下御霊神社
お祭りのこと
2015年05月29日
5月はお祭りシーズン。ここ寺町でも5月の最終日曜日、地元の氏神様、下御霊神社のお祭りが盛大に行われました。歴史あるお祭りも、私にとっては「しののめ寺町」開店以来の4度目です。(ブログお祭りの夜に、夢見通りの人々)
下御霊神社は店からほど近く、店でお出ししているお茶はここでいただいた井戸水でいれています。ペットボトルを携え、2、3日に一度汲みに行き、そのあとお参りをして帰るのが恒例になっています。
店も一段落の夕方に行くことが多いでしょうか。鳥居をくぐると、なにかしらほっとした気持ちに。本殿の屋根越しに見る空は、神社の外で見る空とは少し違っているような。時に季節の花が咲き、そこで改めて季節を感じることも。古びてはいるけれど、地元の人たちに愛されている様子がそこここに感じられる風情ある神社です。
先客と譲り合いながら、水を汲み、そのあと奥の本殿へ。なんであれご縁があるようにと毎回5円に決めているお賽銭を入れ、神様によく聞こえるようにと鈴を大きく鳴らすのが私流です。
そして二拝二拍手。目を閉じて、合わせた両てのひらに力を込めて、渾身の思いで願い事を。 どうぞお守りください…だったり。 どうぞお導きください…だったり。
そして一拝。鳥居前で最後に一礼をして外に出ると、いつもすがしい気持ちになっています。下御霊神社は、いつからか私の心休まる場所、なくてはならない場所になりました。
5月初旬、通りに各店の提燈が吊られます。もちろん「しののめ寺町」の提燈も。夕刻に明かりが灯り、店名が薄闇に浮かび上がるのを見ると、あぁ今年もこの季節がやってきたんだなぁと思います。5月は大好きなこの街が、ますます大好きになる季節です。
心躍らせながら待つお祭りの日。宵宮の土曜日、通りにずらりと縁日が並ぶと、今年もこの光景を見られた喜びを感じます。
夜が更けるにつれ賑わいをみせる通りを「ほいっと、ほいっと」と、掛け声もかわいい子供神輿が練り歩きます。 大人も子供も愛がいっぱいの表情。見ている私にも愛があふれてくるような。お祭りの夜には、神様が近くにいらっしゃる気がしてなりません。
翌日は本番、男衆による御神輿巡幸です。朝に出発した御神輿が夕刻に戻ってくると、クライマックス、神社前での差し上げです。最後の力を振り絞って高く掲げられる御神輿、祭りは最高潮。やがて終了の掛け声と共に、興奮の余韻を残しつつ神社へと帰っていきます。
名残惜しげに鳥居をくぐっていくうしろ姿を見送りながら、ふと、湧き上がる思いがありました。 私の神様…。 下御霊神社の神様が、私の神様になってくださった。そんな気がしたのです。
お参りを始めてたった3年。わずかばかりのお賽銭。それでも心優しい神様は、寺町で店を構え、ここで生きる私を見守ってくださっている。そう感じた瞬間でした。
古くからの氏子さんたちからはお叱りを受けるかもしれません。信心深い方たちからは不謹慎とおとがめを受けるかもしれません。自分でも申し訳ないなぁと思うのですが、感じたことなので、どうかお許しください。
神様はきっと私のことを守っていてくださる。 そう信じて、また一年がんばろう。そして来年も、この街で店を開いていられますように。来年も、うれしそうに御神輿のあとをついて歩く私がいますように。そう願ってやまないお祭りの夜でした。
逆説の10カ条
心と体のこと
2015年05月15日
前回のブログでは体に思いを寄せることの大切さを書きました。心身ともに健康で美しくありたいと(ブログ体)。その尻からですが(笑)4月半ばから喉を傷め、それをまたこじらせてしまいました。
お医者様の開院時間に受診するのは、働く身にはなかなか難しいことです。段取りを整えながら通院、服薬を続け、ようやく完治したところです。体は元気だったのが幸いでしたが、どこかに不調を抱えているというのは、なにかしら大変なものです。
体調がすぐれないと、ただでさえ気弱になるものですが、店のことがあるとなおさらです。明日、店に出られないほどひどくなったらどうしよう。もっと重篤な病気の前兆だったらどうしよう。今回は事なきを得ても、未来永劫、健康が続くわけじゃなし。いつかは…。
気にかかることは、健康以外にもたくさんあります。あれこれ案じ始めると切りがなく、悪い妄想はふくらむばかり。「店を開ける」ということは、なんでもないようでいて、実は奇跡の連続にほかならないと思っています。決しておおげさでなく。そんな時、最近、出会ったばかりの言葉を思い出しました。
何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築き上げなさい。
マザーテレサも感動し引用したことで世に広まったという処世訓「それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条」(ケント・M・キース著)の中の一節です。
一見、あまりに悲観的な表現にたじろぎますが、まさに逆説! その裏側にとても楽観的、能動的、底抜けの明るさを感じ、印象深く記憶していました。10カ条それぞれに含蓄のある言葉が綴られていますが、私はこの一節が一番好きです。
改めて本を購入し、読んでみました。不条理なことだらけの世の中にあって、基準を自分自身に置いてみることの大切さが一貫して説かれています。それは胸のすくほどにシンプルで、なにがあってもブレない無敵なものに思えました。
何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築き上げなさい。
何年もかけて築き上げられたものが一夜にして崩れ去る例は枚挙にいとまがありません。誰もが明日は我が身です。けれど…。
私は、築いている今が楽しい。私は、築いている自分が好き。私にとって、それは一夜にして崩れ去るかどうかよりも大切なこと。
ならば、明日を案じることよりも、今日、築き上げられることに心を向けよう。そう思いました。
長くなりますが、参考までに10カ条を書き留めてみます。
1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。
2 何か良いことをすれば、
隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
3 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。
それでもなお、成功しなさい。
4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
5 正直で率直なあり方はあなたは無防備にするだろう。
それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。
6 もっとも大きな考えをもったもっとも大きな男女は、
もっとも小さな心をもったもっとも小さな男女によって、
撃ち落とされるかもしれない。
それでもなお、大きな考えを持ちなさい。
7 人は弱者をひいきにはするが、勝者のあとにしかついていかない。
それでもなお、弱者のために戦いなさい。
8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きあげなさい。
9 人が本当に助けを必要としていても、
実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
それでもなお、人を助けなさい。
10 世界のために最善を尽くしても、
その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。
心に響く言葉がありましたでしょうか? 素晴らしい本に出会えた感動と共に、店への思いを少しでもお伝えできたなら、うれしいです。
体
心と体のこと
2015年04月29日
店を始めて以来、すっかり運動不足になってしまいました。そのうえパソコンに向かう時間が長くなり、もともとの肩こり症はひどくなる一方。立っている時間が長い日は、足はむくむは腰は疲れるは。絶えない緊張のせいか、背中はいつもパンパン状態…。楽しい仕事ですが、体には悪いことばかりです(笑)。
体が資本の商売、これではいけないと、一年半ほど前に自宅近くのフィットネスクラブに入会しました。店の定休日や夜遅い時間を利用し、ピラティスやヨガのプログラムに参加しています。
通えても週に一、二度です。まわりで華麗なポーズをとる方々を尻目に、私はというと、体は硬いしバランス感覚はないし。とうてい見られた様ではありません。テレビCMや新聞の折り込みチラシにあるような、劇的なビフォー・アフターなど望むべくもありません。
それでも、今、だらしない姿勢をしているなと気づいて正してみたり。呼吸が浅いなと気づいて、深呼吸をしてみたり。ということが増えてきました。目に見える効果はなくても、少しずつ体や意識に浸透してきているようです。
このスタジオ通い、体のためにと始めたのですが、体のためだけではなかったなぁと思うことがよくあります。たとえばヨガのポーズで、手や足の位置を指示されたあとに語られる先生の言葉…。
「今いる位置がしんどいと思ったら、変えてみることができます。床につく手の位置がもう少し前だったり、うしろだったり。開いた足の幅がもう少し広かったり、狭かったり、足首の角度がもう少し内向きだったり、外向きだったり…。自分が心地いいいと思えるポイントを探してみましょう。それは呼吸が教えてくれます」
言われた通りに微調整していると、確かにそういうポイントがあることに気づきます。無理のある位置では、息が詰まるような。無理なくいられる位置では、息がスムーズに通るような。「自分の位置」を探しながら、それってそのまま心に置き換えることができるなぁと思ったり。
あるいは深い呼吸を繰り返しながら語られる先生の言葉…。
「吸う呼吸に合わせて、いいエネルギーを体いっぱい取り込みましょう。髪や指の先、細胞にまで行きわたらせることができます。要らないものは、吐く呼吸にのせて手放すことができます。痛み(傷み?)だったり、ストレスだったり」
体に思いを寄せることは、心に思いを寄せること。体のありようは、心のありよう。スタジオでのエクササイズは、そんなことを教えてくれます。
心は目に見えませんが、体はここにあります。心は扱いにくいけれど、体は扱い慣れているものです。体と向き合う時間を持つことは、心にとっても大切なことだなぁ。そう実感するこのごろです。
「美しいひとには意味がある。なんとなく美しいひとはいない」
ピラティスの先生の名言です。
強く、美しく、しなやかな体と心を持った女性。立ち姿から、素敵な暮らしぶり、仕事ぶりまでもが感じ取れる女性。憧れです。
とうてい叶いませんが、それでも少しでも近づけるよう、地道な努力を続けていきたいと思います。一日でも長く、元気で店に立っていられることを願って。
桜
季節のこと
2015年04月14日
今年の春、皆様、どんなお花見を楽しまれたでしょうか? これからという地域の方もいらっしゃるかと思います。京都はおおむね4月に入ってすぐのころに、見頃のピークを迎えました。とはいえ雨が多く、お花見日和といえる日は数えるほどだったような気がします。
以前のブログ私が苦手だったもの 春で書きましたが、なにやら世の中が浮き立つ「春」という季節、いつも置いてきぼり感にさいなまれる私には、気分の落ち込む苦手な季節でした(ブログ天狗おじいさん)。店を始めてから少しは克服できたかと思っていたのですが…。
前回のブログ可能性では、目の前の可能性に果敢にチャレンジしていきたい、なんて威勢のいいことを書きました。有言実行、さっそく取りかかっていますが、どうもスピード感に欠けるような。計画しながらも、今一歩が踏み出せずにいることもたくさんあります。
可能性をものにできるだけの力が、果たして私にあるのだろうか。不安がよぎるや、たちまち足踏み状態に。とうてい果敢にとはいかない現状です。
そんな不甲斐ない私を尻目に、桜は一気に開花し、咲き切ったと思うや、惜しげもなく散っていきました。見る間に移ろう季節のうしろ姿を追いながら、その背中に指先すら触れることができない私…。
やっぱり春には追いつけない。
写真はかの有名な円山公園のしだれ桜です。春が苦手な私も、これを見ないことには春が始まらない、というくらい大好き。去年、閉店後に思い余って出かけた折にカメラに収めたものです。
近年は傷みも激しく、かつての華麗さはないという声をよく耳にします。それでも見事な立ち姿。痛々しさまでもが美しく、まるで老いてなお妖艶な女性を見るようです。えもいわれぬ気品と色香。はかなげだけれど雄々しくて、なににもおもねらない孤高の美。対峙するたびに息を飲み、立ちすくんでしまいます。そんな大好きな桜も、残念ながら今年は行きそびれてしまいました。
追いつけないまま、また春が行っちゃった。
今年もやっぱり置いてきぼり感にさいなまれ、気分が落ち込みがちなこのごろ。まだまだ春が苦手なのかなぁ。
いやいや、今年はかつての置いてきぼり感とは少し違う気がします。春のスピードに追いつけないでいるだけで、今の私はたとえゆっくりでも前に進んでいるんじゃない? 追いつけないもどかしさは、懸命に背中を追っているからこそ感じる思いなんじゃない?
ただ愛でるには、桜はあまりに美しすぎる。そう思うのは私だけでしょうか。私にとって桜は、畏れにも似た憧れです。たとえ追いつけなくても、ずっとその背中を追いかけていたい。その思いを新たにするのが、春という季節なのかもしれません。
京都の桜もすっかり終わる頃、そんなことを思う私です。
可能性
店のこと
2015年03月31日
私、心に思ったことが視覚的に見えるという変な癖(?)があります。心が動いた時などに、よく起こります。そのものズバリというよりは、暗示的なイメージで現れることが多いでしょうか。うまく説明できませんが…。
このところ、しきりにシャボン玉が見えます。大きなシャボン玉がいくつも、目の前でふわりふわり。光を浴びて七色に輝くシャボン玉、中には色とりどりの小さな紙切れが。七夕飾りの短冊みたいに、なにやら願い事が書かれているもよう。指先でつつくとパチンと割れて、短冊がはらはらと空に舞います。入れ替わるように、またひとつ新しいシャボン玉が。
可能性をはらんだシャボン玉。
可能性は私のまわりにいくらでもあるのだと、それをものにするもしないもすべては私次第なのだと、この光景は教えてくれます。
先だって、お陰様で開店3周年を迎えることができました。とはいえ40年近く続いている店からの暖簾分けという状況、新規の店とは少し事情が違います。多少のアレンジは加えながらも、基本、もともとあったものを持ってきた、というのが正直なところです。
これはこういうもの。ここはこうあるべき。そう信じて疑わずに準備し、やってきました。それがお客様が望まれていることと思って…。
三年が経ち、そんな思いに変化が表れています。こういうもの、こうあるべき、と思っているものは本当にそうなんだろうか。すでにあるものを改良したり、ないものを一から作り出したり、いくらも工夫の余地がありそうな。お客様はむしろ、そちらを望まれているんじゃないか。
途端、目に入るもの、目に入るものに可能性を感じるようになりました。次々に新しい発想が生まれ、その発想がまた新しい発想を呼んでくる。それは店のことに留まらず、自分自身のことにおいても同じです。気づけば、私の目の前はシャボン玉だらけ。ずっと目の前にあったのに、私が気づかなかっただけかもしれません。
これまで、精一杯がんばっているようで、がんばり切れていないもどかしさを感じていました。守るべきもの、変えていいもの。そこを見誤らなければ、もっと自由でいいんじゃないか。そう気づくと、心まで自由になれた気がしています。これからが本当のがんばりどころです。
自分の心は自分が一番わかっているようで、わかっていない。そこのところをダイレクトに見せてくれる、この変な癖。直感タイプの私らしい、いい癖だなぁと思っています。
目の前のシャボン玉、さあ、なにから割ろうか。たくさんありすぎて、どれも魅力的過ぎて、きょろきょろ視点が定まらない状況です。一日24時間、体は一つ、手当たり次第とはいきません。まずは目の前の一番大きなシャボン玉から。
大それたことはできないけれど、手の届く可能性には果敢にチャレンジしていきたい。伝統を守りながら、でも新しい風も吹きこみながら「しののめ寺町」は「しののめ寺町」らしい店になっていきたい。それこそが店を開いた意味だったのだと、思いを新たにするこのごろです。
写真は3周年記念に友人のカメラマン篠崎一恵さんに作ってもらったオリジナルポストカードです。私からお願いしたテーマは「希望」でした。まさに私の心象風景。これからまた一歩一歩です。皆様、どうぞ気長に見守ってくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。