八日目の蝉

アートなこと

2015年08月23日

日差しの強くなった七月から、通勤は日焼けを恐れて自転車から地下鉄に変更です。丸太町の駅で地上に出ると、たちまち、けたたましい蝉の鳴き声が。空からシャーシャーと降り注ぐような大音響のなか日傘を差して歩いていると、しきりに浮かぶ言葉があります。

八日目の蝉

角田光代さんの小説です。残念ながら原作は読んでいないのですが、何年か前に映画を観ました。印象的なタイトルと共に、感慨深いストーリーが今も心に残っています。

不倫相手の赤ちゃんを不本意ながら堕胎した女性が、時を同じくして出産した本妻の赤ちゃんを衝動的に誘拐。自分の子どもとして育てるも、数年で発覚。本来の両親の元に戻された子どもは、なにもなかったように普通の生活に戻れるはずもなく…。

成長したその女の子が、通常では有り得ない経験をした自分を蝉になぞらえ、同じく不遇な環境で育った女性に語ります。七日でみんな死んでしまうなか、一人だけ八日目まで生きる蝉がいたら悲しい、と。

相手の女性は答えます。八日目の蝉はほかの蝉には見られなかったものが見られる。それはすごく綺麗なものかもしれない、と。

小説家の着眼点のおもしろさに感心せずにはいられないワンシーンです。タイトルが決まると、作品はほぼ完成したも同じ、と聞いたことがあります。これはまさにそうだったのではないかと、素人ながらに思う一冊です。

店を始めるまでは、毎年ひどい夏バテに悩まされていました(ブログユルスナールの靴)。早朝から聞こえてくる元気極まりない蝉の鳴き声には、苛立たしささえ覚えたものです。それが、この映画を観てからは、渾身の力で鳴き、短い命を生き切る蝉が、無性に愛おしく思えるようになりました。

店への道すがら聞く蝉の鳴き声に、私もずいぶん夏に強くなったものだと感心しながら、そんなことを思い出しています。

ほんの3年半ほど前までは「ほぼ専業主婦」だった私、開店以来の日々は、かつての生活では有り得なかった経験の連続でした。思いもよらないこと。経験してみなければわからないこと。うれしいこともありますが、ときにしんどく思うことも。

ふと、平穏な暮らしってどんなかな、と思うことがあります。平穏な暮らしのイメージを勝手に描きながら、うらやましく思ってもみたり。しばし妄想にふけったあと、我に返って思います。うれしいことも、しんどいこともない交ぜの、てんやわんやの人生の方が、きっとおもしろい。

私は八日目の蝉になりたい

私にしか見られない綺麗なものが、きっと見られるはず。私はそれを見てみたい。そんなことを思う八月、生きることに貪欲になってきた自分を感じるこのごろです。

祇園祭

お祭りのこと

2015年08月09日

店を始めて増えた楽しみは山ほどありますが、その一つが祇園祭です。

自宅は鉾や山が建てられる四条通界隈から、地下鉄で北に5駅ほど。すぐといえばすぐなのですが、あまり出かけて行ったことがありません。というのも暑いさなか、ただならぬ雑踏です。さらに祇園祭というと街の中心部の格式高い会社やおうちの方たちのお祭り、という印象が私にはありました。どこか近寄り難いような。(ブログ私が苦手だったもの 京都

クライマックスの17日の山鉾巡行。それを前に縁日で賑わう宵山、宵々山。この三日間あたりがお祭りのメイン。長年、そう思っていました。 そんな認識が、寺町に店を構えてから一変することに。

お客様の中には、鉾町にお住まいの方も多くいらっしゃいます。あるいは囃子方さんや、鉾や山の引き手さん。御神輿の担ぎ手さん。浴衣姿で厄除けの粽(ちまき)の売り子をするという小さな女の子も。

7月の一ヶ月を通して様々な行事があり、様々な方が関わっておられること。決して街中の一部の方だけでなく、京都各地から、あるいは他府県から、外国からと門戸が広く開けられていること。自分が随分間違った認識をしていたと気づかされることが、たくさんありました。

そうした皆さん、祇園祭への思い入れは強く、口々に熱く語られる、語られる。決してお祭り騒ぎのノリではなく、神事としての厳かさを湛えられていて、こちらも神妙な面持ちで聞き入ってしまいます。

鉾立て、曳き初め、神楽、今様、…。興味を持ってみると、毎日どこかでなにかが行われていることがわかり、それだけで心浮き立ちます。最近ではフェイスブックなどで、知人たちが各所の様子を画像や動画つきで伝えてくれるので、店に居ながらにして雰囲気を味わえるのは有り難いことです。

7月17日は台風の影響で大雨。山鉾の巡行が危ぶまれましたが、決行の英断。小雨になることを祈りながら、仕事の合間にテレビ中継を見ていましたが、雨は激しくなるばかり。あいにくの天候ではありましたが、むしろ京都の町衆の心意気が伝わり、いつにない感動を覚えました。

その夜の御神輿が練り歩く神幸祭に、今年は初めて出かけてみました。夜になっても衰えを見せない大雨。朝の雅な山鉾巡行とは打って変わり、勇壮な御神輿巡行には、そんな大雨もまた似合うようでした。

御神輿に神様が乗っておられ、街中を旅しながら人々の様子をご覧になるのだとか。祇園祭のクライマックスはむしろこちら。朝の山鉾巡行は、神様の来訪に先駆けてのお清めの意味があるのだと知り驚きました。

大雨の中、雑踏の中、神様、私を見つけてよ。私を見守っていてよ。心でそう祈りながら、御神輿のあとを付いて歩きました。

店の近く、下御霊神社のお祭りの時もそうですが、お祭りの夜にはいつも、なにかしら心が感じやすく、涙もろくなってしまいます。きっと神様が近くにいらっしゃるんだなぁ。その日も、そう思わないではいられない夜でした(ブログ下御霊神社)。

山鉾巡行では先頭の長刀鉾にお稚児さんが乗っておられます。就任時のインタビューで無邪気な様子を見せていた小学生が、この日はまるで別人。まさに神様の使い。神様が宿ったかと思われるほど神々しい姿に、いつも息を呑んでしまいます。

上の写真は神幸祭のお稚児さんですが、こちらもまた神々しい。 思えば、ひとは誰もが神性というものをもって生まれてくるのではないかと思います。赤ん坊の顔はあどけないようでいて、ときに神々しい表情にハッとさせられることがあります。残念ながら、年齢を重ねるごとに忘れていってしまうようですが。

お祭りの日、誰もが童心に返るのは、神様が近くに来てくださることで、眠っていた神性が目を覚ますからではないでしょうか。お祭りの夜、私の魂も幼い頃の無垢な、神性を宿した女の子に返ったのだと思います。久し振りに浴衣を着てみたくなったのは、そんな女の子の願いだったかも。

店を始めて4度目の祇園祭。蒸し暑い夏の京都に住まう贅沢を、初めて実感した7月でした。遅ればせではありますが、これからも一年一年、祇園祭を楽しんでいきたいと思います。

休日

家のこと

2015年07月27日

店を始めて、ありがたさが身に染みてわかるようになったことがたくさんあります。ひと様の情け、ご縁、健康、お金…。そうしたなかの一つが時間です。

「しののめ寺町」の定休日は毎週水曜日と第二木曜日です。「この前来たら、お休みやった」と仰るお客様も多く、なかには遠方の方や旅行中の方も。本当に申し訳なく思うのですが、年中無休というわけにもいかず。定休日が定着することを祈るばかりです。

一般的には土、日、祝日が休みという職場が多いでしょうか。テレビで週末情報などを耳にするたびに、世の中と少し違った時間軸を生きているような不思議な感覚を味わうことがあります。

そんな私の休日、どんな風に過ごしているかといいますと…。文字通り休んでいるわけにはいかず、いつも以上に気合いを入れて早起きするのが常です。早朝からできる限りの家事を済ませ、まずは自宅近くのフィットネススタジオへ(ブログ)。ストレッチやピラティスで、一週間の体と心の凝りをほぐします。

スッキリしたところで、引き続き自宅で溜まった家事をする日もあれば、そんなことは投げ打って(笑)出かける日も。気の置けない友人との食事だったり、真面目な勉強会だったり、時に楽しい集いだったり。

どんなふうに過ごした一日も、あっという間に夕方になり、あっという間に夜が来て、待ちに待った休日もあっという間におしまい。あくせく動いて、結局、翌日に疲れを持ち越し、なんてことも。

そんななか、月に一度の連休は、おまけをもらったような特別な二日間。大切に過ごすよう心がけています。まずは自分のために花を買って(ブログ私が苦手だったもの 花)、お気に入りのCDをゆっくり聴いてみたり、友人に短い便りを書いてみたり。自宅で過ごす時間は、ただそれだけで贅沢だなぁと思います。

時の流れと言いますが、時間がユラユラとたゆとうて、行きつ戻りつしながらチュロチュロと流れていく音が耳元で本当に聞こえるようです。

耳を傾けていると、穏やかな気持ちになり、ふだん大きな振れ巾で揺れがちな心が落ち着いていくのを感じます。私が時間に身を委ねているような、時間が私に寄り添うてくれているような。時間はそこにあるだけで癒しとなりうるのだなぁと思います。川や滝の水音を聞くと、心が休まるのと通じるでしょうか。

時間は誰にも平等、とはよく言われることですが、本当にそうかなぁと思います。私には、糸車を回すように、時に早く、時にゆっくり、神様が手加減を加えていらっしゃる気がしてなりません。

いつだったかの台風の日、店を開けていても開店休業状態だろうと、私だけ休みをもらったことがありました。たまたま日曜日。何年かぶりに、朝から教育テレビの「日曜美術館」を見ながら、世の中と同じ休日を過ごすことに違和感を感じている自分が新鮮でした。

あとはなにをして過ごしたかは覚えていませんが、一日がこんなに長くて、こんなに静かなものかと驚いたことを覚えています。夜、窓を開けると神秘的な満月。奇しくもスーパームーンの日でした。神様が私の日頃の労をねぎらって、糸車をゆっくりゆっくり回してくださったに違いない。そう信じないではいられない一日でした。

店を始め、時間に追われる生活になったことで、逆に時間がとても愛おしく感じられるようになったんだと思います。

特別なことなどなくても、大切に過ごした連休は、終わってみるとたった二日前のことが、ずいぶん以前のことに思えるから不思議です。静かな満足感と、翌日への活力を心身に満たして、その夜は豊かな気持ちで眠りに就くことができます。

毎日、楽しいことばかりとはいきません。誰しもそうであるように、どうしたって引き受けなければいけない困難もあるものです。それでも限りある時間、限りある人生、無用に心を煩わせ、かけがえのない時間を無駄に過ごすことだけはしたくない。そう思うようになりました。

希望や喜び、楽しさ、おもしろさを見つけながら暮らしたい。

私にとって休日は、そんな思いを新たにする日でもあります。皆様には、ぜひ「しののめ寺町」の定休日を覚えていただきますよう、よろしくお願いします。

日日(にちにち)の…

店のこと

2015年07月02日

開店当初からごひいきいただいているお客様のなかに、ご主人様はドイツの方、奥様は日本の方というご夫婦がいらっしゃいます。それぞれに美術工芸や食文感など多岐にわたりご活躍で、最近、活動の拠点を東京から京都に移されたとのこと、私もうれしく思っているところです。

 

それはそれは素敵なお二人、ご来店の折にお話しできることをいつも楽しみにしているのですが、先日、奥様からこんなお話を伺いました。

 

京都に住まう七十歳の女性の「わたしらが日日(にちにち)の生活に使うものは…」という言葉に、ご主人様がいたく感銘を受けられたとのこと。それをヒントにご自身のギャラリーを「日日(にちにち)」と名付けられたというのです。

 

「わたしらが日日(にちにち)の生活に使うものは…」とは、普段使いの食器だったり、生活道具だったり、食材だったりを指すのでしょうか。特別な日のような華やかさはないけれど、愛着ある身の回りのものたち。

 

どこかで聞いたことがあるような。そう言われれば知っているけれど、敢えては使わなくなった言葉です。

 

かつてはハレの日とケの日がはっきりと分かれていたように思います。ハレの日の代表と言えばお正月ですが、とても特別な日に感じていたのは、私が子供だったからばかりではないでしょう。

 

一方で、一年の大部分を占めるケの日、特別ではない普通の日です。「わたしらが日日(にちにち)の生活に使うものは…」という言葉には、そんななんでもない一日一日を丁寧に、愛おしむように暮らしてきた古き良き日本人の暮らしぶりが表現されているように思います。

 

このほんの短い言葉から立ちのぼる、えも言われぬ風情。日日(ひび)とは少し違う、日日(にちにち)という音(おん)の持つ趣。こんな美しい日本語があったんだと思いました。眠っていた記憶が呼び覚まされたような、懐かしい感覚です。

 

それにしてもドイツ人であるご主人様がいたく感銘を受けられたという、その感性には驚くばかり。日本の良さは外国の方に、京都の良さは他府県の方に教わる毎日です。

 

そんなお話を聞かせてくださった奥様、ただ今発売中の「婦人画報」8月号に掲載されていらっしゃいます。まさに「日日(にちにち)の…」を体現されているような素敵な暮らしぶり。舞台はここ京都、寺町です。

 

行きつけのお店として「しののめ寺町」をご紹介いただいています。素敵な日日のひとこまに、うちのじゃこ山椒を添えていただいている幸せ。本当にありがたいことです。

 

京都特集も満載です。お客様の記事と共に、是非ともご覧いただけたらと思います。

自分は大事ですもの

心と体のこと

2015年06月17日

常々、不思議に思っていることがあります。

たまたまお越しくださったお客様が、ちょうどその時の私に必要な言葉をかけてくださることがあるのです。それがあまりに絶妙なタイミングなもので、神様からのメッセージを携えた遣いの方なんじゃないかと思うほどだったりして。

先日のこと、杖をついた高齢の女性がお一人で来店されました。月に一度、近くの病院までリハビリに通っておられるとのこと。なんでも少し前に脳梗塞を起こされながらも、ご自身の判断でかかりつけのお医者様にすぐに連絡された由。対応が早かったため軽い後遺症で済んだと、明るく話してくださいました。

ささいな前兆を見逃さないこと。遠慮などせずにただちに行動すること。その大切さがお元気そうな姿から、よく理解できました。その直感力と瞬発力は素晴らしく、明暗を分ける大きなカギだったでしょう。私もいろいろな病気が気になる年齢、もしもの時にはこうありたいと思いますが、意外に難しいことなのではないでしょうか。そこをお尋ねすると…、

「自分は大事ですもの」

と、こともなげにお客様。あまりにシンプルな答えに驚き、お客様の顔に見入ってしまいました。そんな私をよそに、ただただにこやかな表情。あぁ、この方はご自分のことを誰よりもよくご存じで、誰よりも慈しんで生きてこられたんだなぁ。だから自分の小さな変化にも気づけるし、大事な自分を助けるためなら余計な遠慮など二の次にできるんだなぁ。そう思いました。

入院中、相部屋だった遠方の方にじゃこ山椒を送ってあげたいとのこと。その方との思い出話を伺いながら、自分を大事にできる人は他人をも大事にできるのだとも思ったり。

通院のついでに食事や買い物を楽しまれていること、趣味の文楽や俳句のことなども話してくださり、最後に「今日は興奮しちゃったわ」といたずらっぽく笑って帰って行かれました。そのうしろ姿を見送りながら、自分を大事にするって、こういうことなんだなぁと思いました。うまく書けませんが。

自分を大事にしないと、とは店を始めてから特に意識的に思っていることです。ただ、その大事にすべき自分が一体どういう人間なのか。それを本当にわかっているかというと、そもそもそこが怪しい気がします。

人から見えている自分と、自ら認識している自分、その間にはズレがあるものではないでしょうか。若い頃ぽっちゃりだった私は、今でも自分のことをぽっちゃりだと思っています。たまにひとから「華奢ですね」とか言われると、それって誰のこと? とあたりをキョロキョロ見回す自分がいます(笑)。ある時期に刷り込まれた自己イメージが根付いてしまうと、それを払拭することはなかなかに難しい。

「ほぼ専業主婦」が長かった私。開店を機に自称「にわか女将」になりましたが、いつまでたっても「ほぼ専業主婦」の自己イメージが拭い去れていないことに気づくこのごろです。それを隠れ蓑に、出来ないことの言い訳に使っている自分がいます。いえいえ私なんて、と言っているのが、謙遜しているようで実は居心地いい自分がいます。

一方で開店から3年と3ヶ月。事情はどうあれ、経緯はどうあれ、この間、店を開け、店に立ち、店を維持してきた年月の積み重ね。そこには自己を更新し続けてきた自分がいます。

私に私が追いつけない。

そのズレが自分をしんどくしているのかもしれない。そんなことを思っていた矢先のお客様の言葉…「自分は大事ですもの」。

それ以前の私も大事だけれど、今の私はもっと大事。今の私にぴったりフォーカスを合わせよう。自分を正しく認識し直そう。それこそが自分を大事にする第一歩なんじゃないか。

私は「しののめ寺町」をやっているひと。

宣言するほどのことでもありませんが、私にとっては大きな変化です。今さらと呆れられても、まだ早いとお叱りを受けても、書かずにはおれません。

そんなことを思う私でありますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。

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