着物
心と体のこと
2017年02月15日
店を始めて気づいたことの一つが、京都には着物を召した女性がたくさんいらっしゃる、ということでした。ここ寺町通りでも、着物姿の女性をよく見かけます。店のガラス戸越しに眺めながら、絵になるなぁと見とれることしばしば。京都の街に着物の女性はよく似合います。
もちろん着物でお越しのお客様もいらっしゃいます。祇園あたりでお店をされている方、茶道や芸能の関係の方、呉服屋さん…。お出かけは着物で、という方。なかには京都だから着物で来た、なんていう観光のお客様も。
様々な会に参加させていただくようになりましたが、やはり着物の女性は必ずいらっしゃいます。着物は洋服以上に個性が際立ち、その方の美しさが光るよう。間近に拝見し、着物にまつわるお話を伺ううちに、いつからか私も着物を着たい、と思うようになりました。
とはいえ時間に追われる毎日。実現は難しいと思っていたところ、素敵な知らせが届きました。手作りカバンの店(http://narrowboat.jp/)を営む友人が「着物部」なるものを発足したというのです。着物の難しい約束事は言いっこなし、気軽に着物で出かけましょう、がコンセプト。定休日がうちと同じのこのお店、開催日はいつも水曜日です。
私にうってつけの部活動。ふたつ返事で入部を表明。って、なんの手続きがあるわけではありませんが(笑)。さっそく去年の8月に初参加となりました。よりによって暑い盛りではありましたが、久しぶりの着物に七五三の子ども状態だった私。着物を着ているというだけで、こんなにも心浮き立つものかと驚きました。
私の生まれ育ったのは、着物などおおよそ馴染みのない家庭でした。成人式の振袖も、たった一日のために親に大きな出費を強いるのは心苦しくて、「いらない」の一言で片づけてしまいました。
結婚の際も、ただでさえ準備が大変な時。「着物はいらない」と言ったのですが、良心的にお世話くださる方もあり、和箪笥にひと通りの着物を持たせてくれることになりました。
そんな着物も、数回着たばかり。次男の中学の卒業式を最後に、和箪笥は開かずの扉になってしまいました。年に一、二度の防虫剤の交換のたび、親に余計な負担をかけたものだと、今でも胸が痛みます。同時に、こんな無駄な着物を揃えてもらうくらいなら、振袖一枚を誂えてもらえばよかった、という後悔の念も。
実のところ、たった一日の我慢と思っていたのは、私のとんでもない誤算でした。成人式に着ることのなかった振袖は、あとあとまで大きな欠落感となって、私の中に根強く残ってしまっていたのです。
着物部に参加するに当たり、改めて、和箪笥を開け、たとう紙を一枚一枚開いてみました。しつけ糸がついたままの着物や帯。まっさらのままの小物のあれこれ。引っ張り出しては、鏡の前で合わせてみたりして。
今からでも着物を楽しんでみようかな。ふと、そんな思いが湧いてきました。二十歳にはもう戻れないけれど、その年齢なりの着こなしを楽しめるのが、着物というものなんじゃないか。
以来、機会を見つけては、着物で出かけるようになりました。といっても、自分で着られない私。着付けは専門の方にお願いし、仁王立ちしてる間に完了、という有様ですが(笑)。
着物を着て撮った写真の中の私は、どれもうれしそう。置き去りにしてきた、遠い日の私が、そこにいるような。「私の中の女の子」は、いたくご機嫌のもようです(ブログ私の中の女の子)。気づけば、長年にわたり着物にまとわりついていた苦い記憶は、どこかに追いやられていました。
なにごとにも最適な時期というものがあります。勉強や経験、人や物との出会い…。あぁ、あの時にできていたら、と悔やむことは限りありません。が…。
心から渇望したものは、時を経て、形を変えて、また目の前に舞い降りてくる。
着終わって、鴨居に吊らされた着物を眺めながら、そんなことを思うこのごろ。まだまだ、たくさんの楽しみを見つけられそうな予感がしています。
生きているって、おもしろい。
月は満ち 欠け また満ちていく
素敵な女性
2017年01月17日
新年のご挨拶が大変遅くなりました。今年もよろしくお願い申し上げます。
皆様、どのようなお正月を過ごされましたでしょうか。今年の抱負を胸に、意気揚々と新しい年を迎えられた方もあったことと思います。私はといいますと…。
なにかと懸案事項を山積みでの年越し。12月30日に仕事を終えた安堵感も束の間、夏休みの宿題をしないまま新学期を迎える小学生のように、ちょっと気の重い年明けとなってしまいました。そんななか、しきりに心に浮かぶ言葉がありました。「月は満ち、欠け、また満ちていく…」。
いつも元気そうやねぇ、とよく言われる私ですが、決してそんなわけはありません。日々、一喜一憂、首をうなだれかけては持ち直し、の繰り返しです。ときに、一喜一憂また一憂、なんとか持ちこたえて、次の一喜でようやく持ち直し、ということも。まれに、一喜一憂また一憂、そんでもってまた一憂、なんてことが。こうなるともう、うなだれた首を持ち上げるのは至難の業です。
ちょうどそんな気分だった去年の9月のこと…。閉店後、まっすぐ帰宅する気になれず、息抜きにちょっと街へ出てみました。暑さの残る土曜の夜、繁華街は人があふれ、熱気に満ちていました。久し振りに見る光景がとても新鮮で、閉塞感に少し風穴が開いたような。
デパートの本屋さんで、私にはちょっと高価な本を買い、食事をしていると、たまたま友人からメールが。気配を察し、有り難くも駆けつけてくれました。問わず語りに話すうちに、「しんどい~」と子供みたいに泣いてしまった私。親にも甘えないタイプの子供だったのに。ひとはいくつになっても、変われるもののようです。
お腹もふくれ、気持ちが落ち着いたところで、二人で地下鉄までぶらぶら歩いていると…。通り沿いの店から、賑やかな音楽が聞こえてきます。「い~や~、さぁさぁ~♪」と大きな掛け声。沖縄料理店でライブが行われているようでした。
歌声につられて店を覗くと、鮮やかな衣装をまとった若い女性が、声量たっぷりに、それはそれは気持ち良さそうに歌っています。ふくよかで、生命力に溢れ、まるで太陽神みたい。店先に立っておられたオーナーさんに促され、思わず店内に。
ライブは後半、観客も一体となって大盛り上がり。私たちもたちまち引き込まれ、一緒に立ち上がって、手を振りながら「い~や~、さぁさぁ♪」。泣いたカラスがもう笑った、状態です。
台風の合間を縫って、飛行機で沖縄からやって来たという、この太陽神シンガー。歌の合間に、生まれ育った沖縄のおじぃ、おばぁから聞かされてきたという話をしてくれました。
「いいかぁ、人生、山あり谷ありだよ。昇ったままの太陽なんてないんだよ。夜には沈み、翌朝また昇る。月は満ち、欠け、また満ちていく。潮は満ち、引いて、また満ちていく。人生も同じだよ。いいことばかりじゃない。悪いことばかりでもない。いい時も悪い時もあるんだよ」
私のために話してくれているの ? ! 私のために歌ってくれているの? ! 心が震え、涙が頬を伝いました。引き続いての底抜けに明るい歌声。涙が乾く間もなく、また笑顔に。泣いて笑って、忙しいカラスです。
そんなライブ中、思い出すのは千代さんのことでした。6年前、先が見えず、惹かれるままに一人、沖縄宮古島を訪ねた時、お世話になった民宿のおかみさんです。出会うなり、見知らぬ私を抱きしめ、滞在中もいろいろな話を聞かせてくれました(ブログ宮古島 農家民宿 津嘉山荘)。太陽神シンガーは、弱った私を遥か宮古島から案じた千代さんが、差し向けてくれたメッセンジャーだったのでは。
耳に心地よい沖縄訛り。体の中の波動と調和するような沖縄音楽のリズム。沖縄に行くと、地元の方から「うちなんちゅう?(沖縄のひと)」と聞かれる私。前世はきっと沖縄の人間だったんだと、常々思っていましたが、この夜、確信しました。
必要な時に、必要な人が現れてくれる。必要な時に、必要な言葉が届けられる。私のまわりでは、そんな奇跡がよく起こります。この日の出来事は、まるで映画のシナリオのようでした。いえいえ、本当の人生は、作りものの映画よりはるかにドラマチックなものかもしれません。
毎夜、月を見上げるのが好きな私、先の言葉の中でも「月は満ち、欠け、また満ちていく…」の一節が、ことのほか気に入っています。不安に立ちすくむ時、気持がふっと楽になり、一歩を踏み出す勇気が湧いてくる、素敵な言葉です。
簡単な一年なんてありません。簡単な人生もありません。あの夜のライブのように、まさに人生は泣き笑い。いい時も、そうでない時も「月は満ち、欠け、また満ちていく…」そう心で唱えながら、怖れず、楽しみながら、この一年を過ごしていこう。そんなことを思った、今年の幕開けでした。
まだまだ未熟な店、私でありますが、今年もどうぞ気長に見守ってくださいますよう、よろしくお願いします。
評価しない
心と体のこと
2016年12月31日
店を始めてから、すっかり運動不足に。体中どこもかしこも、いつもコリコリ。これではいけないと通い始めたフィットネスクラブ。今ではすっかり生活の一部となりました(ブログ体)。
なかでも仕事終わりの夜に出かけるアロマキャンドルヨガは、体のみならず、心のメンテナンスに欠かせない時間となっています。照明を落としたキャンドルのほの明かりの中、アロマの香り漂うスタジオは、たちまちリラックスモードにいざなってくれます。時に大きな窓から月明かりが射しこむことも。
マットに横たわり、目を閉じて、深い呼吸をすることから始まります。最初はいくらも息を吸い込めず、すぐに吐き出してしまう浅い呼吸が続きます。先生の静かな言葉かけに従って繰り返すうちに、次第に深い呼吸に…。
12月はじめのこと、いつものように始まったこのクラス。この日は、先生からこんな言葉かけがありました。
「評価せず、自分を観察してみましょう」
どうしたことか不意に目頭が熱くなり、閉じた目から涙があふれました。
評価しない…。とても衝撃的な言葉でした。私はといえば、いつもいつも自分を評価しながら暮らしている気がします。なにかをしては、評価する。なにかを考えては、評価する。評価はいつもワンセット。評価しないなんてこと、考えたこともありません。
自己評価が低いね、と言われることがあります。確かに、私の評価はいつも低い。だって、そうなのだから仕方ない…と、そんな自分をまた評価したりして。
店を構えているということは、常に評価にさらされているということでもあります。直接にいただく評価もあれば、見えない相手を想定しながら予測を立てる評価もあり。店を始めてからは、ますます評価することが増え、頭の中はいつも評価でいっぱい。
この評価、そもそもなにを基準にしているのかと考えると、まったくもって心もとない気がします。ハードルを上げれば低くなるし、下げれば高くなる。右に寄っても外れるし、左に寄っても外れる。ど真ん中がいいかというと、それではつまらないらしい。流動的というか、結構いい加減なものかもしれません。
今年春で開店から四年が経ちました。とはいえ、今年は今年の初めてのことも多く、緊張の高い一年でした。その緊張感に支えられ、後押しされ、新しいことにチャレンジしたり、改革したりということができた一年でもありました。
今になってみれば、ああすればよかった、こうすればよかった。もっと出来たろうに、もっとがんばれたろうに。なんて思うことばかり。ですが、その時、その時の自分にとっては、それが最善の判断、最大の努力だったのだなぁと思います。
自分の能力を超えたことはできません。自分の感性に合わないこともできません。評価せず、自分を観察してみる。確かに、それが一番自然で大切なことのようです。
先の涙は、ずっと張りつめていた緊張が解けた瞬間だったのでしょう。そうして、結果の良し悪しを越えて、自分をそのまま受け入れられた解放感、安堵感だったのだと想像します。
この間の学びや反省は、これから検証し、改善していきたいと思っています。そうして将来につなげていくことで、あらゆることは循環し、成長し続けていく。今たちまちに評価を下せることなど、実はなにもないのでは。そんなことに気づいた今年、締めくくりはこれでいきたいと思います。
この一年の自分を評価しない!
きのう12月30日で本年の営業を終了いたしました。たくさんのお客様と出会えた一年。感謝の思いでいっぱいです。ありがとうございました。
新年は1月6日(金)から営業いたします。来年もまた、よろしくお願い申し上げます。皆様、良いお年をお迎えください。
生湯葉おじゃこ
店のこと
2016年12月07日
秋限定の新商品「生湯葉おじゃこ」はお試しいただけましたでしょうか? ご挨拶が遅れましたが、好評のうちに11月中旬をもって終了させていただきました。
今年は季節限定の新商品を作りたい! そう思って始めた、四季のおじゃこ。春の「じゃこ桜」、夏の「じゃこ梅」と来て、秋にはと考えたところ…。秋の旬の食材は山ほどあれど、おじゃこと合いそうなものを思いつきません。そんななか、以前に試作したことのある湯葉が、なんとなく秋っぽいかと。無理くりな印象は否めないまま、湯葉に決定した次第です(笑)。
日頃よりお世話になっている、ユーサイドさんhttp://u-side.co.jp/の深見部長に相談したところ、ご紹介いただいたのが「京生麩 大野」さんでした。さっそく電話をかけたところ、人柄が滲み出たような穏やかなお話しぶり。一も二もなくお願いすることにしました。
屋号にもある通り、生麩が看板の大野さん。湯葉もやはり生湯葉がメイン。手作りの逸品です。以前に試作したのは乾燥湯葉を使ったもので、今回もそのつもりでいましたが、試しに生湯葉でやってみると…。舌触り、香り、乾燥湯葉にはない味わいがあります。コスト、手間など考え合わせると、迷うところではありましたが、季節限定だからこそできるチャレンジをと、敢えて生湯葉を選択しました。
もともと淡白な生湯葉。軽く下味をつけることにしたのですが、そこは長年、煮炊きものをしてきた主婦歴を生かして(笑)私が担当することに。
均一に薄く、柔らかな生湯葉。その一枚一枚が丁寧に四隅を合わせて折りたたまれており、まるで芸術作品のようです。お酒で湿らせた指先で、一枚一枚、慎重にはがしていきますが、ぞんざいに扱うとたちまち千切れてしまいます。湯葉職人さんって、きっと繊細で、温厚な性格の方ばかりなんだろうと想像しながら、思わず大野さんのお顔が浮かびます。
ただ、大野さんの生湯葉、柔らかでありながら、しなやかな芯があり、丁寧に扱ってさえいれば千切れることはありません。まるで、たおやかな女性のよう。そういえば、生湯葉の感触は、女性の柔肌に似ているかも。なんて、あらぬ妄想をしたりして(笑)。
そうしてはがした湯葉を、箸でつまみ上げては、煮たてた調味液にさっとくぐらせると、かすかにとろりとした感触に。このままご飯にかけて湯葉丼にして食べてしまいたいと、何度、誘惑に駆られたことでしょう(笑)。
冷めたところで、また一枚一枚広げては、包丁で色紙に切っていきますが、これがまた根気の要る作業。一向に終わりません。何枚か束ねて、ざくざくっとやってしまえないか、なんて横着な思いが浮かんでくる頃、いつも心によぎるのは、敬愛する佐藤初女さんの津軽訛りのか細い声でした。「私はね、面倒くさい、って言葉が嫌いなんです」。心を鎮めて、また一枚一枚…。(ブログ佐藤初女さんのこと 佐藤初女さんのこと2 佐藤初女さんのこと3)
下準備を終えた生湯葉を、長男がおじゃこと炊き合わせていくと、たちまちいい匂いが立ちのぼります。いつも嗅ぎ慣れた、じゃこ山椒の切れのある匂いとは全く違う、甘い優しい匂い。美味しそうな匂いは、それだけで幸せな気持ちになるもの。作業のあとのご褒美です。
こうして生まれた「生湯葉おじゃこ」、秋の深まりとともに、じわじわと人気が出て、早い時間に売り切れることもしばしばでした。なにぶん手間がかかり、量産も出来ないため、紅葉、お歳暮の繁忙期前に終了とさせていただきました。お求めいただけなかったお客様には、大変申し訳ないことでした。
ところで大野さん、真摯なお仕事ぶりと誠実な応対には、いつも感心するばかりでしたが、ある日こんなことが…。生湯葉を6束お願いしていたところ、5束しか用意できなかったと平謝り。聞けば、1束を床に落としてしまい、そういうものをお客様にお売りするわけにはいかないと。きちんと袋に入っていて、中身にはなんの支障もないのですが…。こちらまで身の引き締まる思いがしました。
特別、料理の修行など経験のない私たち。新商品の開発は、ハードルの高い作業です。それでも、いろいろな方の助けを借りながら試行錯誤し、秋までたどり着くことができました。
新商品と共に、その間の経験そのものが、とりもなおさず「しののめ寺町」の宝物になっていくのだなぁと感じています。そうして、お客様の感想をいただきながら、また次につなげていく…。こうした繰り返しこそが、商売をやっていくということなのでは。そんなことに気づき始めたこのごろです。
今回、お世話になった皆様、ご賞味くださったお客様、改めまして、ありがとうございました。来年早々には、冬限定新商品をご披露できたらと考えております。が、まったくもって白紙状態。今は、お歳暮商戦に全力投球の毎日です。
年末は30日(金)まで営業いたします。帰省のお客様で混み合う場合がございます。出来る限りご予約くださるよう、よろしくお願いします。
味 2
店のこと
2016年11月10日
今回はちょっと自慢を…。
いろいろな店のおじゃこを買い集めて食べ比べをするんだよ、なんて話してくださるお客様が時々いらっしゃいます。そんななかのお一人、京都のちりめん山椒については自称第一人者、と名乗られる写真の男性。「ちりめん山椒食べ比べグランプリ」なるものを、お仲間内で開催されています。前回のご来店時に、これから3回目をやります、と仰ってお買い上げ。緊張しながら商品を手渡したのを覚えています。http://sakura394.jp/holiday/food/chirimen-gp2016
この大会、店名を伏せて行われます。まさに味勝負。結果、なんと「しののめ寺町」が二連覇とのこと。名古屋から賞品を携え、報告にお越しくださいました。賞品は名古屋名物えびせんべい「ゆかり」。豪華な包装紙が、まるで金の延べ板のよう(笑)。遊び心いっぱいの演出に、センスが光ります。 http://sakura394.jp/holiday/trip/shinonome3
このことをフェイスブックで報告すると「グランプリ」のイメージが衝撃的だったもよう。とんでもない栄冠を手にしたと思ってくださったお客様や知人から「おめでとう!」のコメントが次々と(汗)。
そんな大それたものではない、なんて言うと主催者の方に失礼でもあり、イメージのままにしているところです(笑)。実際のところ、一般の方がふつうに召し上がって、ふつうに「おいしい!」と仰ってくださる。それは、なににも代えがたい喜び。どんな有名なタイトルより栄誉なことだと思っています!
改めまして、うちのじゃこ山椒、我が家の長男が炊いております。開店初日から一日も欠かすことなく。この賞はまさに彼のもの! なのですが、私と違って控えめなもので、写真はNG。母の代理受賞となりました(笑)。
思い起こせば…。40年前、北区にある「しののめ」を、夫の母が創業。以来、長年にわたり親族で営業してきました。私たちの自宅もそのすぐ近所。長男が幼稚園に通う頃、朝、送って行く途中に、店に声をかけるのが習慣でした。見送りに出てくる義母の指先には、炊き上がったばかりのおじゃこがひとつまみ。見る間に長男の口に放り込まれ、「行っといで!」と送り出されるのが、いつからかお決まりの儀式に。
されるがままに、毎朝、おじゃこを食べながら通園していた長男。しばらく口の中からおじゃこの味が消えないのでは。あとで喉が渇かないかな。なんて心配する私をよそに、嫌がる風でもない様子。まんざらでもなかったのでしょうか。
その長男が、今度はおじゃこを炊く側に。幼い頃に身に着いた味覚は、大人になっても基本となるものです。いつかこんな日が来ることを見越して、義母は孫である長男にこの味を覚え込まそうとしていたのかも、なんて今になって思ったり。開店一年後に亡くなった義母、もう確かめる術はありませんが。
ちりめんじゃこは自然のもの。時々で、塩加減、乾燥の具合などが変わります。出来るだけ変わらぬ状態のものを厳選して仕入れていますが、やはり限界があります。そこを見極めて調整し、同じ味に炊き上がるよう、日々、苦心しているようです。その基準となっているのは、幼い日、毎朝、口に放り込まれたおじゃこの味なのでは、と想像します。
開店から4年半。今なお「元のお店と同じ味ですか ? 」と、日に何度も確認されることがあります。以前のブログでも触れましたが(ブログ味 ブログじゃこ桜)、自分たちなりの最善の仕事が、そのものとして評価されない辛さ。独立した店の宿命と理解しながらも、葛藤の日々でした。
この大会、そのあたりも詳細に比較してくださっています。第三者ならではの客観的視点。それも京都のおじゃこをこよなく愛される方による繊細な分析。私たちにとっても、とても参考になる、有り難い報告でした。http://sakura394.jp/holiday/food/shinonome2
そろそろ、これが「しののめ寺町」の味! と、胸を張ってもいいのかな。生意気ながら、そんな自信を与えてくださった、このグランプリ。感謝の思いでいっぱいです。と共に、これから一層、心して取り組んでいかなければと、身の引き締まる思いも。
たかが、おじゃこ。されど、おじゃこ。こんなにも大真面目に、こんなにも楽しげに、おじゃこを味わってくださるお客様がある。人生、おもしろいものだなぁ。なんて…、最後はおじゃこを超えて、しみじみ思った私でありました。
國立拓治様、本当にありがとうございました!