日日(にちにち)の…
店のこと
2015年07月02日
開店当初からごひいきいただいているお客様のなかに、ご主人様はドイツの方、奥様は日本の方というご夫婦がいらっしゃいます。それぞれに美術工芸や食文感など多岐にわたりご活躍で、最近、活動の拠点を東京から京都に移されたとのこと、私もうれしく思っているところです。
それはそれは素敵なお二人、ご来店の折にお話しできることをいつも楽しみにしているのですが、先日、奥様からこんなお話を伺いました。
京都に住まう七十歳の女性の「わたしらが日日(にちにち)の生活に使うものは…」という言葉に、ご主人様がいたく感銘を受けられたとのこと。それをヒントにご自身のギャラリーを「日日(にちにち)」と名付けられたというのです。
「わたしらが日日(にちにち)の生活に使うものは…」とは、普段使いの食器だったり、生活道具だったり、食材だったりを指すのでしょうか。特別な日のような華やかさはないけれど、愛着ある身の回りのものたち。
どこかで聞いたことがあるような。そう言われれば知っているけれど、敢えては使わなくなった言葉です。
かつてはハレの日とケの日がはっきりと分かれていたように思います。ハレの日の代表と言えばお正月ですが、とても特別な日に感じていたのは、私が子供だったからばかりではないでしょう。
一方で、一年の大部分を占めるケの日、特別ではない普通の日です。「わたしらが日日(にちにち)の生活に使うものは…」という言葉には、そんななんでもない一日一日を丁寧に、愛おしむように暮らしてきた古き良き日本人の暮らしぶりが表現されているように思います。
このほんの短い言葉から立ちのぼる、えも言われぬ風情。日日(ひび)とは少し違う、日日(にちにち)という音(おん)の持つ趣。こんな美しい日本語があったんだと思いました。眠っていた記憶が呼び覚まされたような、懐かしい感覚です。
それにしてもドイツ人であるご主人様がいたく感銘を受けられたという、その感性には驚くばかり。日本の良さは外国の方に、京都の良さは他府県の方に教わる毎日です。
そんなお話を聞かせてくださった奥様、ただ今発売中の「婦人画報」8月号に掲載されていらっしゃいます。まさに「日日(にちにち)の…」を体現されているような素敵な暮らしぶり。舞台はここ京都、寺町です。
行きつけのお店として「しののめ寺町」をご紹介いただいています。素敵な日日のひとこまに、うちのじゃこ山椒を添えていただいている幸せ。本当にありがたいことです。
京都特集も満載です。お客様の記事と共に、是非ともご覧いただけたらと思います。
自分は大事ですもの
心と体のこと
2015年06月17日
常々、不思議に思っていることがあります。
たまたまお越しくださったお客様が、ちょうどその時の私に必要な言葉をかけてくださることがあるのです。それがあまりに絶妙なタイミングなもので、神様からのメッセージを携えた遣いの方なんじゃないかと思うほどだったりして。
先日のこと、杖をついた高齢の女性がお一人で来店されました。月に一度、近くの病院までリハビリに通っておられるとのこと。なんでも少し前に脳梗塞を起こされながらも、ご自身の判断でかかりつけのお医者様にすぐに連絡された由。対応が早かったため軽い後遺症で済んだと、明るく話してくださいました。
ささいな前兆を見逃さないこと。遠慮などせずにただちに行動すること。その大切さがお元気そうな姿から、よく理解できました。その直感力と瞬発力は素晴らしく、明暗を分ける大きなカギだったでしょう。私もいろいろな病気が気になる年齢、もしもの時にはこうありたいと思いますが、意外に難しいことなのではないでしょうか。そこをお尋ねすると…、
「自分は大事ですもの」
と、こともなげにお客様。あまりにシンプルな答えに驚き、お客様の顔に見入ってしまいました。そんな私をよそに、ただただにこやかな表情。あぁ、この方はご自分のことを誰よりもよくご存じで、誰よりも慈しんで生きてこられたんだなぁ。だから自分の小さな変化にも気づけるし、大事な自分を助けるためなら余計な遠慮など二の次にできるんだなぁ。そう思いました。
入院中、相部屋だった遠方の方にじゃこ山椒を送ってあげたいとのこと。その方との思い出話を伺いながら、自分を大事にできる人は他人をも大事にできるのだとも思ったり。
通院のついでに食事や買い物を楽しまれていること、趣味の文楽や俳句のことなども話してくださり、最後に「今日は興奮しちゃったわ」といたずらっぽく笑って帰って行かれました。そのうしろ姿を見送りながら、自分を大事にするって、こういうことなんだなぁと思いました。うまく書けませんが。
自分を大事にしないと、とは店を始めてから特に意識的に思っていることです。ただ、その大事にすべき自分が一体どういう人間なのか。それを本当にわかっているかというと、そもそもそこが怪しい気がします。
人から見えている自分と、自ら認識している自分、その間にはズレがあるものではないでしょうか。若い頃ぽっちゃりだった私は、今でも自分のことをぽっちゃりだと思っています。たまにひとから「華奢ですね」とか言われると、それって誰のこと? とあたりをキョロキョロ見回す自分がいます(笑)。ある時期に刷り込まれた自己イメージが根付いてしまうと、それを払拭することはなかなかに難しい。
「ほぼ専業主婦」が長かった私。開店を機に自称「にわか女将」になりましたが、いつまでたっても「ほぼ専業主婦」の自己イメージが拭い去れていないことに気づくこのごろです。それを隠れ蓑に、出来ないことの言い訳に使っている自分がいます。いえいえ私なんて、と言っているのが、謙遜しているようで実は居心地いい自分がいます。
一方で開店から3年と3ヶ月。事情はどうあれ、経緯はどうあれ、この間、店を開け、店に立ち、店を維持してきた年月の積み重ね。そこには自己を更新し続けてきた自分がいます。
私に私が追いつけない。
そのズレが自分をしんどくしているのかもしれない。そんなことを思っていた矢先のお客様の言葉…「自分は大事ですもの」。
それ以前の私も大事だけれど、今の私はもっと大事。今の私にぴったりフォーカスを合わせよう。自分を正しく認識し直そう。それこそが自分を大事にする第一歩なんじゃないか。
私は「しののめ寺町」をやっているひと。
宣言するほどのことでもありませんが、私にとっては大きな変化です。今さらと呆れられても、まだ早いとお叱りを受けても、書かずにはおれません。
そんなことを思う私でありますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。
下御霊神社
お祭りのこと
2015年05月29日
5月はお祭りシーズン。ここ寺町でも5月の最終日曜日、地元の氏神様、下御霊神社のお祭りが盛大に行われました。歴史あるお祭りも、私にとっては「しののめ寺町」開店以来の4度目です。(ブログお祭りの夜に、夢見通りの人々)
下御霊神社は店からほど近く、店でお出ししているお茶はここでいただいた井戸水でいれています。ペットボトルを携え、2、3日に一度汲みに行き、そのあとお参りをして帰るのが恒例になっています。
店も一段落の夕方に行くことが多いでしょうか。鳥居をくぐると、なにかしらほっとした気持ちに。本殿の屋根越しに見る空は、神社の外で見る空とは少し違っているような。時に季節の花が咲き、そこで改めて季節を感じることも。古びてはいるけれど、地元の人たちに愛されている様子がそこここに感じられる風情ある神社です。
先客と譲り合いながら、水を汲み、そのあと奥の本殿へ。なんであれご縁があるようにと毎回5円に決めているお賽銭を入れ、神様によく聞こえるようにと鈴を大きく鳴らすのが私流です。
そして二拝二拍手。目を閉じて、合わせた両てのひらに力を込めて、渾身の思いで願い事を。 どうぞお守りください…だったり。 どうぞお導きください…だったり。
そして一拝。鳥居前で最後に一礼をして外に出ると、いつもすがしい気持ちになっています。下御霊神社は、いつからか私の心休まる場所、なくてはならない場所になりました。
5月初旬、通りに各店の提燈が吊られます。もちろん「しののめ寺町」の提燈も。夕刻に明かりが灯り、店名が薄闇に浮かび上がるのを見ると、あぁ今年もこの季節がやってきたんだなぁと思います。5月は大好きなこの街が、ますます大好きになる季節です。
心躍らせながら待つお祭りの日。宵宮の土曜日、通りにずらりと縁日が並ぶと、今年もこの光景を見られた喜びを感じます。
夜が更けるにつれ賑わいをみせる通りを「ほいっと、ほいっと」と、掛け声もかわいい子供神輿が練り歩きます。 大人も子供も愛がいっぱいの表情。見ている私にも愛があふれてくるような。お祭りの夜には、神様が近くにいらっしゃる気がしてなりません。
翌日は本番、男衆による御神輿巡幸です。朝に出発した御神輿が夕刻に戻ってくると、クライマックス、神社前での差し上げです。最後の力を振り絞って高く掲げられる御神輿、祭りは最高潮。やがて終了の掛け声と共に、興奮の余韻を残しつつ神社へと帰っていきます。
名残惜しげに鳥居をくぐっていくうしろ姿を見送りながら、ふと、湧き上がる思いがありました。 私の神様…。 下御霊神社の神様が、私の神様になってくださった。そんな気がしたのです。
お参りを始めてたった3年。わずかばかりのお賽銭。それでも心優しい神様は、寺町で店を構え、ここで生きる私を見守ってくださっている。そう感じた瞬間でした。
古くからの氏子さんたちからはお叱りを受けるかもしれません。信心深い方たちからは不謹慎とおとがめを受けるかもしれません。自分でも申し訳ないなぁと思うのですが、感じたことなので、どうかお許しください。
神様はきっと私のことを守っていてくださる。 そう信じて、また一年がんばろう。そして来年も、この街で店を開いていられますように。来年も、うれしそうに御神輿のあとをついて歩く私がいますように。そう願ってやまないお祭りの夜でした。
逆説の10カ条
心と体のこと
2015年05月15日
前回のブログでは体に思いを寄せることの大切さを書きました。心身ともに健康で美しくありたいと(ブログ体)。その尻からですが(笑)4月半ばから喉を傷め、それをまたこじらせてしまいました。
お医者様の開院時間に受診するのは、働く身にはなかなか難しいことです。段取りを整えながら通院、服薬を続け、ようやく完治したところです。体は元気だったのが幸いでしたが、どこかに不調を抱えているというのは、なにかしら大変なものです。
体調がすぐれないと、ただでさえ気弱になるものですが、店のことがあるとなおさらです。明日、店に出られないほどひどくなったらどうしよう。もっと重篤な病気の前兆だったらどうしよう。今回は事なきを得ても、未来永劫、健康が続くわけじゃなし。いつかは…。
気にかかることは、健康以外にもたくさんあります。あれこれ案じ始めると切りがなく、悪い妄想はふくらむばかり。「店を開ける」ということは、なんでもないようでいて、実は奇跡の連続にほかならないと思っています。決しておおげさでなく。そんな時、最近、出会ったばかりの言葉を思い出しました。
何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築き上げなさい。
マザーテレサも感動し引用したことで世に広まったという処世訓「それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条」(ケント・M・キース著)の中の一節です。
一見、あまりに悲観的な表現にたじろぎますが、まさに逆説! その裏側にとても楽観的、能動的、底抜けの明るさを感じ、印象深く記憶していました。10カ条それぞれに含蓄のある言葉が綴られていますが、私はこの一節が一番好きです。
改めて本を購入し、読んでみました。不条理なことだらけの世の中にあって、基準を自分自身に置いてみることの大切さが一貫して説かれています。それは胸のすくほどにシンプルで、なにがあってもブレない無敵なものに思えました。
何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築き上げなさい。
何年もかけて築き上げられたものが一夜にして崩れ去る例は枚挙にいとまがありません。誰もが明日は我が身です。けれど…。
私は、築いている今が楽しい。私は、築いている自分が好き。私にとって、それは一夜にして崩れ去るかどうかよりも大切なこと。
ならば、明日を案じることよりも、今日、築き上げられることに心を向けよう。そう思いました。
長くなりますが、参考までに10カ条を書き留めてみます。
1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。
2 何か良いことをすれば、
隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
3 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。
それでもなお、成功しなさい。
4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
5 正直で率直なあり方はあなたは無防備にするだろう。
それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。
6 もっとも大きな考えをもったもっとも大きな男女は、
もっとも小さな心をもったもっとも小さな男女によって、
撃ち落とされるかもしれない。
それでもなお、大きな考えを持ちなさい。
7 人は弱者をひいきにはするが、勝者のあとにしかついていかない。
それでもなお、弱者のために戦いなさい。
8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きあげなさい。
9 人が本当に助けを必要としていても、
実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
それでもなお、人を助けなさい。
10 世界のために最善を尽くしても、
その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。
心に響く言葉がありましたでしょうか? 素晴らしい本に出会えた感動と共に、店への思いを少しでもお伝えできたなら、うれしいです。
体
心と体のこと
2015年04月29日
店を始めて以来、すっかり運動不足になってしまいました。そのうえパソコンに向かう時間が長くなり、もともとの肩こり症はひどくなる一方。立っている時間が長い日は、足はむくむは腰は疲れるは。絶えない緊張のせいか、背中はいつもパンパン状態…。楽しい仕事ですが、体には悪いことばかりです(笑)。
体が資本の商売、これではいけないと、一年半ほど前に自宅近くのフィットネスクラブに入会しました。店の定休日や夜遅い時間を利用し、ピラティスやヨガのプログラムに参加しています。
通えても週に一、二度です。まわりで華麗なポーズをとる方々を尻目に、私はというと、体は硬いしバランス感覚はないし。とうてい見られた様ではありません。テレビCMや新聞の折り込みチラシにあるような、劇的なビフォー・アフターなど望むべくもありません。
それでも、今、だらしない姿勢をしているなと気づいて正してみたり。呼吸が浅いなと気づいて、深呼吸をしてみたり。ということが増えてきました。目に見える効果はなくても、少しずつ体や意識に浸透してきているようです。
このスタジオ通い、体のためにと始めたのですが、体のためだけではなかったなぁと思うことがよくあります。たとえばヨガのポーズで、手や足の位置を指示されたあとに語られる先生の言葉…。
「今いる位置がしんどいと思ったら、変えてみることができます。床につく手の位置がもう少し前だったり、うしろだったり。開いた足の幅がもう少し広かったり、狭かったり、足首の角度がもう少し内向きだったり、外向きだったり…。自分が心地いいいと思えるポイントを探してみましょう。それは呼吸が教えてくれます」
言われた通りに微調整していると、確かにそういうポイントがあることに気づきます。無理のある位置では、息が詰まるような。無理なくいられる位置では、息がスムーズに通るような。「自分の位置」を探しながら、それってそのまま心に置き換えることができるなぁと思ったり。
あるいは深い呼吸を繰り返しながら語られる先生の言葉…。
「吸う呼吸に合わせて、いいエネルギーを体いっぱい取り込みましょう。髪や指の先、細胞にまで行きわたらせることができます。要らないものは、吐く呼吸にのせて手放すことができます。痛み(傷み?)だったり、ストレスだったり」
体に思いを寄せることは、心に思いを寄せること。体のありようは、心のありよう。スタジオでのエクササイズは、そんなことを教えてくれます。
心は目に見えませんが、体はここにあります。心は扱いにくいけれど、体は扱い慣れているものです。体と向き合う時間を持つことは、心にとっても大切なことだなぁ。そう実感するこのごろです。
「美しいひとには意味がある。なんとなく美しいひとはいない」
ピラティスの先生の名言です。
強く、美しく、しなやかな体と心を持った女性。立ち姿から、素敵な暮らしぶり、仕事ぶりまでもが感じ取れる女性。憧れです。
とうてい叶いませんが、それでも少しでも近づけるよう、地道な努力を続けていきたいと思います。一日でも長く、元気で店に立っていられることを願って。