おぉきに

店のこと

2015年12月02日

開店以来ずっと、心に引っかかっていたことがあります。「おぉきに」が言えない。

 

京都に生まれ育った私、ふつうに京都弁を話します。ただその京都弁、一般人の私たちが日常的に使うのと、伝統や格式ある世界、例えば花街や老舗のお店の方の使われるのとは少し違います。世代によっても少し違います。一口に京都弁といっても実はさまざまです。

 

テレビなどで、京都といえば「○○どすえ~」みたいな使われ方をするのをよく見かけます。他府県の方がイメージされる京都弁というのは、たぶん舞妓さんが話される言葉なのではないでしょうか。イメージを壊しては申し訳ないのですが、そんな言葉を使う人は、私のまわりで未だかつて一人もいません(笑)。

 

もしかしたら京都弁とは別に、京言葉というものがあるのかもしれません。リアルな話し言葉とは少し違う、京都をイメージして作り上げられた、理想の京都の言葉のような。詳しいわけではないので、よくわかりませんが…。間違っていたら、かんにんどすえ~(笑)。

 

じゃこ山椒といえば、今では京土産の一つに数えられるようになりました。「しののめ寺町」も内装や商品の包装など、常に京都らしさをイメージして考えています。おもてなしも京都らしく、ということで「ありがとうございました」より「おぉきに」がふさわしいとアドバイスされることも何度かありました。

 

「おぉきに」という言葉、私より少し年長の方は自然に使われますが、私自身はこれまでの人生で一度も使ったことがありません。たぶん私と同年代、それ以下の方は同じではないかと思います。

 

正直なところが、時に正直過ぎるところが長所であり短所でもある私。京都らしさ演出のために一度も使ったことのない言葉を口にするのには、どうしても抵抗がありました。考え過ぎだと思うのですが、「おぉきに」と言う自分は、本当の自分じゃないような、なにかしら違和感があって、どうしても口に出来ないのです。

 

他府県から移り住まれた方が、くったくなく「おぉきに」と言われるのを聞くことがあります。京都の言葉を自分の中に取り入れ、京都の暮らしを心から楽しんでおられる様子に、京都に生まれ育った私が言えなくてどうする、と思います。でも、やっぱり言えない。

 

お客様の方が「おぉきに」と言って帰って行かれることもよくあります。京都らしいなぁと思いながらお見送りしている自分に、こちらこそ「おぉきに」でしょう、とツッコミを入れます。でも、やっぱり言えない。

 

そのうちそのうちと思いながら、いつまでたっても言えない。それがやがてストレスに。そんなことにこだわっているくらいなら、いっそ言わないと決めた方が潔いんじゃないかと思うに至り、私は私流、一生「ありがとうございました」で通そうと決めました。開き直りです(笑)。

 

そんな私に劇的ビフォアー・アフターが…。

 

少し前からアルバイトさんを募集していましたが、10月末からこんな可愛いお嬢さんが来てくれています。近くの同志社大学の女子寮の学生、さなさん。お客様でもある、こちらの寮母さんのご紹介です。(ブログ寮母さん

 

静岡出身の彼女ですが、店に立つや一日目から、明るく大きな声で「おぉきに~」とお客様をお見送り。その声に、お客様も思わずにっこり。店の空気が一気に京都らしくなったような。これには本当に驚いてしまいました。聞けば祇園のお寿司屋さんや割烹でアルバイト経験があるとのこと。場所柄、そういう挨拶を教えられたのでしょう。

 

京都の言葉でお迎えすることは、京都らしさを求めて来られるお客様への大切なサービスの一つなのだと、心から納得しました。

 

私よりずっと若く、他府県出身のアルバイトさんがこんなにも見事に「おぉきに」と言っているのに、自称「にわか女将」の私が言わへんわけにいかへんや~ん! ここは素直に見習わなぁ、と一大決心。さなさんの声に合わせてハモる練習開始です。

 

さなさんの大きな声に遅れながら、恐る恐る「おぉきに」と言ってみました。次はもう少し大きな声で…。練習を重ね、今ではさなさんがお休みの日も、一人でちゃんと言えるようになりました。どちらがアルバイトなんだか(笑)。

 

「おぉきに」という言葉、口にしてみると、とても心地いいことに気づきます。音(おん)の持つ抑揚、響きが柔らかく、こういうのを「はんなり」というのでしょうか。まさに京都らしい、美しい言葉だなと思います。

 

そしてなにより、あんなにも抵抗のあったことを、こんなにもあっけなく出来てしまった自分に驚いています。しかもこんな若い人に学んで。今では「おぉきに」と言っている自分が、結構好きだったりして(笑)。ひとはいくつになっても変われるもののようです。 

 

「しののめ寺町」の店内に「おぉきに」という二人の女性の声が響くなんて、思ってもみないことでした。店も私たちも、いろいろな方に出会いながら、育てていただきながら、成長し、進化し続けていく。時に予想をはるかに超えて…。そう実感した出来事でした。

 

そんな素敵なサプライズを起こしてくれたさなさん、春には静岡に帰り社会人になられます。短い期間ではありますが、それまで一緒に楽しく働いていきたいと思っています。ぜひ、さなさんの「おぉきに」を聞きにご来店ください。

 

一日中「おぉきに」の声の絶えない店になっていけるよう、一緒にがんばってくださる方を引き続き募集中しています。ぜひともお力を貸していただきたく思います。どうぞ気軽にお問い合わせください!

 

そんなことを切に願う12月。忙しい師走のこのごろです。

どうせなら楽しく

店のこと

2015年11月06日

店を始めると決めてから今日まで、どういう店でありたいか、そのためにはどうしたらいいか、絶えず考えてきたように思います。家族でも何度となく話し合ってきましたが、答えは決して一つでなく、迷走することもしばしばでした。そんな時、私が最後にいつも口にしていた言葉があります。

 

どうせなら楽しくやりたい。

 

それぞれの糸がからみ合い、もつれ合うほどに、この言葉がいつも出てきました。なんの答えにもなっていないけれど、なにか大きなヒントのような気がして、最後に出るのは必ずこの言葉でした。

 

今年3月、開店から3周年を迎えました。3年も経てば、基礎が出来、あとは自ずと落ち着いていくものだと思っていました。現実は決してそうではなく、3年経ってようやくわかってくることが、たくさんあるのだと知りました。そうして見えてきた課題に、改めて向き合っていくスタートラインに立った気がする今年。3年というのは、やはり大きな節目です。

「しののめ寺町」は一体、どんな店でありたいのか。そのためにはどうしたらいいのか。新たな模索の始まりでした。店について考えることは、自分について考えることでもあります。考えるほどにに混乱することも。そんな時、心に浮かぶ言葉はやっぱり…。

 

どうせなら楽しくやりたい。

 

考えるばかりではなにも始まらないと、気づいたところから行動してみたりもしました。うまくいくこともあれば、時に頭を打つことも。やってみなければわからなかったことが、わかっただけでもよかったのだと納得しつつ、自信を失ったりもして。

 

それでも毎日、店を開けようと思ったら、今日の自分に落ち込んでいる暇などありません。自信があってもなくても、なくてもなくても、前に進んでいかなくちゃと、明日の自分を励ましながらやってきました。

そんな私の力となったものの一つが、店を始めてから出会った様々な業種で働く方たちの姿でした。仕事も人生も楽しいことばかりのはずはありません。それでも、仕事も人生も全力で楽しんでおられる方がたくさんいらっしゃることに、とても驚きました。そんなお一人お一人が放たれるエネルギーに触発され、私もまたがんばってこられたのだと思います。

「楽しめる」というのは才能なんだなぁ。

逆にどんな恵まれた環境であっても、楽しめない人というのもあるのかも。人って大きく分けると、この二通りなんじゃないかと思ったりします。

私はやっぱり、楽しくやりたい!

 

早くも11月。模索は続いています。年内に完結とは到底いきません。それでも、今年最後の日、きつかったけれど、いい一年だったと振り返れるよう、残りの一日一日を大切に過ごしていきたいと思うこのごろです。

私にも楽しめる才能がありそうな(笑)。

まだまだ至らないことばかりの「しののめ寺町」ですが、気長に見守ってくださいますよう、よろしくお願いします。

お金のこと

店のこと

2015年10月19日

今回はちょっとリアルなお話。お金のこと。あからさまに語るのははばかられるけれど、それでもやっぱり大事なお話です。

 

長年「ほぼ専業主婦」だった私。ずっと消費者側で過ごしていたんだなぁと、当たり前のことを今さらながらに痛感しています。そのころは気づかなかったけれど、店を始めて身に沁みるあれこれ。そんなことを勇気を出して書いてみたいと思います。

 

当時、私が店や商品を選ぶ際に基準にしていたのは、質は少しでも高いものを、価格は少しでも低いものを、そんなことだったように思います。要するに少しでも得をしたい。さらになにかしらプラスアルファなもの、店の雰囲気だったり、店員さんの対応だったり、そういうものから味わうお得感も大切な要素でした。

 

逆にちょっとしたことで、損をしたような気分になっていたこともあります。例えば、買った品物をプレゼント用に包装してもらうには、箱代が別にかかると言われた時。それくらいサービスしてくれたらいいのに、なんて思ったり。例えば、買った品物を宅配便で送ってもらう時。送料は余計な支出だなぁと思ったり。

 

自分が店を開いてみて、よくわかります。質の高いものを作ろうと思ったら、どうしたって価格が高くなること。それは中身のみならず包装品についても同じであること。暑い夏の日も凍える雪の日も、集配し輸送し配達してくださる宅配業者さんの働きがどんなにありがたいかということ。挙げれば切りがありません。

 

こうした品物やサービスを提供するには、お店の方の諸々のご苦労やご負担があったんだと、今になってわかります。それに対して相応の対価というものがあるんだということも。そうしたことに思い至ることなく、わがままな客だったと反省しきりです(笑)。

 

なにもわからず、経験もないまま飛び込んだ商売の世界。毎日がいっぱいいっぱいで、お金のことは二の次でやってきた気がします。開店から3年が過ぎ、少しずつではありますが、お金の流れがようやくわかりかけてきたでしょうか。まだまだですが。

 

もともと株だの金利だの財テクだの、さっぱり興味がない私。難しい経済のことはわかりませんが、もとい、簡単な経済のことすらわかりませんが、あれこれ考えるようになりました。

 

プレミア感のある高額商品から薄利多売の安価な商品まで、玉石混交の物が有り余る時代。世の中に出回っている様々な物やサービス、労働に対して、本当に正当な価格がつけられているのかなぁ、なんて。

 

「貧乏 暇なし」は大変そうでいて生き生きと働く姿が想像されて、結構好きな言葉です。が、石川啄木の「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」は切なすぎて、やりきれなくなります。物も人も適正に評価され、見合った価格、報酬が与えられる世の中であればいいなぁと思います。

 

ひるがえってうちの店。果たして、お客様に支払っていただいたお金の価値に対して、どれだけの価値を提供できているでしょう。どれだけのお得感、満足感を味わっていただけているでしょう。消費者だったあの日の私は、果たして「しののめ寺町」をひいきにするのかなぁ。

 

しきりに気になるこのごろです。

 

「おいしかった」「便利な場所に店を出してくれて助かった」「京都に来る楽しみが増えた」そんな有り難いお声を聞くにつけ、店を続けていくことこそがお客様への究極のサービスなのではないかと思ったりもします。利益を上げられなければ店を続けていくことはできません。利益を上げることは、店にとっての責任なんじゃないかとも思うようになりました。

 

大変ながらも楽しんでさせていただいている商売ですが、お金という観点から考えるようになったのは、私の中で大きな変化です。やっと商売の緒(ちょ)に就いた気がしています。ずいぶん時間がかかりました(笑)。

 

まだまだ難しいお金のことですが、しっかり考えながら、けれどとらわれ過ぎることなく、これからも長く店を続けていきたい。お客様から真に満足を感じていただける店を目指して。そんなことを思う近ごろの私です。ちょっと生々しい話になってしまいましたが、今後ともよろしくお願いします。

明日に架ける橋

店のこと

2015年09月30日

店を始めて様々な方と出会う機会に恵まれるようになりました。多才な皆さん、なかにはライブハウスでライブを開かれる方も数人。先日はそんな知人の一人、Mikiyoさんのジャズライブに出かけてきました。私が出かけるのは今回が2度目です。

責任ある仕事につきながら、小さなお子さんのある家庭を切り盛りし、その合間に歌を続けてこられた彼女。とても小柄な女性なのですが、どこにそんなパワーがあるのかと驚くほどの声量と透明感のある歌声。前回、初めて聴いた時、たちまち魅了されてしまいました。

なかでも「Calling You」という曲を歌われた時のこと、「I am callig you 」という高音のフレーズで感じた衝撃は今でも忘れることができません。

I am calling you…と、私は誰かに呼ばれているような。

I am calling you…と、私が誰かを呼んでいるような。

なにかのメッセージを私に伝えるために歌ってくれているのかと思ったほど。祇園の小さなライブハウスで体験した霊的な感覚でした。彼女の魂のこもった歌声に導かれてのことだったに違いありません。終演後、彼女に「私のために歌ってくれたの?」と思わず聞いたくらいです(笑)。以来、シンガーMikiyoさんの大ファンになりました。

楽しみに出かけた2度目の今回、プログラムには意外にも「Bridge Over Troubled Water~明日に架ける橋~」とありました。私が中学生の頃でしょうか、よく耳にしたサイモンとガーファンクルの名曲です。

歌詞の意味も知らず、ただ何度も出てくる「トラブル・ウォーター」というフレーズが印象的でした。日本人の私の耳にはそう聞こえるだけで、きっと違った単語なのだろうと思っていました。「What time is it ?」が「掘った芋いじった」に聞こえるような。

Troubled Water …本当に「トラブル・ウオーター」だったのだと、今回初めて知りました。激流、困難といった意味でしょうか。君が辛い時、僕が激流に架かる橋のように、身を投げ出して君を助けるよ…なんて意味だとか。こんな情熱的な曲だったとは驚きです。

Mikiyoさん自身、ジャズではないのでチャレンジングな選曲なのですがと話されていましたが、ジャンルを超えて選ばれた意味がわかる気がしました。そして、その歌詞の通りの熱唱。今回も心が震えました。またまた、私のために歌ってくれているのかと(笑)。

終演後「私も明日に架ける橋がほしい!」と叫ぶ私に、「私がなりますよ」とこともなげにMikiyoさん。守るべきものがいっぱいある彼女、ましてやこんなにも小柄な彼女に、私の激流に架かる橋になんかなってもらったらバチが当たるというものです。ありがたいお気持ちだけ頂戴して、丁重にお断りしました(笑)。

以来、この曲が耳から離れません。朝、店へと自転車で走る時。夕闇のなか自宅へと急ぐ時。知らず知らず口ずさんでいます。

Like a bridge over troubled water

I will lay me down

「明日に架ける橋」は、やっぱり自分で架けなくちゃ。

頑強な橋はとうてい無理だけれど、小さな橋を明日へひょいと架けてみる。それなら私にもできそうな。そうして一日が終われば、また小さな橋をひょいと明日に架けてみる。そうして一日一日を過ごしていって、気づけばここまで生きてきた…、なんていうのが素敵だなぁ。

昔から耳に馴染んでいた歌が、何十年を経て蘇る。やっぱり歌って素晴らしい。

そんなことを思う9月も今日で終わり。明日はもう10月です。けれど、たいそうに考えずに、今夜も眠る前、小さな橋をひょいと明日に架けてみよう。そう思っています。

ユルスナールの靴 2

素敵な女性

2015年09月11日

9月に入り、めっきり涼しくなりました。今年の夏は例年にも増して厳しい暑さで、とても長かったように思うのですが、そんな日々ももう遠いことのよう。季節の移ろいは本当に早いものです。

前回のブログ八日目の蝉でも触れていますが、店を始めるまでは毎年ひどい夏バテに悩まされていました。店を始めるにあたって、夏、私の体力がもつかどうかが心配事の一つでしたが、お陰様で休むことなく続けてこられています。そんな自分に驚きながら、夏になると思い出すフレーズがあります。以前にも紹介しましたが(ブログユルスナールの靴)もう一度。

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いて行けるはずだ。そう心のどこかで思い続け、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。

                   須賀敦子 「ユルスナールの靴」

イタリア文学者でエッセイストの須賀敦子さん。残念ながらもう亡くなられましたが、美しい文体が魅力で、女性としても素敵だなあと思う作家さんです。なかでも、この一節に出会ったときは、ちょっとした衝撃でした。

当時「ほぼ専業主婦」だった私。自分を生かせる場所を探して、あれこれ出かけては、やっぱりここは私の居場所じゃないと、あとにして。そんなことを繰り返していました。私は自分を生かせるものなど持ち合わせていないのだと、どこかであきらめていたような。それでもやっぱり、あきらめ切れずに苛立っていたような。そんな思いを代弁してくれる一節だったのです。しかも「ユルスナールの靴」だなんて、洒落た表現で。

思いがけないことに店を開くことになり、気づくと、きっちり足に合った靴を履ている自分がいました。この靴ならどこまでも行けそうで、歩くのももどかしく、いつも前のめりの駆け足でここまで来たような気がします。

そうして今年の春、三周年を迎えました。三年も経てば落ち着くのかと思いきや、三年経ってようやくわかってくることばかり。見直しを迫られることが重なり、あれやこれやいつも考え事。ヒートアップした脳みそは熱く感じられるほどで、眠っていても余熱冷めやらず。疲れているはずなのに、少しの睡眠時間で目が覚めてしまう。そんな日が続いていました。

もともと要領が悪く、全力疾走しては倒れ込むタイプの私。がんばりどころと危険領域との境界がさっぱりわかりません。警告ランプでも点灯してくれたらいいのですが、そんなわけもなし。8月のお盆過ぎ、夏季休業に入るやダウンしてしまいました。

ユルスナールの靴でこけちゃった。

休み返上で後半戦に備える態勢でいたのですが、それどころでなく、近所の医院に通って点滴を受けては、自宅ベッドで昏々と眠り続ける5日間でした。こんなに眠れるものかと思うほど眠り続け、やがて脳みそもクールダウン。そうして思ったこと…。

元気な体さえあれば、なんとかなる。

気になることは数知れず、やるべきことも数知れず。けれど、それもこれも元気な体があってこそ。全部やり遂げたところで、ダウンしてしまったら元も子もない。困ったら誰かに助けを求めよう。至らないところは謝って許しを請おう。続けていくことが一番大事。そう思い知りました。

ダウンしたのは、こうでもしないと休まないだろうと思われた、神様からのドクターストップだった気がしてなりません。

やっと見つけたぴったりの靴。見つけられたことがうれしくて、夢中でここまできたけれど、これからは歩き方が大事だなぁと思います。どんなに素敵な靴も、寝込んでしまったら履くこともできないのだから。

時にゆっくり歩いてみたり、時にスキップしてみたり。私なりの歩き方を見つけていきたい。履くほどに足に馴染む靴のように、愛おしみながら、どこまでも一緒に歩いて行きたい。私のユルスナールの靴。

そんなことを思う秋の入口です。

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