時間
家のこと
2022年06月09日
愛おしいものは? と聞かれて、皆さんはなにを思い浮かべられるでしょうか?
家族、恋人、ペット…。ですよねぇ、ですよねぇ ? ! ふつうはこうしたものかと思います。
私はやっぱり、ちょっと変わっているもよう(笑)。ひんしゅくを買うのを覚悟で書きます。私が今、とても愛おしく思うもの。それは時間です。
店を始めて変わったことはたくさんありますが、なかでも大きなことの一つが時間の感覚です。
私にとって、それはよほど大きな変化だったのでしょう。このブログでも折に触れ、出てくるテーマです。限られた時間の中で、なんとか折り合いをつけよう。そう心を砕いてきたことが、今、読み返してもひしひしと伝わってきます。(ブログ休日 ブログ間(ま))
長引くコロナ禍は、大変ながらも様々なことを提起してくれた、とはよく言われることです。時間というものについても、そうではないでしょうか。
緊急事態宣言中、休業するお店が多いなか、「しののめ寺町」は要請の対象ではありませんでしたので、営業を続けておりました。
さりとて、お客様が来られることなどほとんどなく。それでも店を開けられることの有り難さと、そうまでして開けることの意味について、改めて考える期間となりました。
世の中の反応もずいぶん変わったように思います。年中無休が決して当たり前ではないことを知り、休業や時短営業に対して寛容な風潮が生まれた気がします。
働き方改革の浸透もあるでしょうか。私自身も一消費者として、少々の不自由は許容できるようになりました。
もう少しおおらかでもいいのかな…。
なにがなんでも、と思いがちだった営業日や営業時間について、そんな思いが湧いてきました。
以降、暫定的に閉店時間を早めたり。月に2回だった連休を3回に。閑散期は毎週にしたり。なんてことをさせていただいています。
お客様には申し訳ないことですが、そのお蔭様を持ちまして、以前より少しばかり時間に余裕を持てるようになりました。
なかでも連休が増えたことは本当に有り難く。明日もあさっても休みだと思うだけで、心が解放されるよう。実質的な時間だけでなく、気持ちから生まれる余裕が大きいのだなぁと思います。
大通りから一筋南、車一台がやっと通れる細い路地に面した我が家。その2階、窓際に設えたダイニングテーブルが、私の指定席です。
もろもろ用事を済ませ、ようやくそこに腰を下ろすと、溜まっていた新聞をまとめて読んだり(ブログ時を紡ぐ時)。お気に入りの音楽を聴きながら、書類の整理をしたり。
お供はいつもよりゆっくり味わうコーヒー。時に紅茶。
空が見え、静かなことが、なによりのとりえ。窓を開ける季節には、遠く小学校のチャイムが聞こえてくることも。いつもとは別物のように、時間がゆっくりゆっくり流れていきます。
特別なことなどなにもないけれど、ふだん留守がちな私にとって、家で過ごす時間は、それだけで贅沢なこと。時間というものが、とても愛おしく思えるひとときです。
ふと、寺町なんて素敵な街で店をやっている自分が、不思議に思えてきたりします。
目まぐるしく変化をする厳しい時代のなか、ITやら経理やら、決して得意でないことに頭を悩ませ。それでも日々、新しい出会いが楽しくて仕方ない店での毎日。
周年のお祝いには豪華なお花をいただいたり、時には大きなパーティーに参加したり。以前には考えられなかった華やかな経験もするようになりました。
そうした自分は実は幻なんじゃないか。本当の私は、毎日、こんな風に自宅でただ静かに暮らしているんじゃないか。なんて錯覚しそうに。
いやいや、あちらの私も本当の私。こちらの私も本当の私。両方あってはじめて私なんだよ~ なんて。心の中でボケとツッコミ入れ替わりつつ、一人漫才が始まったりして(笑)。
なんてことをしている間に、普段、右に左に大きく揺れている心の振り幅が、次第次第に小さくなり。やがて中心を見定めて止まっていくよう。
心がニュートラルになっていくというのでしょうか。それに伴い体の疲れも癒えていくのを感じます。
時間はそれだけで癒しとなるんだなぁ。
そうこうしてる間にダイニングテーブルに突っ伏して爆睡、というのがお決まりのパターンです。
そんな連休も、二日目の夕方、また家事に取り掛からなければならない時間が近づくと、あぁ、このまま時間が止まってくれたらなぁ、なんて思います。
自由に過ごせる残りわずかな時間、それまでにも増して愛おしく、大切に、大切にと過ごしていると…。あれ、まだ10分しか経っていない! なんて驚くことも。
最後のおまけ、神様が特別にゆっくりと時間の糸車を回してくださっているのだなぁと思います。
一日だけの休みの日は、いつもあっという間に過ぎてしまいます。けれど連休の日は、とても長かったと感じます。一日の2倍ではなく、2,5倍。いやいや3倍くらい。しかも…。
さして出掛けたわけでもないのに、まるで二泊三日の旅を終えたような。どこか遠い、こことは違う場所に行っていたような不思議な感覚に陥ります。
私はいったいどこに行っていたんでしょう…?(笑)
商売をする以上は、できるだけ休まないのが望ましいことです。お客様にとっても、私たちにとっても。けれど、健全に経営を続けていくためには、こうした時間が必要なんだと痛感するこのごろ。
改めましてお知らせとお願いをさせていただきます。閉店時間は30分早め、5時30分に。休業日は水曜日については毎週。木曜日については基本第2、第4としつつ、月により増やすことといたしました。
ホームページやSNSで告知してまいりますので、ご面倒ですがご来店前に確認いただけるとありがたいです。お電話でも気軽にお問い合わせください。
大変わがままなことで申し訳ございません。なにとぞご理解を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
やってみはったら!
素敵な女性
2022年05月11日
先日、素敵な本に出会いしました。タイトルは「やってみはったら!」。著者は京都と東京でカフェを経営する料理研究家の平野顕子さんです。
カフェの一店、アップルパイで有名な「松之助」様には開店当初より、ご贔屓いただいておりまして。早速ホームページを拝見すると、オーナーである平野顕子さんの略歴が書かれていました。
専業主婦から、45歳で離婚、47歳で単身アメリカ留学、帰国後は製菓教室とカフェの経営…。
かねてよりどんな方なんだろうと思っていたところ、新聞で新著の発売を知りました。しかも経歴は更新され、60代からニューヨークでの再婚ライフを満喫されているとのこと。さらに驚いた次第です。
記事によると、平野さんは安定した暮らしを手放してでも「自分らしく生きたい」との思いを持ち続けておられたそうです。
「自分らしく生きたい」というのは、ひととして究極の願いなのではないか。そして、それがとりもなおさず究極の幸せなのではないか。
それは年齢を重ねるごとに私自身が痛感し、願ってやまないことです。
私のみならず、平野さんのような生き方に共感する方は多いかと思います。カッコいいと憧れを感じるのは簡単なことですが、その思いを貫き、実践するのは並大抵のことではありません。
平野さんはどうやって現実のものとされたのか、とても興味があり、すぐさま購入した次第です。
冒頭、最初の結婚の折にお母様から伝授された言葉を紹介されています。
「人には添ってみよ」
大切にしてこられたその言葉を、「縁に添って生きていきなさい」と解釈された平野さん。
結婚に限らず、出会った人も、出合ったモノもコトも、味わった感情ですら、自分を導いてくれる縁。そのひとつひとつに丁寧に向き合うこと。
その縁あるものとの関係を一歩先に進めていくためのエールが、タイトルの「やってみはったら!」なのだとか。
味わった感情も縁と捉える考えは、初めて聞くことで、とても新鮮でした。確かにそれは自分自身との出会い。なににも増して大切な縁かもしれません。大きなヒントをいただいた気がしました。
アメリカで留学中の壮絶な孤独の中で、じっくりと自分と向き合い、人に倣った生き方にgood bye。一人で生きていくことを決心し、自分の意志で歩み始めました。
胸に迫る一節です。
こうした日々があってこそ、一主婦からビジネスで成功を収めるセカンドライフ。新たなパートナーを得て愛を育むサードライフへと、未来が開けていかれたのでしょう。
苦難に堪え、覚悟を決めた人にだけ与えられる、神様からのお計らいに思えてなりません。
平野さんのように、自分らしく生きるための、その一歩を踏み出せる人。踏み出せずに終わる人…。
それぞれの環境もあるでしょう。その人の持つ資質もあるでしょう。ともあれ、決めるのは自分自身。その責任を負うのもまた自分自身。人生は誰のせいでもない、自分で描いていくもの。
この著書を読むと、そう思わずにはいられません。言い訳なんかしている場合じゃない。
店も人生も、日々、大小さまざまな選択の連続です。迷うこと、時に途方に暮れることも。そんな時、まずは自分の中に芽生える感情を見逃さず、大切な縁として尊重し、従ってみる。
やってみたいけれど、自分には無理なんじゃないか…。
「やってみはったら!」
やってみたいけれど、人からなんと思われるかなぁ…。
「やってみはったら!」
背中をポンと押してくれるおまじないの言葉みたい。軽やかに一歩を踏み出せそうな気がします。
実は「迷った時は、GO!」が、かねてよりの私の合言葉でした。同じような意味かと思いますが、断然「やってみはったら!」の方がいいですね。やっぱり私には、英語よりも京都弁の方が身に馴染みます(笑)。
11年目のこれからは「やってみはったら!」精神で進んでいきたいと思います。引き続きよろしくお願いします。
10周年
店のこと
2022年04月10日
ブログでのご挨拶が大変遅くなりまして申し訳ありません。先の3月16日、「しののめ寺町」は10周年を迎えることができました。ひとえに、日頃よりご愛顧いただいているお客様、お世話になっている取引業者様のお蔭です。ありがとうございます!
思い起こせば10年前、急に巻き起こった独立話からのバタバタの開店準備。そして、やっとの思いで迎えた初日の朝…。
毎日がその日のことで精一杯。考えられるのは、せいぜい翌日のこと。がんばって、やっと翌々日のことくらい。そうした一日一日を積み重ねて、積み重ねて、一年が二年に。二年が三年に…。
泣いた日、笑った日、途方に暮れた日、ブチ切れた日(笑)…。どの一日がなくても、今日には至らなかったのだと思うと、どの日もかけがえのない一日だったのだと、しみじみ思い返されます。
ローマは一日にしてならず
壮大過ぎてちょっとイメージが湧かない格言でしたが、今まさにこの気持ちです。
なにせ突然に飛び込んだ商売の世界。見るもの聞くもの全てが新しいことだらけの毎日。私にとりましてこの10年は、生まれたばかりの赤ん坊が10歳になるまでの年月に当たります。
皆さんは「もう10年? 早いねぇ」と口を揃えて仰います。が、私はとても長く感じています。子供の頃、一年は途方もなく長いものに思えたのと似た感覚かもしれません。
ところで、以前、京都で老舗と呼べるのは創業何年からか、なんて調査をするテレビ番組を見たことがあります。街頭インタビューなどを交え、面白おかしくする演出も多少あるのでしょうが、100年でもまだまだ、なのだとか。
結果、200年だったか300年だったか忘れましたが、何百年と伝統をつないでこられた正真正銘の老舗さんのご努力、ご苦労はいかばかりか。私などには想像もつきません。
うちでも、お客様から「このお店は古いのですか?」と尋ねられることがあります。その時々に「〇年です」とお答えするのですが、その際、お客様のお顔に微かに落胆の表情が…。
おそらく、100年、200年なんて答えを期待されていたのだと想像します。自分がお土産を買ったのは、そういう店であってほしいと思われるのは、特に京都なら当然かもしれません。
年数ではご期待に沿えませんが、召し上がったあとにご納得いただける店でありたいと願っています。
上記の写真は、通勤時、竹屋町通りから寺町通りを南に曲がってすぐに見える光景。右手、瓦屋根に看板が上がっているのが「しののめ寺町」です。
太陽は東の空まだ低く、お向かいの建物の向こう側。その合間から射し込む朝日が、うちの店にだけ燦々と当たっています。店名の「しののめ」は東雲(日の出)が由来でして。
「まさにしののめやぁ~」
って、心の中で叫びながら、思わず撮った一枚です。
開店前、物件を探していた時、すぐに出会ったこの場所。神様が用意してくださったのだと信じて疑わない私。それがどんな時も心の支えになってきました。きっとこれからも…。
世界にも、日本にも、これ以上悲しいことが起こらないことを心から祈りつつ、私にできること、私にしかできないこと。そうしたことを見つけながら、実践しながら、また一日一日、進んでいきたいと思います。
どうぞこれからも変わらぬご愛顧、ご支援をよろしくお願い申し上げます。
倚りかからず
素敵な女性
2022年03月07日
茨木のり子さんという詩人をご存知でしょうか? 名前はご存じなくても、こんな一節を聞かれたことがあるかもしれません。
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ
彼女の代表作と言っていい詩の一節です。
このブログでもずいぶん以前に書いた記憶があります。調べてみると2012年4月。開店の一ヶ月後でした(ブログ自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ)。その三日後、立て続けにもう一つ(ブログ廃屋)。
いずれも心をえぐるような、容赦ない言葉が並ぶ詩です。
激変した生活のなか、戸惑う自分に喝を入れるために書いていたんだなぁと思います。折に触れては思い出し、自分への戒めとしてきた2編です。
先日、たまたまつけたテレビで、彼女の特集番組を見る機会がありました。なんでも長引くコロナ禍のなか、今また注目が集まっているのだとか。
一寸の揺るぎもない彼女の言葉は、混沌の時代を生きる私たちに、一つの指標となるのかもしれません。
番組は、その一寸の揺るぎもない言葉が生まれた背景を伝えていて、とても興味深いものでした。
大正15年生まれの茨木のり子さん。若き日に戦争を体験。いともたやすく軍国少女となってしまうも、19歳で終戦。信じていたはずの価値が、あっけなくひっくり返るのを、多感な年代に目の当たりにすることに…。
その体験が、なにものにも翻弄されることなく、自分の感性を信じ、個として生きる決意を打ち立てさせたようです。
綴られる厳しい言葉は、実は自分自身に向けられたものとのこと。だからこそ、読んだ誰もが我がこととして向き合えるのでしょう。
コロナ禍に限らず、さまざま生きにくさを感じることの多い現代。彼女の詩がまた注目を浴びるのは、いつの時代も抱える課題は普遍、ということなのかもしれません。
番組内で「倚(よ)りかからず」という詩が紹介されていました。茨木のり子さん、73歳の時の作品です。
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
無駄な言葉が微塵もない、なんと潔い詩でしょう。縮み上がるばかりで、私なぞは到底この域に至ることはできないと思います。
ただ、私もそこそこ長く生きてきて。少しは経験を積んできて。最近、気づいたことがあります。それは…。
答えは自分の中にある、ということ。
なにが正しくて、なにが間違っているか。判断してくれるものが欲しくて、ずいぶんあちこち探し回ったけれど、そんなものは、どこにも見つからなくて。よくよく見たら、はじめから自分の中に用意されていたじゃないか、みたいな。
自分の目と耳を信じ、自分の足で立ち、なにものにも倚りかからずに生きていく。とても、とても、困難なことだけれど、そんな私でありたいな。
助け合ったり、寄り添ったり、そういうことは素敵だけれど、倚りかかるのはよくないな。
私が倚りかかっていいものがあるとしたら…。自宅で過ごす休日の昼下がり、突っ伏してうたた寝してしまうダイニングテーブルくらいかな(笑)。
そんなことを思うこのごろです。
懸命に生きてます
お友達のこと
2022年02月03日
皆さん、友達って何人ぐらいおられるものなのでしょう? たぶん私は多い方ではないと思うのですが、とてもいい友達に恵まれていると思っています。
そんななかの一人、横浜在住のみさこさん。私より10歳くらい年長の女性です。
十数年前に、東京でひょんなことがきっかけで知り合ったのですが、お互いなにか引き合うものがあったのでしょう。会ったその日に、たちまち意気投合してしまいました。
知り合って数年は、互いに京都と横浜を行き来しながら、一緒に観光を楽しんだものです。なにぶん遠方のこと、回数は数えるほどですが、共に過ごした時間はとても濃密なものだったように思います。
なかでも箱根の富士屋ホテルでのひとときは、忘れ難い思い出です。(ブログ富士屋ホテルの紅葉)
ひとり、夢に向かって努力し続ける生活を送る彼女。大変なこともあるかと思うのですが、楽しさの方が勝る様子。なにに対しても好奇心いっぱいで、いつも活き活きとした笑顔を絶やしません。
ものを書くひとなので、言葉をとても大切にしていて、上っ面だけの言葉など決して使うことがなく。私に対しても、時に苦言を呈してくれる厳しさもありました。
ちょうど10年前、彼女が観光で京都に来た時。私が店を始める直前のことでした。
彼女はご友人と一緒だったため、長い時間は取れず。私も開店準備に忙殺されていて、まったく余裕なく。
なんとか調整して、彼女が観光を終えてホテルに戻った夕刻。食事に出かけるまでの小一時間、ロビーで会うことができました。
私は開店準備の忙しさと、噴出する問題に疲弊し切っていて、対面を喜ぶ余裕などなく。限られた時間のこと、募る不安を堰を切ったように話したことを覚えています。
彼女はひと通り聞いたあと、いつもの満面の笑顔でひと言…。
「あなたがやりなさい!」
文句を言っている間に、自分でやりなさい。ということだったのでしょう。あまりに潔いアドバイスに、返す言葉がありませんでした。
以来、折りに触れては思い出し、私を叱咤激励してきてくれたこの言葉。厳しくも、温かい、なによりのはなむけの言葉となりました。
志を立てるや、決して言い訳などせず、自分を律し、自分に責任を持ち、これまで生きてきた彼女。その彼女ならではの言葉だったのだと、今改めて思います。
期せずして、会ったのはそれが最後となりました。以来、お互い旅行もままならない身となり、すっかりご無沙汰に。そんな今も、互いの誕生日にはお祝いのメッセージを贈り合っています。
先だって、1月の彼女の誕生日に送ったラインの返信には、今も夢に向かって勉強の様子がありありと見て取れました。そして、こんな言葉で締めくくられていました。
「ちっとも結果は出ませんが、懸命に生きています」
胸に迫りました。
言葉をとても大切にする、その彼女の言う「懸命」がどんなものか…。きっと私の想像をはるかに超えているんだろう。そう思いながら何度も読み返しました。そして自分に問いかけます。
私は懸命に生きてる?
否! 自分では懸命に生きていると思っていたけれど、彼女のこの言葉の前に、恥ずかしくなってしまいました。懸命に生きる余地が、まだまだいっぱいありそうです。
今度、彼女に会った時、私も懸命に生きてます! そう胸を張って言えるよう、しっかり生きていこう。
そんなことを思った1月も終わり、早2月。気を引き締めているこのごろです。