竹中大工道具館
お友達のこと
2021年01月18日

新年の御挨拶がすっかり遅くなりました。本年もよろしくお願い申し上げます。
さて、新しい年が始動しましたが、コロナ禍は収まるどころか、さらに深刻な様相。関東に続き、関西にも緊急事態宣言が出され、まだまだ先は見えそうにありません。
明けない夜はない…。最近よく耳にする言葉です。確かにそうだと思いつつも、未曽有の事態がこうも長引くと、気休めにしか思えないことも。それでもなにかしら希望をつなぎながら、日々を過ごしていきたい。そう願うばかりのこのごろです。
さて、冒頭の写真は私です。新年最初のブログにお恥ずかしい限りですが、敢えて、敢えて、載せました(汗)。といいますのも…。
このブログでも何度か書いている神戸の友人、写真家の一恵ちゃん(ブログ感性 ブログ一恵ちゃん2)。コロナ禍でなかなか会えずにいましたが、第2波が落ち着いてきた昨年11月にやっと会うことができました。
行先をどうしようという話になった時、彼女が一番に挙げたのが神戸にある「竹中大工道具館」でした。竹中工務店さんが建てられたという、日本で唯一の大工道具を展示した博物館とのことです。
「変わってる~」と思いつつ(笑)、彼女の誕生月ということで、私はお付き合いのつもりで出かけて行きました。
思えば、昨年2月にやはり彼女と出かけたゴッホ展以来(ブログゴッホ展)、店と自宅の往復のみの毎日。本当に久しぶりの外出です。
電車に揺られ車窓を眺めながら、この間、いろんなことがあったなぁ。なんて考えていると、急に涙がぽろぽろ流れてきました。どうしたことかと自分にビックリ! 慌ててマスクを外して涙をふくも、マスクをつけた途端にまた涙。また外して、またつけて…。
無我夢中過ぎて自覚していなかったけれど、張り詰めた思いで暮らしていたんだなぁと、しみじみ。
電車が着く頃には涙も止まり、久しぶりの再会にあとは笑顔、笑顔。「竹中大工道具館」では、素晴らしい職人技を目の当たりにして、二人して盛り上がる盛り上がる。やっぱり感性の似ている私たちでした(笑)。
鑑賞後、館内の庭でひと休み。11月とは思えない暖かな日で、置かれた椅子に座っていると、まるで縁側の日向ぼっこのよう。茶室を背景にした木を見上げると、その先にそれはそれは綺麗な青空…。
本当に気持ちよくて、これまでの緊張が一気に解けていくようでした。がんばっていれば、こんな日が来るんだ…。ご褒美をもらったようなうれしさも。そんな私の姿を一恵ちゃんが写真に収めてくれたのでした。
自分の作品では人物は撮らない彼女ですが、贅沢にも友達特典で、一緒に出掛けた時にはよく撮ってもらいます。知らない間に撮ってくれていることもあるのですが、これが、私 ? ! って驚くことがよくあります。
なんていうか、私の知らない私のような。私の内面にいる、もう一人の私のような。
この写真もそうでした。私はなにを見上げているんだろう。うれしそうに笑みを浮かべたりなんかして…。
自分のことなのに、木と空を見上げていることを知っているはずなのに、あれこれ想像をしてしまいます。
この視線の先には、こうありたいと願う未来が実現した、その様を見ているんじゃないか。だからこんなにもうれしそう…。何度見ても、そんな気がしてなりません。
対象の本質を見抜き、一瞬を逃さない写真家ならではの目線と共に、私のことをよくよく知ってくれている彼女だからこそ撮れた写真だったのだと思います。
ありがとう。
必ずや今回のコロナ第3波も収まり、はたまた私の人生の大波小波も収まり、この視線の先にあるような明るい未来がきっと来る! 根拠なくそんな希望が湧いてくる不思議な写真。お気に入りの一枚です。
期待せずに出かけた「竹中大工博物館」。予想外に思い出深い場所となりました。実直な仕事をしてこられた職人さんたちの魂の宿る場所。そんな場所の持つパワーがもたらしてくれた豊かな時間だったのかもしれません。
このあと昼食に出かけた近くのホテルのレストラン街は、閉められている店も多く、たちまち胸ふさぐ思いでした。現実は想像を超えて過酷です。
それでも前に進んでいこう。
一年最初のブログ。かなり無理くりですが、希望を謳ってみました。その心意気に免じて、お恥ずかしい写真もご容赦を。皆様、くれぐれもご用心のうえお過ごしください。
ファイト!
店のこと
2020年12月24日
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このところバタバタしていて余裕がなく、ブログの更新がすっかり遅れてしまいました。そうこうしている間に、新型コロナウィルスの第三波で、また大変な世の中に。皆様、どのようにお過ごしでしょうか?
そんな今、耳について離れない曲があります。「ファイト!」。以前から私のブログを読んでくださっている方にはお馴染み、またも中島みゆきさんの曲です。(ブログ誕生 ブログ時代)
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴らが笑うだろ
ファイト!
冷たい水の中を
ふるえながらのぼっていけ
この一節が有名で、皆さんも一度は耳にされたことがあるのではないでしょうか。
この夏に観た、中島みゆきさんの名曲がタイトルになった映画「糸」のなかでも歌われていていました(ブログ糸)。以来、なんとなく心に残っていたところへ、先日、たまたまつけたテレビの歌番組で女優の満島ひかりさんが歌っておられるのを聴きました。
満島ひかりさん、不思議な魅力があり、好きな女優さんの一人です。ある時、著名な精神科医と対談されているのを見たことがあります。
その道の専門家相手に物怖じすることなく、ご自身のスピリチュアルな体験などを、とても楽し気に話されていて、魅力の源を垣間見た気がしたのを覚えています。
そんな彼女の歌う「ファイト!」。中島みゆきさんの歌唱ももちろん素晴らしいけれど、また違った世界観で、衝撃を受けてしまいました。
今回、改めて聴き入るなか、有名な前述の一節とは別に、とても心に迫る一節がありました。
勝つか負けるか それはわからない
それでもとにかく闘いの
出場通知を抱きしめて
あいつは海になりました
コロナ禍の今、こんな思いで暮らしておられる方がたくさんあるのではないでしょうか。飲食や観光業に従事する方。医療の最前線で献身的な働きをしてくださっている方…。
コロナ禍はさて置いても、人生は時に闘いの様相を呈することもあるもの。そうしたなかで、こんな思いを抱きながら、立ち向かっておられる方もたくさんあるかと思います。
少々やけっぱち気味に歌われるこの曲。その緊迫感は悲壮でありながら、腹をくくったひとの底力がほとばしるよう。聴いているうちに、根拠なく希望が湧いてくるのは私だけでしょうか。
以来、ついつい口ずさんでいる自分に気づきます。私は私の闘いのなか、へこたれそうになる心を鼓舞し、背中を押してくれる気がする不思議な曲。ただ今、私の応援歌です。
もしかしたら私みたいに、思わず口ずさんでいる方が日本中にたくさんおられるのかも。歌う人の数だけ、それぞれの「ファイト!」があるんだろうな。そんなことを思うこのごろです。
コロナがあっても、なくても、大変な時代を生きている私たち。そんな今、世の中に向かって、自分に向かって、渾身の思いで叫びたい。
ファイト!
下記に満島ひかりさん歌唱の動画のリンクを貼っております。ぜひご覧ください。
べネシアさんのこと2
素敵な女性
2020年11月11日
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先月のことになりますが、岐阜県在住の女性から、店に一通のメールが届きました。
アメーバブログをされているとのこと。そこでベニシアさんのことを紹介しようと検索していて、偶然に私のブログを見つけられたようです。
ベニシアさんというのはイギリス出身で、今は京都大原にお住いのハーブ研究家。素敵なライフスタイルでマスコミでも有名な女性です。去年、私がその展覧会に出かけた際の感動をブログに書いていたのでした。(ブログベニシアさんのこと)
岐阜の女性、ありがたくも私のその文章を気に入ってくださったそうで、ご自身のブログの中に、私のブログのリンクを貼られたもよう。メールはその報告と、事後承諾になったことのお詫びでした。
さっそくその方のブログを覗いてみると、とても素敵な文章で。こちらこそ光栄なことと返信させていただきました。
改めて自分のブログも覗いてみると、昨年9月のものでした。自分で書いていながら、案外忘れているもの。一年前はこんなことを思っていたんだぁ、なんて懐かしく読み返した次第です。
そのブログの中でべネシアさんのこんな詩を引用していました。
日本の女性はとても賢い。
疲れていても、悲しくても、いつも微笑み、笑っているから。
私は、日本の女性から「和」と「柔」という英知を学びました。
日本女性を言い得て妙な表現だなぁと改めて感心しながら、そのあとに続く一節に驚いてしまいました。
子供の頃は、人生の意味についてよく考えました。
どうして私たちは生きているのか。
ある日、その答えに気づきました。「幸せになるため」だと。
実は私、同じことに気づいたばかりだったのです!
そんな折も折、舞い込んできたメールに導かれ、ベニシアさんのこの詩にまた巡り会うなんて…。シンクロニシティというのでしょうか。とても不思議な気がしました。
それにしても、生きているのは幸せになるため、なんて…。どうして今まで気づかなかったのか、と思うくらい当たり前の答えです。不幸になるために生きている人など、多分いないはずですから。
子供の頃に気づかれたべネシアさんとは大違い。私はずいぶん時間がかかってしまいました。その分、気づけた爽快感はひとしおです。
誰しもそうだと思いますが、楽しいことばかりの毎日というわけにはいきません。時には泣きたい思いの帰り道も…。
そんな日も探せば一つくらい、いいことがあるものです。見上げた夜空に綺麗な月を見つけたとか。せめてもの慰めに買った成城石井のあんみつが、思いのほか美味しかったとか(笑)。
それだけのことで、ささやかでも幸せな気持ちになっている自分に、「うん、うん、その調子!」なんて声を掛けるこのごろです。
詩はこう締めくくられています。
物事をどう見るかで、幸せは決まります。
知恵と優しさと笑いの心を持って、人生を受け入れましょう。
「幸せ」は、自分が決めること。
Listen to your heart
自分の心の声に耳を傾けて
改めて、心に響くべネシアさんからのメッセージです。
思いはいろいろなところで、いろいろな形でつながっている…。そんなことを思わせられた今回の出来事。メールをくださった女性には心から感謝です。
これからもいろいろな思いをブログに綴っていこうと思います。引き続きお付き合いのほどよろしくお願いします。
H先生のこと
店のこと
2020年10月07日
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開店前、ホームページが必須と聞き、自作サイトで作成し。そこにはブログが必須と聞き、日々のことを数行ずつ書き始め(ブログ雪の寺町)。そうして始まったこのブログも、店と共に8年半になりました。
今は月に一度がやっとのペースですが、その時々の思いを綴りながら、心を整理し、時に奮い立たせる場として、私にとってもなくてはならないものになりました。
ブログを読んでくださっている方から、時々「文章がお上手ですね」と声を掛けていただくことがあります。ほめてもらっていて恐縮なのですが、この言葉を聞くと、ある方の苦虫をかみつぶしたような顔が浮かび、「まだまだやなぁ」と心の中で苦笑いしてしまいます。といいますのも…。
店を始める数年前、もともと書くことが好きだった私は、カルチャースクールの文章教室に通った経験があります。
先生はかつて織田作之助賞を受賞されたという元作家さん。かなりご高齢の男性でしたが、がっしりした体格で、声に張りがあり、教壇に立たれただけで凄みのようなものを感じさせる方でした。
別途費用は掛かりますが、自分の書いたものをご自宅に送ると、翌週の講義の時に皆の前でざっと講評し、添削された原稿を返してくださる。そういう特典がありました。
せっかくの機会と、早速、書き溜めていたものを送ってみました。旅先でのエピソードを綴ったエッセイだったかと記憶します。これがとてもほめてもらえました。「文章がうまい!」を連発して。
すっかり気をよくした私は、せっせと書いては送るようになりました。ところが、2回目以降は酷評続き。その内容がなんとも悲惨で。他の生徒さんたちの、私への同情の視線がいたたまれず、いつからか教室の最後列に座るようになったくらいです。
指摘された点を自分なりに改良して次作を提出するも、さっぱり伝わらずまた酷評。いっそ全く違った文体にしてみたらどうかと、決死の思いでチャレンジするも、「なにを考えているんだろうね」とさらに酷評。あの手この手を尽くすも、上達するどころか深みにはまっていくばかり。
生徒さんは長く通っておられる方が多く、終了後、有志で近くのお寿司屋さんで昼食をとるのが恒例でした。くつろいだ雰囲気の中で、講義中には聞けない話を伺えることもあり、少しでもヒントを得られたらと、私も時々参加しました。
ある日、思い切って先生の近くの席に座った時、こんな言葉を掛けられました。
「自分は文章がうまいと思っているだろう? あなたはもっと下手な文章を書きなさい。かっこなんかつけないで、心を裸にして、もっと思いをぶつけて書きなさい」
文章がうまいと思っていたら、習いになんか来ない。かっこなんかつけていないし、本当は隠しておきたいような恥ずかしいことだって正直に書いているじゃないか。なぜそれを汲んでくれない?
心の中で反論するも、伝わらないのは自分の文章力が足りないからだと、言葉を飲み込みました。
いつか先生をぎゃふんと言わせてやる。その思いで書き続けましたが、結果はいつも同じ。女性特有のテーマや、ちょっと変わった私の感性…。そうしたものが、先生には生理的に受け容れられないんだ。なんて悔しまぎれに思ったり。
そのうち、なにか書こうとすると、またなんて酷評されるだろうと気持ちが萎縮し、筆が進まなくなってきました。ここにいては書けなくなってしまう。そう判断し、教室をやめる決意をしました。
いよいよ最後の講義の日。昼食会にも参加し、お開きになり帰りかけられている先生に近寄り、今日でやめる旨を伝えました。すると先生は「あっ、そう」とだけ言うと、踵を返して歩いて行ってしまわれました。お礼の言葉を言う間もなく…。
「これからもがんばって書き続けなさい」みたいな言葉を、最後に掛けてもらえるかと期待していた私は、お寿司屋さんの長い廊下をゆっくり歩いて行かれる先生のうしろ姿を、ただ呆然と見送るしかありませんでした。
先生は、私が未練を残さないように冷たくしてくださったんだ。そう前向きに解釈し(笑)、2年ほどの教室通いは終了しました。
その後も書いていたのか、書かなくなってしまったのか、記憶は定かでありません。が、期せずして、こうしてブログを書くことになりました。
ブログに向かう時、先生が講義中に口を酸っぱくして仰っていた言葉を思い出している自分に気づき、ハッとすることがあります。
絵文字なんてものは言葉じゃない。自分の思いは言葉を使って徹底的に書け。
タイトルを決めたら、それに向かってブレることなく一心に書け。迷ったらタイトルに返れ。
読者を置き去りにしてはいけない。読者の立場になって読者が理解できるように書け。
そんな言葉のあれこれが、その時の先生の声音(こわね)と共に今でも思い出されます。思わず知らず、それを指標にしながら、書いて、消して、また書いている私…。
苦言を呈してくださる方の存在もまた大切であるということ。辛い経験もいつか身になる時が来るということ。酸いも甘いも噛み分けて、人生は深みを増していくんだなぁ。なんて思うこのごろ。それだけ年齢を重ねたということでしょうか。
あの時すでにご高齢で、体調もすぐれないご様子だった先生。お元気でいらっしゃるでしょうか。LINEのスタンプ一つで気持ちを表現する今のご時世を、先生はなんて思われていることやら。
先生の仰っていた「下手な文章」ってどういうものだったんだろう…。
形にとらわれない、思いを素直に表現しただけの文章でしょうか。
幼子のたどたどしい言葉が、驚くほど胸に迫ることがあります。言葉を駆使するよりも、もっと大切なこと…。
う~ん、私はやっぱりまだまだだ。
先生の添削はもう叶いませんが、教えを思い出しながら、これからも私なりに書いていきたいと思います。引き続きお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。
糸
店のこと
2020年09月06日

異例づくめの夏が終わりました。
例年ですと、お盆のひとの往来が一段落し、大文字の送り火も無事終わったところで、少し遅れた夏休みを5~6日いただくのが常でした。それが今年はお盆の賑わいもないままに、11日間という長い休みをいただき、大変ご迷惑をお掛けしました。
自分でもずいぶん思い切ったことをしたものだと思います。やはりコロナ禍の影響が大きかったでしょうか。未知の困難と、もともと抱えている潜在的な困難。そうしたものが相まって、かつてない混乱と疲労を感じていました。
店内の点検整備も兼ね、とお伝えしていましたが、大掛かりなことをしたわけではありません。普段なかなかできない整理…。店内はもちろんのこと、もっと広い意味で店にまつわるあれこれ。自宅や、自分自身も含めた、ソフト面、ハード面、いろんな整理をしたい。そんな思いがいつからか沸々と湧いていました。
緊急事態宣言中も営業していたからという言い訳や、休業に対する世の中の風潮が寛容になったことも後押しとなり、決断した次第です。
さて、その夏休み…。
せっかくの機会、遠方の友達との旅行や会食も話にのぼりましたが、時期が時期、県をまたぐ移動はやはり自粛することに。
今回は仕事関係以外は敢えて約束を入れず、自分のペースで気持ちの赴くままに行動することにしました。普段、仕事中心で動いている身には、これだけで充分に贅沢な気分です。
まずは普段手のまわらない自宅の片づけから。恥ずかしながら、冬物のセーターが放置されたままでして。シーツなどの大物から小物まで、毎日毎日、洗って洗って、乾して乾して。強烈な日差しも、この時ばかりはありがたく思えました。
家の片づけが一段落すると、今度は店の片づけに出かけ。その合間に自分のメンテナンス。いつも通っているフィットネススタジオも、ふだん参加できないクラスに参加できます。
ステイホームでコロナ太りしたとよく聞きますが、私は逆にコロナやつれ。知らぬ間に体重が落ちていました。5歳は老けたでしょうか。この間、自分の手料理をしっかり食べて、たっぷり睡眠。みるみる体重は回復し、顔ももとのまん丸に戻りました。失った5歳も取り戻せたもようです。たぶん…(笑)。
物が整理されると心も整理される、とはよく聞きますが、そう簡単なものではないようで。長い休みも残り少なくなると、今度は寂しさと焦りが頭をもたげ始めます。仕事の初日、体が動かないんじゃないかという不安がよぎったり。
いよいよ、自由に使えるのは今日が最後という日。気づけば、のんびりする時間はあったものの、遊びらしい遊びを一つも入れていなかったことに気づきました。そこで前から観たいと思っていた映画に行くことに。
このブログでも何度か書いている中島みゆきさん(ブログ誕生)(ブログ時代)。彼女の数ある名曲の一つで、私も大好きな「糸」が映画化され、気になっていました。
久しぶりの映画館。やっぱりいいですねぇ。3密の心配は全くなく、ドリンクホルダーの右にホットコーヒー。左にペットボトルを置いて、飛行機ならビジネスクラスに乗った気分。って、乗ったことありませんが(笑)。
いよいよ始まるや、スタートからマスクを取っては涙を拭き、の繰り返しでした。架空の人物をこんなにドキドキしながら応援したのは初めてかもしれません。
運命ははじめから決まっているんだと言う人がいます。だとしたら「糸」の歌の通り、会うべき糸も用意されているのでしょう。
ただ、その糸に出逢えるか、出逢えないか。それは、そのひとの思いの強さに左右されるように思います。だから、運命は変えられるんだという人もあり。
私も会うべき糸に出逢いたい。そう強く思いました。会うべき人に出逢い、会うべき経験に出逢い、会うべき光景に出逢いたい。そのためには強い思いを持ち続けること。
夏休みの宿題が、なんとか間に合ったような…。
思えばコロナ禍以来、ずっと感情が停滞していました。笑いたいことは確かにあんまりないけれど、泣きたいことは山ほどあるはず。なのに、泣けもしない。
きっと、感情が動くとしんどくなってしまうことを恐れ、センサーがエコモードになっているのでしょう。でもそれはそれでしんどいもの。今回、やっと感情が大きく動き、涙と共に放出することができました。そんな爽快感も含めての感動だったかもしれません。
やっぱり映画って素晴らしい!
思い出らしい思い出のない夏でしたが、「糸」という映画を観て泣いたことを、心に留めておきたいと思います。
長らくのお休みをいただきましたこと、改めましてありがとうございました。