰かけて、行き交う人をぼんやり眺めたり…。普段ならイライラする待ち時間も苦になりませんでした。

ようやく案内されて店内に。やはり待ちくたびれていたのでしょうか、席について名物のシュークリームとコーヒーを注文すると少しほっこり。

落ち着いた調度品から漂う空気感。窓から見える庭の景色。遠くロビーから聞こえるざわめき。コーヒーの馥郁(ふくいく)とした香り。シュークリームの濃厚な甘さ、なめらかな舌触り…。

私は五感のすべてが満たされていく心地よさに浸っていました。彼女も同じことを感じていたのでしょうか、ふたりの会話も静かなトーンに。やがて寡黙になっていったような。

見る間に窓の外は夕闇に。素敵な空間で素敵なひとと過ごすひととき。とても濃密で上質な時間でした。ふと、私はきっとこの光景を繰り返し思い出すだろうと思いました。おばあさんになっても繰り返し、繰り返し思い出すだろうと。

夢が実現したら、ここにお泊りの招待するからね、とは彼女からの提案です。その時は遠慮なくお言葉に甘えさせていただきます、と私。実現の日を今も楽しみに待っています。

二泊のお世話になる間、至れり尽くせりのもてなしをしてもらったうえに、帰りには山のようなお土産まで用意してくれていました。手作りのお味噌にクッキー、その朝に焼きたてのバナナケーキ、そして富士屋ホテルで買っておいてくれたアロマキャンディ。

正直、相当重い荷物となりましたが、まるで実家に帰省したような温かい思いの帰り道でした。

走馬灯のように思い出される、という表現がありますが、私はかるたの絵札をばらまいたように、という表現がしっくりきます。素敵な思い出の一場面一場面が、かるたの絵札の一枚一枚となって床一面を覆いつくす感じ。

こんな素敵な絵札をこれからも集めていきたい。どの一枚を取っても幸せなひとときがたちまち蘇る、そんな絵札を集めていきたい。一枚でも多く…。そんなことを思う今年の紅葉の季節でした。

イリーナ・メジューエワさんのこと 2

アートなこと

2014年11月18日

少し以前のことになりますが、先月の31日、京都コンサートホールでの「イリーナ・メジューエワ ピアノリサイタル」に出かけてきました。

イリーナさんは「しののめ寺町」開店当初からの大切なお客様。華奢でとてもお可愛らしい女性です。しばらくして新聞の記事で有名なピアニストと知り、昨年の秋、初めてリサイタルに出かけました。ふだんの控え目な物腰とは打って変わった力強く情熱的な演奏に、とても驚きました。(ブログイリーナ・メジューエワさんのこと

一年ぶりのリサイタル、予想通りの衣装、予想通りの演奏。二度目の今回は落ち着いて聴けるのかな、そう思ったところに予想外の感覚が…。音色が深く深く心に入っていくのです。浸透していく深さ、速さが前回とは全く違って感じられました。心の深いところが揺さぶられるような。そんな自分に驚きながら演奏に聴き入っていました。

もともと音楽の素養があるわけではなく、前回、大好きなイリーナさんのリサイタルということで興味を惹かれ出かけて行ったのでした。クラッシックに馴染みはなかったのですが、そんな私の心にイリーナさんの演奏は初めて触れた気がしました。初めて味わう感動に、私が気づいていない楽しみ、喜び、そうしたものが、まだまだあるのかもしれない。イリーナさんの演奏は、そんなことを予感させる序曲に思えたのを記憶しています。

感じたことが視覚的に浮かぶ癖のある私、今回、演奏を聴きながら、柔らかな土のイメージが浮かびました。乾燥して固かった大地が耕され、中から出てきた黒々とした土。陽を浴びてほのかに温かく、やわやわと柔らかな土。そこに降り注ぐ雨。柔らかな土が雨水をぐんぐん吸い込んでいく…。それは私の心そのもののような。

初めて出かけたリサイタルから一年、この間に出会った方たちが、まだまだ固く萎縮していた私の心を、ひと堀り、ひと堀り、耕してくださったのだなぁと思いました。そこに重ねてきた新たな経験、新たな思い。そうしたもので、少しずつ豊かな土になっていったのだなぁ、と。

英語で、文化は culture 農業は agriculture

久しく忘れていた英単語が、唐突に浮かびました。中学生の頃、文化と農業いうかけ離れた言葉に、なぜ同じ文字が入っているのかと不思議に思ったものです。cultureの語源はラテン語で「耕す」だとか。なんとなく納得がいったような気がしていましたが、この日、こういうことだったのかと心から腑に落ちました。

終了後、ホールから出ると、夕刻に降っていた雨は上がっていました。雨に濡れた北山通りの街路樹、道路に照り返る車のライト、店の照明…。きれいだなぁ、きれいだなぁと思いながら、高揚した気分で自宅まで歩いて帰りました。

重森三玲氏のお庭

アートなこと

2014年11月03日

先日の定休日、松尾大社に出かけてきました。作庭家、重森三玲氏のお庭が素晴らしく、私が京都で一番好きかもしれない場所です。

もともと一人でふらりと出かけるのが好きなのですが、店を始めてからはぱったり。時間ができたら、まず出かけたいと思っていたのが松尾大社でした。時間ができたわけではないのですが、これから忙しくなる季節、その前にと、思い切って出かけたのでした。開店以来やっとの「ふらり」です。 

松尾大社を初めて訪れたのは数年前、三玲氏のお庭を前にした時の衝撃は今も忘れることができません。空に向かって巨石がそそり立つ様はエネルギーがほとばしっているよう。無造作に突き立てられているようでいて、計算されたように美しい造形。よくある寺院の庭園に佇むときの心休まる感覚とは全く違い、なにか突き動かされるような感動に、飽かず眺めていたことを覚えています。

「しののめ寺町」開店間もない頃、偶然にお立ち寄りくださった旅行中の熟年のご夫婦がいらっしゃいました。お話しするうちに奥様が重森三玲氏のお孫さん、重森千青氏の講座を受けられるほどの三玲氏ファンとわかり、大盛り上がりしたことがあります。お隣のご主人様を置き去りにして(笑)。

「三玲氏のお庭は、自分が元気な時じゃないと向き合えないのよね。エネルギーに負けそうで」とお客様。「自分がブレていないか試したい時に、向き合ってみるといいでしょうね」なんて、偉そうに私。今も忘れ難いお客様のひとりです。

開店して2年と7カ月。どこまでいっても経験のないことが目の前に現れます。大小さまざま、常に判断し、決断し続けなければいけない毎日。それは商売に限ったことではなく、人生もまた然りかもしれません。

そのときどきの判断は正しかったか、決断は間違っていなかったか。ふと不安に駆られ、後悔がよぎることがあります。けれど、そもそも、正しいか間違っているか、誰が決めるのでしょう。どこかに審判がいて、○×の札でも上げてくれるのでしょうか。

実は、三玲氏のお庭にちゃんと向き合えるか、ここらで一度、自分を試してみたい。そう思って出かけたのでした。ブレていたら、心が動揺するかも。うしろめたいことがあったら、目を背けてしまうかも。勝負です!

しっかり向き合えました。

自分が決めて進んできたことには、正しいも間違っているもなく、それが全て。

そんなことを思いながらお庭を眺めていると、ひとりの青年と一緒になりました。気さくに挨拶してくれたのがきっかけで会話が始まるや、庭師を目指しているという彼、熱く語る語る。八百万(やおよろず)の神様のこと、宇宙のこと、前衛アート、人生論…。どれも私の興味ある話題です。しかも、ふだんは怪しいひとと思われそうで、おいそれとは口にしないよう用心していることばかり(笑)。

紅葉前の静かな時期、ほかに誰もいません。三玲氏のお庭を前にして、庭師を目指すとはこういうことかと納得しながら、彼の話を思いっきり聞いて、思いっきり相づちを打ったひととき。心をいっぱい遊ばせられた、心地いい時間でした。

話は尽きませんでしたが、秋のこと、夕方になると急に冷え始め、「きっとまたどこかで再会できますね」と言い合って別れました。不思議な巡り合わせ、これも場の持つ力、三玲氏のお庭のエネルギーがが引き寄せてくれた出会いだったかもしれません。

家に帰れば、その日済ますはずだった用事は山積みのまま。けれど、それを補って余りある山盛りのおみやげを持ち帰った秋の一日でした。

店のこと

2014年10月21日

開店から2年と7カ月が経ちました。

 

まだまだ未熟な店ですが、お馴染みのお客様が増えてきたり、評判を聞いてと来店くださるお客様が増えてきたり。

 

「ここのおじゃこは、本当においしいねぇ」

「おじゃこは、ここのしかアカンって言うひとがいて」

 

店頭で毎日聞かれるこうしたお声に、少しずつながら手応えを感じているところです。食べ物を売る店、味を褒めていただくことほど有り難いことはありません。「しののめ寺町」のじゃこ山椒は、我が家の長男が毎朝炊いております。

 

開店以来、あれこれ思い悩むことはたくさんありましたが、なかでも一番難しかったのは「味」だったのではないかと思います。創業以来の味があるのだから、簡単なのでは? と思われるかもしれません。私たち自身もそう思っていました。創業以来の味を守り、変わらぬおいしさをお届けしているつもりでした。が、開店当初、ご試食いただいたお客様の反応は予想外のものでした。

 

「おいしい!」

「これこれ、この味!」

 

と手を打ってお買い求めくださる方がほとんどでしたが、必ずしも皆さんがそうだったわけではありません。古くからお馴染みのお客様のなかには、味が「濃い」「薄い」、ちりめんじゃこが「かたい」「柔らかい」とひとによって正反対の感想を仰る方も。どうとは説明できないけれど、どこか違う。といったお声も。正直、戸惑いました。

 

あれこれ思いあぐねましたが、結果わかったことは、味覚はとてもデリケートなもの、プライベートなものだということです。味の感じ方、好みはまさに十人十色。さらにそれぞれの記憶やストーリーといったものに、文字通り味付けされた、その方ならではの味覚というものがあるような。これはもう万人に受け入れられる味を追求するのは無理なことと思い至りました。

 

ちりめんじゃこ自体が自然のものですので、毎回100パーセント同じ見た目、同じ味というのも実は有り得ないことです。そこを加味しながら、出来る限り同じ仕上がりになるよう炊きあげるのも、また腕のみせどころ。それでも補い切れないブレは、手作りならではの味わいとお許しいただく。精一杯やったうえで、あとはそう申し上げるしかないというのが正直な思いです。

 

「しののめ寺町」のじゃこ山椒、私はいつも「おいしい!」と思いながらいただいております。ごはんをついついもう一口、気づけば一膳分になっていた、なんてことも。自画自賛、承知で書きます。「ホンマにおいしい!」(笑)。自分がおいしいと思えるものを販売して、お客様においしいと言っていただける。こんな幸せな仕事はありません。

 

長男が厨房で炊く姿も、すっかり板についてきました。全幅の信頼を寄せている業者さんから仕入れているちりめんじゃこ、そのまま食べてもおいしい最高級のものです。そのちりめんじゃこ、触れて、食べてみて、そのときどきに応じて、レシピでは表しきれない手加減をしながら炊いているようです。なかなかのこだわりを持っている様子。職人気質でこの仕事が合っているなと、母は秘かに思っています。

 

長年「ほぼ専業主婦」でしたので、家族の健康を守るのが仕事と、三度の食事作りには心を砕いてきました。昆布、煮干しでだしを取り、京風の薄味で、と心掛けてきました。そうしたものを食べて育ってきた長男の味覚、なかなかいい舌を持っているように思います。あくまでひいき目に見て、ですが(笑)。

 

味が主役! 

その味を伝えるのが私の使命だと思っています。なにかとしゃしゃり出ている感のある私でありますが(笑)ひとえにこの味を一人でも多くの方に知っていただきたいと願ってのことです。私はあくまで脇役!

 

「しののめ寺町」のじゃこ山椒を召し上がったお客様の記憶の中に、新たなストーリーを持った味覚が生まれる…。そんなロマンを夢見ながら、今日も店を開けております。

 

いつかはきちんと書きたいと思っていた「味」のこと。やっと書けました。改めましての決意表明です。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

写真家 ロベール・ドアノー

アートなこと

2014年10月13日

久し振りに展覧会に出かけてきました。京都現代美術館 何必館で開催中のロベール・ドアノーの写真展「没後20年 ドアノーの愛したパリ」です。

生涯、パリに生きる人々を撮影し続けたドアノー。雑踏の中を歩き廻りとらえられた数々の情景は、まるで映画のワンシーンのよう。「市役所前のキス」はあまりに有名な一枚です。

うってつけの場所に、うってつけの俳優を立たせ、計算し尽くしたポーズをとらせたかのような写真の数々。微笑ましさにクスッとしたり、漂う哀愁に切なくなったり。いろいろな想像を掻き立てられ、見入ってしまいます。それらが市井の人々の織り成す偶然の一場面というのが驚きです。

姿かたちの美醜を超えた、そのひと自身の持つ美しさ。身なりの良し悪しにかかわらない、そのひとの精神に宿る誇り。ひとりひとりの存在感、かけがえのなさに、ただただ圧倒されます。

伝書鳩が地図を読むことを覚えたとしたら、きっと方向感覚を失ってしまうだろう。自分にとって大事なことは、大きな好奇心をもってパリの雑踏の中を自由に歩くことだ。

ドアノーの言葉です。才能ある芸術家だからこその言葉だなぁと思います。が、私たちに当てはめてみてもいいのでは?

世の中の決まりごと、暗黙の了解、なんとなく根付いている常識…。そうしたものは必要ではあるけれど、一方で大切なものを見失わせてしまうこともあるような。

ひとり旅をしたり、社会人学生になったりしてきた私、変わっているとよく言われたものです。主婦で? 母親で? と。心は自由でありたいと願うほど、不自由を感じてきたように思います。もともと地図が読めないタイプなもので…(笑)。

店を始めてよかったことの一つが、好奇心いっぱいにちょっと変わったことをすると褒められること、です。おとなしく当たり前のことをしていたのではちっとも褒めてもらえません。今までとは真逆! とても自由になれた気がしています。

普通のひとが普通に生きる姿が、そのまま絵になるドアノーの写真ですが、思えば「普通のひと」なんて、本当は一人もいないのかもしれません。誰もが特別で、ドラマチックな、かけがえのない人生!

街の風景、醸し出されるにおいが、ますますそのひとの人生を彩るということはあるかもしれません。パリ生まれのドアノーにとって、舞台がパリというのは意味のあることだったのでしょう。

ドアノーの写真を見ていて、ふつふつと湧き出る思いがありました。私もほかの誰でもない私の人生を生きたい。どの場面を切り取っても絵になるような、そんな人生を生き切りたい。

パリと似た街と言われる京都、舞台設定は申し分ありません。あとはモデルの私次第、そこがちょっと…(笑)。

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