クロネコヤマトさんのこと
店のこと
2017年10月09日
「しののめ寺町」の配送はクロネコヤマトさんを利用しています。可愛いクロネコでお馴染みの宅急便。5年半前の開店の折に、親身にお世話いただいて以来のお付き合い。なくてはならない、大切なパートナーです。
配達時間の変更や、料金値上げなど、このところ改定が行われたことは、マスコミでも話題になりました。それに伴い、うちでも見直しを行うことに。なかでも値上げは大きな問題。お客様にさらなるご負担をかけるのは心苦しく、うちにとっても影響が懸念されるところです。
先月来、都道府県ごとに、クール便と消費税も含めての金額を算出しながら、頭を抱えたり、ため息をついたり。それでも、今回のクロネコさんの思い切った改革には、敢えて拍手を送りたい。そんな思いも少し。ひんしゅくを買うかもしれませんが、正直な気持ちを書いてみようと思います。
以前のブログでも書きましたが(ブログお金のこと)、店を始めるまでは「ほぼ専業主婦」だった私。消費者のみの立場でした。日々の買い物は、価値あるものを少しでも安く。余分なサービスがあれば、なお有り難い。要するに得をしたい。ただただ、そう思っていました。店を開いて立場が逆転。売る側になって初めて見えてきたことが、たくさんあります。
店を構え、原料を仕入れて製造。店頭で包装、販売。ご希望なら梱包して発送。そうした日々の作業を支える物や体制、サービス…。こんな小さな店ですが、数えてみると、なんとたくさんあることでしょう。
どれが欠けても成り立たない「しののめ寺町」。その一つが毎夕、集配に来てくださるクロネコさんの働きです。うだる暑さの日は汗だくで、凍える寒さの日は全身に冷気をまとって。今年の夏は、ゲリラ豪雨というのでしょうか、夕方になると決まって大雨という日が続きました。カッパもなにも、もうびしょ濡れ。そんな日も、こんな日も、どんな日だって、なくてはならないクロネコさん!
荷造りしたばかりのおじゃこたちが、台車に取り付けられたクールバッグにしまわれ、集配所へと向かっていく。そのうしろ姿を見送りながら、いつも無事の到着を祈ります。結婚式の引き出物や、誕生日のプレゼントにとご依頼を受けた荷物は、なおさらのこと。
ここ京都の真ん中で、夜の6時頃に預けた荷物が、日本中たいていのところには翌日に、早ければ翌朝に届いてしまうシステム。私は汗もかかず、荷物は新鮮に保たれたまま。有り難いことだなぁと思います。
ネットで注文したものが、自宅に居ながらにして届くシステムもすっかり定着しました。体が不自由な方、時間がない方にはもちろん、誰にとっても、もちろん私にとっても、便利な時代になりました。
まわりを見渡せば、エスカレートする安売り合戦。もろもろ付加されるサービス合戦。あの手この手のアピールが、テレビでチラシで、店の幟で、繰り広げられています。各社、各店、たゆまぬ努力をされていることに驚くばかりです。
少し前までは考えられなかったサービスが次々に生まれ、どんどん便利になっていく世の中。新しいサービスが出来た当初は、便利さを実感するも、やがて慣れて当たり前になっていくのが世の常です。
もはや、そこに労力や費用が掛かっていることに、気づかなくなってしまっているのでは。効率化していく生活のなかで、それらを陰で支える存在があることを忘れてしまっているのでは。そんな不安も少し。
そうした安売り合戦、サービス合戦に疲弊し、中には消えていく会社やお店があるのかも。自分が手に入れた「お得」が、誰かの犠牲と引き換えになっているとしたら。陰で泣いている人がいるとしたら。もはや喜んでばかりはいられません。
自分が享受している物やサービスの向こうには、多くの働きがあること。そこに思いを馳せ、応分の対価を払うことを惜しまない消費者でありたい。厳しい経済環境のなか、なかなかに難しいことですが、そんなことを思うこのごろです。
クロネコさんの今回の改革は、よりよい労働環境、顧客との関係、いろいろなことを配慮しての英断だったと推察します。送料の見直しについて考える時間は、「しののめ寺町」の有り様を考える貴重な機会となりました。
開店から5年半の間に、原材料、包装資材等、もろもろのものが値上がりしてきています。商品の値上げは踏みとどまる一方で、昨年から代引き手数料をお客様にご負担いただくなど、見直しを行ってきているところです。
店にとっての宝は、なんといっても「商品」です。商品を守るためには、付随したサービスについては、個々のお客様でご負担いただくのがいいのではないか。お客様の公平性を保つためにも、その方が好ましいのではないか。そう考えてのことです。
熟慮の結果、クロネコさんの値上げに伴い、10月1日より送料を改定させていただくことといたしました。小さな店を健全に、長く、経営していくためには、身の丈に合った選択をしていくことが大切だと思い至った次第です。
お客様にはご負担なことと存じます。それでも選んでいただける店であれるにはどうしたらいいのか。まだまだ自問の日々ですが、渾身の努力を続けていくつもりでおります。なにとぞご理解のうえ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
瓶の中
素敵な女性
2017年09月12日
大切にしている本があります。女優、高峰秀子さんの随筆集「瓶(びん)の中」。ちょうど一年前、仕事帰りに繁華街をぶらぶらした折、たまたま立ち寄ったデパートの本売り場で見つけました。
作者名とタイトルに惹かれ、思わず手に取り。ぱらぱら拾い読みして、たちまち魅了され。けれど、私にはちょっと高価で、一旦は棚に戻し。でもやっぱり気になって、舞い戻り。実はその時、へこみにへこんでいた私。少しでも慰めになるならと、思い切って買った一冊です。(ブログ月は満ち 欠け また満ちていく)
女優、高峰秀子さんのことを、若い方はご存知でしょうか? 数年前に亡くなられましたが、昭和を代表する映画女優さんです。私も映画を観たたことはないのですが、たまたま彼女について書かれた本を読み、そのひととなりに惹かれてしまいました。
女優業の傍ら文筆業もされていることを知り、さっそく著書を読んでみました。恵まれた美貌と才能。けれど華やかな表舞台の陰には、過酷な暮らしがあったようです。そんな狭間にあっても、決して自分を見失わない、聡明さと茶目っ気。女優である前に、まず人として素敵な方だなぁと思いました。
ずいぶん以前に、関東に住む友人が、とある喫茶店で、高峰秀子さんを見かけたそうです。入ってこられると、カウンターに腰かけ、しばし過ごして出て行かれたとか。その一連の所作が、それはそれは美しかったと話してくれました。内面は立ち居振る舞いに表れるものなのだと、至極、納得したことを覚えています。 いつからか、高峰秀子さんは私の憧れの女性となりました。
タイトルに惹かれたというのには、こんな訳があります。以前のブログで書きましたが(ブログストック)、私の心の中には一本の瓶がありまして。口が狭くて、背が高くて、半透明。ちょうどワインの瓶のような。中には、なにやら液体が入っています。適量だといいのですが、時に枯渇したり、時に溢れたり。心の状態そのままに増減し、私に伝えてくれます。
私にとって瓶は、なにやら意味深く、謎めいたもの。「瓶の中」なんてあると、覗いてみたくて仕方ありません。ましてやそれが、憧れの高峰秀子さんの「瓶の中」であれば、なおさらです。
この本では「暮らしの楽しみ」という章で、ふだん使われているお気に入りのものが、写真と文章で紹介されています。鏡や時計、文鎮や飾り棚、お香や紅入れ…。日用品というには、あまりに趣のあるものばかり。古い写真のせいでしょうか、色調が時代がかっているところがまた、えもいわれずいい感じです。
それぞれに、手に入れられた時のエピソードなどを記した文章が添えられています。外国で求められたもの、有名な方から贈られたもの。中には高価なものもあるでしょう。けれど、価格や由緒ではなく、ご自身の審美眼と感性に適ったものだけを選ばれていることが、ウィットに富んだ文章から伝わってきます。なににも迎合しない生き方が、そこにも貫かれているようです。
自分の気に入ったものに囲まれ、それらを愛おしみながら丁寧に暮らしてこられた日々の様子が、どのページにも溢れています。そんなご自身の半生を「中身が薄くて粗末で、小さな瓶に入ってしまうほどしかない」と語られ、それがタイトルの由来となったようです。まったくもってご謙遜。そうであるなら、それはあまりに素敵な「瓶の中」です。
いつからか、私の心の中に、もう一つ、瓶が現れました。今度は少し底が広くて、口が大きめ。透明です。中にはクリスタルガラスのようなカラフルな欠片が入っています。私の大切なものたち…、人だったり、物だったり、時間だったり、記憶だったり。そうした一つ一つが、赤や黄、青、緑、とりどりになって輝いています。
お気に入りのものを見つけると、また一つ、瓶の中にカラカラ。楽しいことがあると、また一つカラカラ。瓶の中は少しずつ増え、輝きを増していきます。
そういえば幼い頃、空になったクッキーの缶や箱に、ビーズや千代紙、どこで拾ってきたのか綺麗な石や貝殻を入れては、大事にしまっていたことがあります。ガラクタみたいのものでも、自分にとっては宝物。眺めては、ひとり遊びするのが好きな子供でした。今でもあまり成長していないような(笑)。
私には手に入れられないもの、ひとが持っているものばかりが、輝いて見えることがあります。そんな思いに駆られる夜など、この本を開いてみます。パラパラとページを繰っていると、こんな声が聞こえてくるような。
あなたの「瓶の中」をよく見てごらん。
一人に一つ、心の中に瓶があり、それぞれの彩りと輝きを放っているのかも。ほかの誰でもない、自分の瓶を大切に胸に抱いて暮らしていくこと。それが大事なんだなぁ。そんなことを思うこのごろです。
ムーンリバー
アートなこと
2017年08月16日
先月のこと、友人のジャズライブに出かけてきました。mikiyoさん、アマチュアながら相当の実力者です。初めて出かけたのは4年前でしょうか。たちまちファンになり、以来、案内をいただくたびに出かけるようになりました。
ライブで歌われる曲はどれも素晴らしいのですが、いつも、ひときわ魂の奥深くに届く一曲があります。1度目は「calling you」。2度目は「明日に架ける橋」。その時の私の置かれた状況や、心理状態とリンクするのでしょうか。とても暗示的で、霊的でさえあったことを覚えています。(ブログ明日に架ける橋)
今回、事前に曲のリストをいただいていたのですが、その中に「ムーンリバー」がありました。オードリーへプバーン主演の映画「ティファニーで朝食を」で有名な、言わずと知れた名曲。出かける前から、ちょっと気になる一曲でした。
mikiyoさん、歌だけでなく、話もお上手。なかでも曲紹介は、英詞を和訳しただけでなく、彼女なりの解釈が、なんだかいいんですよね。そのまま主人公の気持ちになり切って、歌の世界に入っていけます。時に恋する乙女だったり、時に老練な女性だったり(笑)。
さて、いよいよ「ムーンリバー」、まずは曲紹介。映画のイメージから、甘いセンチメンタルな歌かと思いきや、とても壮大な歌詞であることに驚きました。虹の向こうの夢を叶えるため、この広い川を渡っていくわ、みたいな。抽象的な表現が、聴き手の想像力をふくらませ、様々なシーンに置き換えられそうです。
ここで突然、今日はお店を開いて5周年を迎えた方が来てくださっています、って話し出されて…。紆余曲折あったであろう5年間。その間、がんばってこられた、そんな姿を思い浮かべながら歌います…、なんて。私のことじゃないの ? ! って、もうビックリ。
そうそう、私は虹の向こうの夢を叶えたい。まだ遥か彼方だけれど、そのために、今、大きな川を渡っているんだなぁ。mikiyoさんの切なくも力強い歌声を聴きながら、熱いものがこみ上げてきました。
mikiyoさんのサプライズな演出はラストにも。ライブ終了後のアンコール。その日の演目から、もう一度聴きたい曲をリクエストするのがmikiyoさん流なのですが、なんと私にご指名が。
もちろん「ムーンリバー!」と答えたいところですが…。会場にはmikiyoさんの親しいお友達がたくさん。知り合って間もない、しかもジャズに全く詳しくない、そんな私がリクエストするなんて畏れ多いこと。「いえいえ、そんな…。皆さんのご意見を、どうぞ。あわわ、あわわ…」なんて、しどろもどろになってしまいました。
で、ご指名は次の方に。それが、たまたま私の隣の女性でした。その方も突然のことに決めかねて、私に「どうしましょう?」と。そこで、私、「ムーンリバーは?」と誘導したりなんかして(笑)。で、アンコール曲はめでたく「ムーンリバー」と相成りました。
が、実のところ、二度目の「ムーンリバー」は、私にはちょっとほろ苦く聴こえました。この顛末、いかにも私らしい。思いを素直に前面に出せなくて、なぜか、いつも引いてしまう。決意を力強く歌い上げる「ムーンリバー」の主人公とは正反対じゃないか、と。
実はこの日、もう一つ、似たようなことがありました。会場に早めに着けたので、カウンターはまだどこも空席。ステージと垂直に位置するカウンターは、一番前の席がいいことは、よくわかっていました。大好きなmikiyoさんのライブ、当然、最前席で見たいものです。
なのに、なんだか晴れがましくって、わざわざ3番目の席に座ったのでした。そこが、ちょうどクーラーの吹き出し口の下で、体は冷えていくばかり。せっかくの素敵なライブを聴きながら、心の中では、素直に最前席に座らなかった自分を悔いる気持ちがもやもやと。
私って、ほんと、どうして、いつも、こうなんだか…。
店を始めてからは、そんな私を見かねて、いろいろな方が、手を差し伸べてくださるようになりました。気づけば願いが、ひとつ、またひとつと叶い、そうして迎えられた5周年だったのだと思います。
私の虹の彼方の夢…、「しののめ寺町」を一人前の店にすること。
それを叶えたければ、思いを前面に出していかないといけないよ。言葉にしなければ伝わらない。まず目の前の小さな川を、自分の足で超えてごらん。勇気を出して…。二度目に聴く「ムーンリバー」に、そう諭されている気がしました。
ところで、主演のオードリーへプバーン。晩年のユニセフでの活動も有名なところです。化粧っ気のない、皺の刻まれた顔を見た時は、正直、少し驚きました。けれど、気品と、凛とした美しさは、若い頃と変わらないようにも見えます。
改めて調べてみると、美しい容姿と華やかな経歴の向こうに、過酷な体験やコンプレックスを抱えていたとのこと。「ムーンリバー」を歌う若き日のオードリー。その頃、虹の彼方に夢見ていたものを、ちゃんと叶えられた人生だったのかも。なんて思いを馳せてみたりして。
mikiyoさんのライブはやっぱり不思議。その歌声は、私の人生の局面局面に、まるで天からのメッセージのように届きます。ライブが終わるといつも「私のために歌ってくれたの?」なんて、冗談交じりで聞いていたものですが、今回、確信しました(笑)。
これからも、ひととして、女性として、シンガーとして、ますます磨きをかけていかれるであろうmikiyoさん。その歌声に触発されながら、私の人生も実りあるものにしていきたい。それが私のもう一つの夢です。
8月21日(月)から25日(金)まで夏季休業とさせていただきます。お間違えのないよう、よろしくお願い申し上げます。
間(ま)
心と体のこと
2017年07月19日
店を始めて大きく変わったことの一つが、自由に動ける時間がめっきり減ったことです。開店時間中はもちろん、準備と片づけの時間、通勤時間を合わせると、一日の大半を店で過ごす毎日となりました。
休日は自由な時間かというと、そうはいきません。普段できない用事が山積み。あと欠かせないのが、心と体のメンテナンス。私にとって休日は、休み明けの一週間を心身ともに元気で、つつがなく過ごせるための準備の日、という位置づけです。
本当は、もっとしたいことがあるんやけどなぁ。って、心の中でぽそりと小さな声。行きたい場所、会いたい人、観たいもの、聴きたいこと…。あと、なぁんにも考えずに、ただぼんやり過ごせる時間…。
妄想をし出すとキリがありません(笑)。たまに一つ二つ叶う日があるのを楽しみに、たいていは、A地点で一つ用事をこなして、次のB地点へ移動。それが済んだらC地点…。あっという間に夕方で、あとは自宅で家事三昧。なんていうのが、開店以来の私の休日パターンです。
それでも、近頃、少し変わったなと思うことがあります。今までなら、寸暇を惜しんで立て続けに用事をこなしていたところを、移動の合間、軽くでもきちんと食事を取ったり。たとえ30分でもカフェでお茶をしたり。そういうことができるようになりました。
間(ま)を取れるようになったということでしょうか。
自分の体力気力の限界がわからず、全力疾走しては倒れ込むパターンを繰り返してきた私。それでは持たないと、ようやく学習効果が出てきた模様です。(ブログユルスナールの靴2)
先月のある休日。早朝から気の重い用事がありました。昼過ぎにようやく終了。急いで帰宅し、手つかずの用事を片づけねば、と焦る思い。でも、それだけで休日が終わっては味気ない。少し歩いて、川沿いのカフェで遅めのランチを取ることにしました。
窓辺に席を取ると、大きな窓から青い空、白い雲、川辺の豊かな緑が見えます。そのまわりを鳥が飛び交い、想像力を膨らませると、ここは高原のカフェかと。木々が風にそよぎ、見えないはずの風が見え、聞こえないはずの風の音が聞こえてくるような。
窓という額縁の中の、私だけの小さな宇宙。
そこだけ時間が止まっているみたい。朝からの慌ただしさ、沈む気持ちがたちまちリセットされ、軽い心で帰路につくことができました。もったいないと削っていた時間を、間(ま)に当てるようになって、かえってあとの効率が良くなったように思います。
ある時は、ビル街のカフェで、中庭の木々が青々と日に照りかえるのを眺めて。ある時は、和風の喫茶で、坪庭の緑が、葉先に雨滴をたたえているのを眺めて…。なんでもない日常にも、キラキラしたものが散りばめられているんだなぁ、なんて思うひととき。こんなわずかな時間が、とても愛おしく思えるようになりました。
思えば、店を始める前「ほぼ専業主婦」だった頃、十分な時間を持て余し、その中にどう身を置いていいのかわからずに、立ちすくんでいたように思います。店を始めて、自由になる時間は減りましたが、代わりに、短いながらもとても贅沢な時間を手に入れたような。私は断然、こちらの方が性に合っているみたいです。
心急く時こそ、ゆったりと。心沈む時こそ、ご機嫌に。間(ま)をうまく取り入れて、いい時間の過ごし方をしていきたい。そんなことを思うこのごろです。
イリーナ・メジューエワさんのこと4
アートなこと
2017年06月18日
先日のこと、イリーナ・メジューエワさんのピアノリサイタルに出かけてきました。京都コンサートホールで、夜7時の開演。仕事帰りにも出かけやすい、私にはありがたい場所と時間です。
イリーナさんのことは、このブログでもたびたび書いています。「しののめ寺町」開店当初から、日本人のご主人様とよくご来店いただいている、大切なお客様です。お生まれはロシア。今年は、日本でのコンサートデビュー20周年の記念の年に当たられるのだとか。
クラッシックには全く馴染みのなかった私ですが、イリーナさんのリサイタルは特別。初めて出かけた時の感動が忘れられず、京都コンサートホールでのリサイタルは、年に一度の私の恒例行事になりました。(ブログイリーナ・メジューエワさんのこと3)
ところで、月が大好きな私。なかでも鋭利に尖った三日月が、日を追うごとに膨らみを増し、やがて丸々とした満月になっていく…。その過程を見るのが、最近のお気に入りです(ブログ三日月)。
そろそろかなと思っていたところ、ちょうどリサイタルの日が満月に当たることを知りました。しかも、赤みがかった月。「ストロベリームーン」と呼ばれるのだとか。これはもうテンションが上がらない訳はありません。
いつにも増して高揚する気持ちで待つ開演。舞台に現れたのは、なんと赤いロングドレスのイリーナさんでした。これまでシックな色合いのドレスを召したイリーナさんしか知らなかった私は、驚いてしまいました。
スポットライトが当たると、白い肌が赤いドレスに照り返り、ますます透き通って見えます。艶のある栗色の髪。時々、キラリと光る髪飾り…。ただただ美しい。
今回の演目はベートーヴェン。華奢なお姿からは想像もつかない力強い演奏には、いつもながら驚くばかりです。幾重にも折り重なった深い音色は、時に激しく、時に優しく。心揺さぶられていきます。そして、私の中にいつもとは違う感覚が…。
あぁ、円熟していかれているんだな。芸術家として、人として、女性として。
音楽的なことはわからない私。あでやかな赤いドレスに、そう感じただけだったでしょうか。いえいえ、決してそれだけではなかったと思います。
おそらくは…、演奏は人そのもの。年齢を重ねるごとに、技術はもとより、その人となりも成熟し、女性であれば、女性としての成熟もまた加わっていくのでは。可愛らしさの残る女性が、大人の女性へと変容していかれる。その過程を、ピアノ演奏という形で味わえるというのはまた、芸術の醍醐味かもしれません。
まさに三日月が、日を追うごとに満月になっていくよう。熱い拍手に応え、赤いドレスで舞台に立つイリーナさんは、その夜の月の化身のようでした。
魅力的に生きる女性、素敵に年齢を重ねる女性は、年齢の上下を問わず、私の永遠の憧れです。イリーナさんの演奏に惹かれるのは、きっとそのせいです。そんなイリーナさんの演奏に、魂を突き動かされ、ここに自分の魂があるのだと実感したリサイタでした。
興奮冷めやらぬまま外に出ると、府立植物園の上、高い空に小さな満月。赤くは見えませんが、カメラをズームにして覗くと、月のまわりに赤い粒子が飛んでいました。コンサートホールから自宅まで、10分ほどの夜の散歩。何度も何度も月を見上げて帰りました。
翌日、早速ご夫婦で来店くださり、私の感想を拙い言葉でお伝えしました。すると、話は日本の伝統芸能に及びました。例えば、日本舞踊…。年齢を重ねるごとに高められていく芸は、日本ならではの奥深さにあるのかも、などと。
確かに舞いの立ち姿には、ご高齢になってなお、圧倒されるばかりの美しさがあります。日本でのコンサートデビューから20年。イリーナさんの魂は、もはや日本人なのではと思ったりして。
才能に恵まれ、自分の魂と向き合い、過酷な修練を積まれる芸術の世界。私には想像もつきません。が、私は私の魂に向き合って、私なりの修練を積む生き方をしていきたい。
赤い満月のパワーに触発されたのでしょうか、ちょっと艶っぽい、ドラマチックなリサイタルの夜となりました。