あなたは なにを けんきゅうしていますか?
店のこと
2013年01月30日

三年ほど前になるでしょうか、京都の地下鉄で偶然一緒になったトルコ人青年の事を、今でも印象深く思い出します。
京都駅のホームで国際会館に行くにはこちらでいいかと聞かれたのが始まりです。スーツ姿でとても礼儀正しい青年でした。自宅に帰る私と同じ方向、電車に乗り込んだあとも並んで座り、七駅ほどをお喋りをして過ごしました。
大学時代を金沢で過ごし、今は大学で勉強したことを生かして故国で仕事をされているよう。日本語が堪能なはずです。これから国際会議場で発表をするとのことでした。内容を聞きましたが、なにやら難しくて忘れてしまいました。(笑)
「よく勉強されたんですね」と言うと
「はい、一所懸命勉強しました」と彼。
いらぬ謙遜などしない姿に好感が持てました。
「あなたは なにを けんきゅうしていますか?」
彼から突然の質問です。
「け、けんきゅう?」
けんきゅうっていったら、やっぱり研究? ひたすら勉強をし続けてきた彼は、誰でもなにか研究をしているものだと思っているのでしょうか?
私はただの主婦で、ああ、近所の医院で受付の仕事はしています。といっても、ほんの少しの時間ですけど…。私はしどろもどろで答えていました。自分はなにかの研究に打ち込んでいるような人間ではなくて、といって、ただぼうっとしているわけでもないんだと懸命に言い訳をしていたように思います。
よく考えると、彼が日本語の使い方を微妙に取り違えていて、仕事はなんですか? とか、趣味はなんですか? 程度のニュアンスだったのかもしれません。私のあたふたとした答えぶりに、彼も少し途惑っていたようにも見えました。
そうこうするうちに私の降りる駅になりました。彼は慌てて大きなスーツケースの中を探ると、小さな袋を取り出しました。レモンの香りのするオリーブオイルで、トルコではなんにでもかけて食べるとのこと。これを食べるとき自分のことを思い出してくださいと言って、プレゼントしてくれました。
結構長くなってしまった私の人生、それなりに色々なことに打ち込んできました。けれど、いつもなにかしっくりいかないものを感じて退いてしまう、そんなことの繰り返しでした。自分にしっくり合ったものに出会いたい。そう願い、模索することだけは絶えることなく続けてきたように思います。
あなたは なにを けんきゅうしていますか?
そんな私の心に、彼の言葉は強く響きました。私は一体なにをけんきゅうしたいのか…。
もらったオリーブオイルは使うのがもったいなくて、賞味期限ぎりぎりまで置いておき、見るたびに彼の言葉を思い出していました。
あなたは なにを けんきゅうしていますか?
オリーブオイルはほのかにレモンの香りがし、サラダにかけて美味しくいただきました。
不思議な青年だったなぁと、今でも時々思い出します。またもし彼に会ったなら、今度は堂々と答えられそうな、そんな気がしています。
記憶
心と体のこと
2013年01月19日

幼い頃の記憶というのは、おぼろげなものです。そんななか、鮮明に残っている、ある日、ある場面の記憶というものがあります。
私は京都のまん中あたりで生まれました。近所に二軒のお菓子屋さんがあり、一軒は量り売りから、ちょっとした進物用まで取り揃えたお菓子屋さん。昭和30~40年代当時、一般的だったお菓子屋さんです。おじさんとおばさんのご夫婦でやっておられました。もう一軒は昔ながらの駄菓子屋さん。こちらは小母さんが一人で店番をしておられました。
親からわずかばかりのおこずかいをもらうと、友達の動向やその日の気分で、子供ながらに二軒の店を使い分けていたように思います。そんなある日のこと…。
私は幼稚園から小学校に上がったばかり。学校から帰ってきて、さて今日はどちらのお菓子屋さんに行こうかと考えています。並んだお菓子と、その日食べたいお菓子を思い浮かべながら、駄菓子屋さんの小母さんは「学校行ってきたんか?」と声をかけてくれることを思い出します。
駄菓子屋さんにしよう! そう決めると、私は駄菓子屋さんに駆け出します。
その時の心模様を、今でも手に取るように思い出すことが出来ます。記憶というものは、年数を経るほどに組み替えられているともいいます。自分流に組み替えられた記憶というものに、また意味があるように思います。
慣れない学校、毎日きっと緊張して過ごしていたはずです。下校後、ほっとして出かけた駄菓子屋さんで小母さんに掛けられた言葉は、「頑張ってきたなぁ」とも「えらいなぁ」とも聞こえたのでしょう。そんな言葉をまた聞きたくて、私は駄菓子屋さんに出かけます。よほどうれしかったのでしょう。その時のうれしさが、記憶を今に繋いでいるのでしょう。
過去は未来
駄菓子屋さんの小母さんの言葉は、さりげないようでいて、接客の極意です。店を持った今の私に、時空を超えて大切なことを伝えてくれます。
幼い日の私は、今の私よりずっと純度が高くて、感度が鋭かったように思います。あの頃うれしいと感じたこと、嫌だと感じたこと、それらの記憶は闇夜に瞬くキラ星のように、私の進む道を照らしてくれます。
鏡よ 鏡…
店のこと
2013年01月04日

あけましておめでとうございます。しののめ寺町は明日、1月5日(土)から営業させていただきます。本年もよろしくお願いします。
左枠のニュースでも書いていますが、このホームページはJimdoのみんなのビジネスオンラインというサイトで自作しています。開設したのが、ちょうど一年前の1月4日です。ホームページ作成など到底、無理と思っていたのですが、このサイトなら大丈夫と、知人からアドバイスされたのがきっかけです。
このサイト、素人にもわかりやすい仕組みになっていますが、なにぶん初めてのこと。幼子が積み木を積み上げていくような、たどたどしさでした。にもかかわらず、お付き合いくださった皆様、ありがとうございます。
仕事を終え、夕食の片づけを終え、それからパソコンを開くのはきついこともありましたが、かけがえのない時間でもありました。自作のホームページは鏡のようなもの。今の自分が映り、その向こうになりたい自分が浮かび上がります。 厳しくはありますが、向き合うことは大切です。
起業後、様々な業種の方と知り合う機会が増え、店のコンサルティングやホームページ作成など、起業や起業後のサポートをする職業の方がたくさんいらっしゃることに驚いています。お話をさせていただくと、やはり餅は餅屋、その道のプロとして、素人には思いもつかないノウハウをお持ちなんだと感心することしきりです。
プロの方のように、なににつけ上手く事は運びません。遠回りだったり、ときに真逆のことをしていたり。振り返ってみると滑稽に思えることもたくさんしてきました。そうした至らなさに気づけるのも、自分の手で積み木を積んできたからではないか、鏡と向き合ってきたからではないかとと、無理からではありますがそう思い、また自分を励ましているところです。 これからも様々な方のご指導を仰ぎながら、自分たちなりにやっていこうと思っています。
最後に、この一年、無料でサポートしてくださったJimdoチームの皆様、本当にありがとうございました。これからはちゃんと料金をお支払いします。今後ともよろしくお願いします。
財(たから)宝
店のこと
2012年12月30日

今日12月30日、「しののめ寺町」は本年の営業を終了しました。
雨にもかかわらず、多くのお客様にお越しいただき、夕方にじゃこ山椒と塩昆布がきっちり同時に完売! なんとも気持ちのいい一年の締めくくりでした。
3月に開店。生々しい話になりますが、起業にはお金がかかります。今年一年、たくさんのお金が出ていきました。入ってくる間もなく、出いていく一方は、ちと辛い(笑)。 商売をよくご存知の方からは、起業一年目で利益が出るわけはない、と異口同音に言われます。仰るとおり…、です。
寒空に懐も寒いばかりですが、懐のちょっと横あたり、私のハートは何故かほっくほくです。旧知の知人、起業を機に出会った方々、全国、各国からのお客様、この一年になんと多くの方に出会ったことでしょう。両手の指を何度折っても足りません。そのお一人お一人からいただいた有形無形の支え。私のハートには、溢れんばかりの金銀財宝がざっくざくです。
人の宝。
たくさんのお金が出ていきましたが、それを補って余りあるたくさんの人の宝をいただきました。ありがたくって、ありがたくって、もうこのまま死んでも本望のような…。いえいえ、まだ始まったばかり。「しののめ寺町」を一人前の店にすることが、こうした皆様へのなによりのご恩返しのはず。まだまだ死ぬわけにはいきません。
日々の慌ただしさに紛れ、きちんとお礼を伝えられていないことと思います。この場をお借りして、改めて御礼申し上げます。
皆様、この一年、本当にありがとうございました。
クリスマスだから考える
季節のこと
2012年12月24日

クリスマスだから考える
どうして どうして どうして
苦しんでいる人のこと
悲しんでいる人のこと
うちの子供たちは、幼い頃、近くの教会の付属幼稚園に通っていました。これはクリスマスに園児たちが歌っていた歌です。保護者も参加しての礼拝で、初めて聞いたときの心震える感覚は今でも忘れられません。
ずいぶん昔のこと、記憶違いをしているかもしれませんが、私の心にはこの歌詞が刻みつけられています。有名なクリスマスソングはたくさんありますが、私が一番に浮かべるのはこの歌です。
クリスマスといえばイルミネーション、きらびやかな光は心浮き立つものです。けれど私は、光がきらびやかであればあるほど心落ち着かない。何故だか切なくなってしまうのです。自分がスポットライトを浴びる場所に縁がなかったせいでしょうか。根っからの貧乏性なのでしょうか。光の向こうの闇が気になります。
光のただ中にいると、どこまでも光が広がっているように思います。闇のただ中にいるとどこまでも闇に閉ざされているように思います。けれど光と闇は隣り合わせ。なのに、なかなか、そのことに気づけない。どちら側にいても…。
世の中が幸せに満ちて見えるクリスマス。せめて、この日一日くらいは、きらびやかな光が誰の上にもあまねく照らされたらどんなにいいでしょう。
光の中にあっても、すぐそばに闇がたたずむこと、
闇の中にあっても、すぐそばに光が差していること、
そのことに気づきながら暮らしたいと思っています。






