味
店のこと
2014年10月21日
開店から2年と7カ月が経ちました。
まだまだ未熟な店ですが、お馴染みのお客様が増えてきたり、評判を聞いてと来店くださるお客様が増えてきたり。
「ここのおじゃこは、本当においしいねぇ」
「おじゃこは、ここのしかアカンって言うひとがいて」
店頭で毎日聞かれるこうしたお声に、少しずつながら手応えを感じているところです。食べ物を売る店、味を褒めていただくことほど有り難いことはありません。「しののめ寺町」のじゃこ山椒は、我が家の長男が毎朝炊いております。
開店以来、あれこれ思い悩むことはたくさんありましたが、なかでも一番難しかったのは「味」だったのではないかと思います。創業以来の味があるのだから、簡単なのでは? と思われるかもしれません。私たち自身もそう思っていました。創業以来の味を守り、変わらぬおいしさをお届けしているつもりでした。が、開店当初、ご試食いただいたお客様の反応は予想外のものでした。
「おいしい!」
「これこれ、この味!」
と手を打ってお買い求めくださる方がほとんどでしたが、必ずしも皆さんがそうだったわけではありません。古くからお馴染みのお客様のなかには、味が「濃い」「薄い」、ちりめんじゃこが「かたい」「柔らかい」とひとによって正反対の感想を仰る方も。どうとは説明できないけれど、どこか違う。といったお声も。正直、戸惑いました。
あれこれ思いあぐねましたが、結果わかったことは、味覚はとてもデリケートなもの、プライベートなものだということです。味の感じ方、好みはまさに十人十色。さらにそれぞれの記憶やストーリーといったものに、文字通り味付けされた、その方ならではの味覚というものがあるような。これはもう万人に受け入れられる味を追求するのは無理なことと思い至りました。
ちりめんじゃこ自体が自然のものですので、毎回100パーセント同じ見た目、同じ味というのも実は有り得ないことです。そこを加味しながら、出来る限り同じ仕上がりになるよう炊きあげるのも、また腕のみせどころ。それでも補い切れないブレは、手作りならではの味わいとお許しいただく。精一杯やったうえで、あとはそう申し上げるしかないというのが正直な思いです。
「しののめ寺町」のじゃこ山椒、私はいつも「おいしい!」と思いながらいただいております。ごはんをついついもう一口、気づけば一膳分になっていた、なんてことも。自画自賛、承知で書きます。「ホンマにおいしい!」(笑)。自分がおいしいと思えるものを販売して、お客様においしいと言っていただける。こんな幸せな仕事はありません。
長男が厨房で炊く姿も、すっかり板についてきました。全幅の信頼を寄せている業者さんから仕入れているちりめんじゃこ、そのまま食べてもおいしい最高級のものです。そのちりめんじゃこ、触れて、食べてみて、そのときどきに応じて、レシピでは表しきれない手加減をしながら炊いているようです。なかなかのこだわりを持っている様子。職人気質でこの仕事が合っているなと、母は秘かに思っています。
長年「ほぼ専業主婦」でしたので、家族の健康を守るのが仕事と、三度の食事作りには心を砕いてきました。昆布、煮干しでだしを取り、京風の薄味で、と心掛けてきました。そうしたものを食べて育ってきた長男の味覚、なかなかいい舌を持っているように思います。あくまでひいき目に見て、ですが(笑)。
味が主役!
その味を伝えるのが私の使命だと思っています。なにかとしゃしゃり出ている感のある私でありますが(笑)ひとえにこの味を一人でも多くの方に知っていただきたいと願ってのことです。私はあくまで脇役!
「しののめ寺町」のじゃこ山椒を召し上がったお客様の記憶の中に、新たなストーリーを持った味覚が生まれる…。そんなロマンを夢見ながら、今日も店を開けております。
いつかはきちんと書きたいと思っていた「味」のこと。やっと書けました。改めましての決意表明です。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
写真家 ロベール・ドアノー
アートなこと
2014年10月13日
久し振りに展覧会に出かけてきました。京都現代美術館 何必館で開催中のロベール・ドアノーの写真展「没後20年 ドアノーの愛したパリ」です。
生涯、パリに生きる人々を撮影し続けたドアノー。雑踏の中を歩き廻りとらえられた数々の情景は、まるで映画のワンシーンのよう。「市役所前のキス」はあまりに有名な一枚です。
うってつけの場所に、うってつけの俳優を立たせ、計算し尽くしたポーズをとらせたかのような写真の数々。微笑ましさにクスッとしたり、漂う哀愁に切なくなったり。いろいろな想像を掻き立てられ、見入ってしまいます。それらが市井の人々の織り成す偶然の一場面というのが驚きです。
姿かたちの美醜を超えた、そのひと自身の持つ美しさ。身なりの良し悪しにかかわらない、そのひとの精神に宿る誇り。ひとりひとりの存在感、かけがえのなさに、ただただ圧倒されます。
伝書鳩が地図を読むことを覚えたとしたら、きっと方向感覚を失ってしまうだろう。自分にとって大事なことは、大きな好奇心をもってパリの雑踏の中を自由に歩くことだ。
ドアノーの言葉です。才能ある芸術家だからこその言葉だなぁと思います。が、私たちに当てはめてみてもいいのでは?
世の中の決まりごと、暗黙の了解、なんとなく根付いている常識…。そうしたものは必要ではあるけれど、一方で大切なものを見失わせてしまうこともあるような。
ひとり旅をしたり、社会人学生になったりしてきた私、変わっているとよく言われたものです。主婦で? 母親で? と。心は自由でありたいと願うほど、不自由を感じてきたように思います。もともと地図が読めないタイプなもので…(笑)。
店を始めてよかったことの一つが、好奇心いっぱいにちょっと変わったことをすると褒められること、です。おとなしく当たり前のことをしていたのではちっとも褒めてもらえません。今までとは真逆! とても自由になれた気がしています。
普通のひとが普通に生きる姿が、そのまま絵になるドアノーの写真ですが、思えば「普通のひと」なんて、本当は一人もいないのかもしれません。誰もが特別で、ドラマチックな、かけがえのない人生!
街の風景、醸し出されるにおいが、ますますそのひとの人生を彩るということはあるかもしれません。パリ生まれのドアノーにとって、舞台がパリというのは意味のあることだったのでしょう。
ドアノーの写真を見ていて、ふつふつと湧き出る思いがありました。私もほかの誰でもない私の人生を生きたい。どの場面を切り取っても絵になるような、そんな人生を生き切りたい。
パリと似た街と言われる京都、舞台設定は申し分ありません。あとはモデルの私次第、そこがちょっと…(笑)。
堀文子さんの言葉 2
素敵な女性
2014年09月28日
前回(ブログ堀文子さんの言葉)に続き、堀文子さんの言葉です。
息の絶えるまで感動していたい
短いけれど力を持った言葉、何度読み返しても心が震えます。
前回も紹介したNHKの「日曜美術館」では、ご自宅での様子も撮影されていました。そのなかで忘れ難い場面があります。うろ覚えですが…。
庭の草木にホースで水を撒かれていた時のこと、植物の間にクモの巣を見つけられました。水のかかったクモの巣に陽が当たり輝く様子を、なんてきれいなんでしょうと、それはそれは嬉しそうにはしゃいでおられました。アートのようなクモの巣の造形美、したたる水のしずくの輝き、確かにきれいだったような。そこの記憶は曖昧なのですが、子供のように無邪気に喜ぶ堀文子さんの姿は今も鮮明に浮かびます。
自然の織り成す美しさは、ひとを感動させてくれます。が、それが水を浴びて輝くクモの巣って…。ここまで無邪気に喜べるって…。なんて素敵なひと、なんて可愛らしい女性、そう感じたことを覚えています。
感動という言葉、簡単に使われ過ぎているように感じるのは私だけでしょうか。心から感動するって、案外難しいことに思います。慣れきった生活のなかで緩んでしまった心では、到底…。
私は岐路に立たされたときは必ず、未知で困難な方を選ぶようにしています
絶えず果敢なチャレンジを続けておられる堀文子さん。踏み出す一歩一歩が未知の世界なのではないでしょうか。感動すべきものに出会ったなら、たちまち感動できる心の状態を、常に保たれているのだろうと想像します。
堀文子さんには遠く及びませんが、「しののめ寺町」開店以来の毎日も私には未知の世界の連続でした。新しい発見、出会い、学び…。しんどいこともありますが、感動もまた絶えない毎日。慣れ親しんだ生活のなかでは、決して味わえなかったことばかりです。
開店から二年半が経ち、慣れてきたこともありますが、慣れてしまってはいけないなぁと思います。
堀文子さんほどの強い生き方は、私にはとうてい真似できませんが、心意気だけは見習いたいと思います。過去に囚われず、常に前を向いていきたい。絶えることなく新しい今を更新し、さっきまで知らなかった今に感動し続けていきたい。未来を案じ過ぎず、恐れ過ぎず。私も願わくば…
息の絶えるまで感動していたい
店まで通うのに長らく地下鉄を使ってきましたが、最近、新車購入を機に自転車に変えてみました。空の色、雲の形、光や風…、一日として同じ日はありません。最近では金木犀が香るように。帰る頃は真っ暗でちょっと心細くなりますが、ペダルを強くこいでみると、薄闇が開かれていくような。
今までになかった心の動きを感じながら、いくつになっても新たな感動があるなぁと思うこのごろ。そんな自分に感動している私がいたりして。
堀文子さんの言葉
素敵な女性
2014年09月14日
前回のブログで日本画家、堀文子さんのことを書きました。(ブログ画家 堀文子さんのこと)
ふと立ち寄ったカフェで、たまたま座った席の正面に置かれたていたのが、堀文子さんのエッセイ「堀文子の言葉 ひとりで生きる」でした。絵と共にその生き様が素晴らしく、珠玉の言葉をたくさん残しておられる堀文子さん。私の憧れの女性です。思わず手に取ると、冒頭こんな文章が…。
私は九十年もの長い間さまよって、やっと少しわかったというか、私は自分を否定して、自分のことを劣っていると思っていましたから、よその世界に憧れて世界中をさまよったのです。自分は日本の生物だったと、そのことがわかるまでに長い時間がかかりました。
見つかったかどうかは知りませんけど、「青い鳥はよそにはいない」ということがわかったのです。皆さんも「青い鳥は自分のなかにいる」はずです。
私も自分のことを、なにか決定的なものが欠落した、ひとより劣った人間だと思ってきました。欠けているものを埋めたくて、劣っているところを補いたくて、随分と模索を続けてきました。堀文子さんには遠く及びませんが、方々探し回り、あれこれと試みてきたように思います。
けれど、どこも自分の居場所ではないような、どれも自分が求めていたことではないような、そんな気がしてすごすごと撤退、なんてことを繰り返してきました。飽き性とも少し違う、どれもしっくりとこなかったのです。
そんな様子を好奇心旺盛とか、行動力があるとか言ってくださる方もありますが、どれも大成することなく投げ出してきただけです。また回りををキョロキョロして、ひとと自分を比較して、ないものねだりをして、手に入らないことに途方に暮れて…。不全感はますます募るばかりでした。
思いがけず店を始めることになって二年半が過ぎました。生活は激変。あれこれ言っている余裕などなく、ただ目の前にある「しののめ寺町」と向き合ってきた日々。それはとりもなおさず、自分と向き合ってきた時間でもあります。
突然、商売の世界に飛び込んだ私は、ひとのなん倍も努力しなければいけないと思っていました。まわりの華やかな方たちを見て、私には到底真似はできないと思うことも。正直ちょっと疲れ気味に(ブログストック)。
一日の大半の時間を過ごす店、そこに立つ自分…。初めてここが私の居場所だと思えました。求めていたことがここにはあるのだと。だからどんなに疲れても、今度ばかりは続けてこられています。
自分の思いが店に反映し、店の印象が私に投影される。そんな毎日を送るなかで、気づいたこがあります。店をよくしていくには、まず自分がよくあらねばいけないということ。店を大切に思うなら、まず自分を大切にしなければいけないということ。
まわりから学ぶことはたくさんあります。もちろんこれからも学び続けていくつもりです。が、同時に自分に目を向けていくことも大切なんじゃないか、そう思うようになりました。自分の中に眠るものを呼び覚ますこと。くすんだまま放置しているものに磨きをかけること。そこにはまだまだ大きな可能性が秘められているような。逆行するようですが、改めてそこから始めてみようと思います。
私の心の中に、青い明かりが灯りました。よく見ると、濃い鮮やかな青色をした鳥でした。以来、ときどき手に載せて優しく撫でてやります。両の掌で包むようにそっと抱いてやります。繊細な羽を傷つけぬよう大切に。鳥は安心したように身を委ね、私の心も穏やかになっていきます。
堀文子さんの言葉のとおり、青い鳥は誰の心の中にも一羽ずついるはず。気づくか気づかないかは本人次第。気づけた私は幸運でした。
余談ですが、8月のこと、自宅の玄関先のやまぼうしの鉢植えに、鳥が巣を作りました。ぴぃぴぃと可愛い鳴き声を上げて、いたいけなヒナが二羽。親鳥が餌をくわえては通ってきます。巣立ちを楽しみに、木を見上げる日が数日続きました。
今年は大雨続きの夏でした。そこは屋根もない場所で、心配していたところに台風が。ぱったりと鳴き声が聞こえず、可愛い顔を見せてくれることもなくなりました。巣を覗いてみると、中は空っぽ。巣立ちには早すぎます。どうしたことやら。私の力不足のようで申し訳ない気もしましたが、自然界で生き抜くのは容易なことではないのかもしれません。
勝手な解釈ではありますが、折も折、私の心に青い鳥のイメージを届けに来てくれたような、そんなエピソードでした。
画家 堀文子さんのこと
素敵な女性
2014年08月30日
少し前のことになりますが、仕事帰り、とあるブックカフェに立ち寄りました。
京都には素敵なカフェや喫茶店がたくさんありますが、なかでも京都通の知人が勧めてくれていた店で、お一人でどうぞ、という意味深なコメントも気になっていました。ちょっとクールダウンしたい気分のその日、ふと思い出して出かけたのでした。
とてもわかりづらい建物の一室、怪しい扉を恐る恐る開けると…。中は一変、お洒落なカフェでした。窓に向かって設えられたカウンター席に、ひとり客が数名。本を読んだり、パソコンをしたり。外の世界とは隔絶したような独特の雰囲気。とにかく静か。コメントの意味がすぐに理解できました。
空いた席に腰かけると、真正面にあった一冊の本に思わず手が伸びました。「堀文子の言葉 ひとりで生きる」。憧れの女性、日本画家の堀文子さんのエッセイでした。
堀文子さんのことを初めて知ったのは、NHKの「日曜美術館」という番組。壇ふみさんが司会をされていましたので、ずいぶん前のことです。ご本人も出演されていて、絵の美しさはもとより、そのお話のユニークさに驚いたのを記憶しています。
すべてにおいて、ひとところに留まるということを知らない生き方。常に未知なものを求めて、挑戦し、感動し、また挑戦し…。過酷ではないのかと思いきや、むしろ楽しくってしょうがないご様子。孤高な芸術家の顔と、愛らしい童女の顔を併せ持った、とても魅力的な方という印象でした。
群れない 慣れない 頼らない
堀文子さんのモットーです。以来、私も常々自分への戒めとしてきました。が、気づけば、長らく忘れていました。茨木のり子さん(ブログ自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ)や須賀敦子さん(ブログユルスナールの靴)のことは、開店後もよく思い出していたのに。
ページを繰ると、容赦ない厳しい言葉が並びます。研ぎ澄まされた言葉に息をのみつつも、どこかしら漂うユーモアに救われる、というのが堀文子さん流でしょうか。そうそう、これこれ、と思い出し、一気に読破しました。
自由は、命懸けのこと
自由でありたいというのは、誰しも願うことです。私もせめて心だけは自由でありたいと思います。なにものにも囚われず、あるがままでいたい。
それが、命懸けって…。そこまでの覚悟はあるか?! と喝を入れられたような。90歳を超えた童女から見れば、私などまだまだ尻が青い(笑)。
読み終えて本を戻すと、不思議な爽快感が。いつの間にやら、窓の外は真っ暗。小一時間、しばし異次元に迷い込んだような奇妙な感覚でした。間違いなく、私はこの一冊に呼ばれて、ここに来たんだと思いました。偶然のようで、実は必然の出来事。入店時のふさいだ心持ちから一転、心軽くなって店を出る自分に、そう実感しました。
思い悩むことの尽きない毎日です。同時に、まるで用意されたように必要な助けが現れる毎日でもあります。一気に解決とはいかないけれど、また進んでいこうと思える一助となるものが、私の前には必ず現れます。ひとであったり、言葉であったり…。大きな計らいが働いていることを感じずにはいられません。
そんなことをまさに体現した出来事でした。
堀文子さんの珠玉の言葉の数々は、また改めて紹介していきたいと思います。