べネシアさんのこと2

素敵な女性

2020年11月11日

べネシアさんのこと2

先月のことになりますが、岐阜県在住の女性から、店に一通のメールが届きました。

アメーバブログをされているとのこと。そこでベニシアさんのことを紹介しようと検索していて、偶然に私のブログを見つけられたようです。

ベニシアさんというのはイギリス出身で、今は京都大原にお住いのハーブ研究家。素敵なライフスタイルでマスコミでも有名な女性です。去年、私がその展覧会に出かけた際の感動をブログに書いていたのでした。(ブログベニシアさんのこと

岐阜の女性、ありがたくも私のその文章を気に入ってくださったそうで、ご自身のブログの中に、私のブログのリンクを貼られたもよう。メールはその報告と、事後承諾になったことのお詫びでした。

さっそくその方のブログを覗いてみると、とても素敵な文章で。こちらこそ光栄なことと返信させていただきました。

改めて自分のブログも覗いてみると、昨年9月のものでした。自分で書いていながら、案外忘れているもの。一年前はこんなことを思っていたんだぁ、なんて懐かしく読み返した次第です。

そのブログの中でべネシアさんのこんな詩を引用していました。

 

日本の女性はとても賢い。

疲れていても、悲しくても、いつも微笑み、笑っているから。

私は、日本の女性から「和」と「柔」という英知を学びました。

 

 日本女性を言い得て妙な表現だなぁと改めて感心しながら、そのあとに続く一節に驚いてしまいました。

 

子供の頃は、人生の意味についてよく考えました。

どうして私たちは生きているのか。

ある日、その答えに気づきました。「幸せになるため」だと。

 

実は私、同じことに気づいたばかりだったのです!

そんな折も折、舞い込んできたメールに導かれ、ベニシアさんのこの詩にまた巡り会うなんて…。シンクロニシティというのでしょうか。とても不思議な気がしました。

それにしても、生きているのは幸せになるため、なんて…。どうして今まで気づかなかったのか、と思うくらい当たり前の答えです。不幸になるために生きている人など、多分いないはずですから。

子供の頃に気づかれたべネシアさんとは大違い。私はずいぶん時間がかかってしまいました。その分、気づけた爽快感はひとしおです。

誰しもそうだと思いますが、楽しいことばかりの毎日というわけにはいきません。時には泣きたい思いの帰り道も…。

そんな日も探せば一つくらい、いいことがあるものです。見上げた夜空に綺麗な月を見つけたとか。せめてもの慰めに買った成城石井のあんみつが、思いのほか美味しかったとか(笑)。

それだけのことで、ささやかでも幸せな気持ちになっている自分に、「うん、うん、その調子!」なんて声を掛けるこのごろです。

詩はこう締めくくられています。

 

物事をどう見るかで、幸せは決まります。

知恵と優しさと笑いの心を持って、人生を受け入れましょう。

 

「幸せ」は、自分が決めること。

 

Listen to your heart

自分の心の声に耳を傾けて

 

改めて、心に響くべネシアさんからのメッセージです。

思いはいろいろなところで、いろいろな形でつながっている…。そんなことを思わせられた今回の出来事。メールをくださった女性には心から感謝です。

これからもいろいろな思いをブログに綴っていこうと思います。引き続きお付き合いのほどよろしくお願いします。

H先生のこと

店のこと

2020年10月07日

H先生のこと

開店前、ホームページが必須と聞き、自作サイトで作成し。そこにはブログが必須と聞き、日々のことを数行ずつ書き始め(ブログ雪の寺町)。そうして始まったこのブログも、店と共に8年半になりました。

今は月に一度がやっとのペースですが、その時々の思いを綴りながら、心を整理し、時に奮い立たせる場として、私にとってもなくてはならないものになりました。

ブログを読んでくださっている方から、時々「文章がお上手ですね」と声を掛けていただくことがあります。ほめてもらっていて恐縮なのですが、この言葉を聞くと、ある方の苦虫をかみつぶしたような顔が浮かび、「まだまだやなぁ」と心の中で苦笑いしてしまいます。といいますのも…。

店を始める数年前、もともと書くことが好きだった私は、カルチャースクールの文章教室に通った経験があります。

先生はかつて織田作之助賞を受賞されたという元作家さん。かなりご高齢の男性でしたが、がっしりした体格で、声に張りがあり、教壇に立たれただけで凄みのようなものを感じさせる方でした。

別途費用は掛かりますが、自分の書いたものをご自宅に送ると、翌週の講義の時に皆の前でざっと講評し、添削された原稿を返してくださる。そういう特典がありました。

せっかくの機会と、早速、書き溜めていたものを送ってみました。旅先でのエピソードを綴ったエッセイだったかと記憶します。これがとてもほめてもらえました。「文章がうまい!」を連発して。

すっかり気をよくした私は、せっせと書いては送るようになりました。ところが、2回目以降は酷評続き。その内容がなんとも悲惨で。他の生徒さんたちの、私への同情の視線がいたたまれず、いつからか教室の最後列に座るようになったくらいです。

指摘された点を自分なりに改良して次作を提出するも、さっぱり伝わらずまた酷評。いっそ全く違った文体にしてみたらどうかと、決死の思いでチャレンジするも、「なにを考えているんだろうね」とさらに酷評。あの手この手を尽くすも、上達するどころか深みにはまっていくばかり。

生徒さんは長く通っておられる方が多く、終了後、有志で近くのお寿司屋さんで昼食をとるのが恒例でした。くつろいだ雰囲気の中で、講義中には聞けない話を伺えることもあり、少しでもヒントを得られたらと、私も時々参加しました。

ある日、思い切って先生の近くの席に座った時、こんな言葉を掛けられました。

「自分は文章がうまいと思っているだろう? あなたはもっと下手な文章を書きなさい。かっこなんかつけないで、心を裸にして、もっと思いをぶつけて書きなさい」

文章がうまいと思っていたら、習いになんか来ない。かっこなんかつけていないし、本当は隠しておきたいような恥ずかしいことだって正直に書いているじゃないか。なぜそれを汲んでくれない?

心の中で反論するも、伝わらないのは自分の文章力が足りないからだと、言葉を飲み込みました。

いつか先生をぎゃふんと言わせてやる。その思いで書き続けましたが、結果はいつも同じ。女性特有のテーマや、ちょっと変わった私の感性…。そうしたものが、先生には生理的に受け容れられないんだ。なんて悔しまぎれに思ったり。

そのうち、なにか書こうとすると、またなんて酷評されるだろうと気持ちが萎縮し、筆が進まなくなってきました。ここにいては書けなくなってしまう。そう判断し、教室をやめる決意をしました。

いよいよ最後の講義の日。昼食会にも参加し、お開きになり帰りかけられている先生に近寄り、今日でやめる旨を伝えました。すると先生は「あっ、そう」とだけ言うと、踵を返して歩いて行ってしまわれました。お礼の言葉を言う間もなく…。

「これからもがんばって書き続けなさい」みたいな言葉を、最後に掛けてもらえるかと期待していた私は、お寿司屋さんの長い廊下をゆっくり歩いて行かれる先生のうしろ姿を、ただ呆然と見送るしかありませんでした

先生は、私が未練を残さないように冷たくしてくださったんだ。そう前向きに解釈し(笑)、2年ほどの教室通いは終了しました。

その後も書いていたのか、書かなくなってしまったのか、記憶は定かでありません。が、期せずして、こうしてブログを書くことになりました。

ブログに向かう時、先生が講義中に口を酸っぱくして仰っていた言葉を思い出している自分に気づき、ハッとすることがあります。

絵文字なんてものは言葉じゃない。自分の思いは言葉を使って徹底的に書け。

タイトルを決めたら、それに向かってブレることなく一心に書け。迷ったらタイトルに返れ。

読者を置き去りにしてはいけない。読者の立場になって読者が理解できるように書け。

そんな言葉のあれこれが、その時の先生の声音(こわね)と共に今でも思い出されます。思わず知らず、それを指標にしながら、書いて、消して、また書いている私…。

苦言を呈してくださる方の存在もまた大切であるということ。辛い経験もいつか身になる時が来るということ。酸いも甘いも噛み分けて、人生は深みを増していくんだなぁ。なんて思うこのごろ。それだけ年齢を重ねたということでしょうか。

あの時すでにご高齢で、体調もすぐれないご様子だった先生。お元気でいらっしゃるでしょうか。LINEのスタンプ一つで気持ちを表現する今のご時世を、先生はなんて思われていることやら。

先生の仰っていた「下手な文章」ってどういうものだったんだろう…。

形にとらわれない、思いを素直に表現しただけの文章でしょうか。

幼子のたどたどしい言葉が、驚くほど胸に迫ることがあります。言葉を駆使するよりも、もっと大切なこと…。

う~ん、私はやっぱりまだまだだ。

先生の添削はもう叶いませんが、教えを思い出しながら、これからも私なりに書いていきたいと思います。引き続きお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。

店のこと

2020年09月06日

糸

異例づくめの夏が終わりました。

例年ですと、お盆のひとの往来が一段落し、大文字の送り火も無事終わったところで、少し遅れた夏休みを5~6日いただくのが常でした。それが今年はお盆の賑わいもないままに、11日間という長い休みをいただき、大変ご迷惑をお掛けしました。

自分でもずいぶん思い切ったことをしたものだと思います。やはりコロナ禍の影響が大きかったでしょうか。未知の困難と、もともと抱えている潜在的な困難。そうしたものが相まって、かつてない混乱と疲労を感じていました。

店内の点検整備も兼ね、とお伝えしていましたが、大掛かりなことをしたわけではありません。普段なかなかできない整理…。店内はもちろんのこと、もっと広い意味で店にまつわるあれこれ。自宅や、自分自身も含めた、ソフト面、ハード面、いろんな整理をしたい。そんな思いがいつからか沸々と湧いていました。

緊急事態宣言中も営業していたからという言い訳や、休業に対する世の中の風潮が寛容になったことも後押しとなり、決断した次第です。

さて、その夏休み…。

せっかくの機会、遠方の友達との旅行や会食も話にのぼりましたが、時期が時期、県をまたぐ移動はやはり自粛することに。

今回は仕事関係以外は敢えて約束を入れず、自分のペースで気持ちの赴くままに行動することにしました。普段、仕事中心で動いている身には、これだけで充分に贅沢な気分です。

まずは普段手のまわらない自宅の片づけから。恥ずかしながら、冬物のセーターが放置されたままでして。シーツなどの大物から小物まで、毎日毎日、洗って洗って、乾して乾して。強烈な日差しも、この時ばかりはありがたく思えました。

家の片づけが一段落すると、今度は店の片づけに出かけ。その合間に自分のメンテナンス。いつも通っているフィットネススタジオも、ふだん参加できないクラスに参加できます。

ステイホームでコロナ太りしたとよく聞きますが、私は逆にコロナやつれ。知らぬ間に体重が落ちていました。5歳は老けたでしょうか。この間、自分の手料理をしっかり食べて、たっぷり睡眠。みるみる体重は回復し、顔ももとのまん丸に戻りました。失った5歳も取り戻せたもようです。たぶん…(笑)。

物が整理されると心も整理される、とはよく聞きますが、そう簡単なものではないようで。長い休みも残り少なくなると、今度は寂しさと焦りが頭をもたげ始めます。仕事の初日、体が動かないんじゃないかという不安がよぎったり。

いよいよ、自由に使えるのは今日が最後という日。気づけば、のんびりする時間はあったものの、遊びらしい遊びを一つも入れていなかったことに気づきました。そこで前から観たいと思っていた映画に行くことに。

このブログでも何度か書いている中島みゆきさん(ブログ誕生)(ブログ時代)。彼女の数ある名曲の一つで、私も大好きな「糸」が映画化され、気になっていました。

久しぶりの映画館。やっぱりいいですねぇ。3密の心配は全くなく、ドリンクホルダーの右にホットコーヒー。左にペットボトルを置いて、飛行機ならビジネスクラスに乗った気分。って、乗ったことありませんが(笑)。

いよいよ始まるや、スタートからマスクを取っては涙を拭き、の繰り返しでした。架空の人物をこんなにドキドキしながら応援したのは初めてかもしれません。

運命ははじめから決まっているんだと言う人がいます。だとしたら「糸」の歌の通り、会うべき糸も用意されているのでしょう。

ただ、その糸に出逢えるか、出逢えないか。それは、そのひとの思いの強さに左右されるように思います。だから、運命は変えられるんだという人もあり。

私も会うべき糸に出逢いたい。そう強く思いました。会うべき人に出逢い、会うべき経験に出逢い、会うべき光景に出逢いたい。そのためには強い思いを持ち続けること。

夏休みの宿題が、なんとか間に合ったような…。

思えばコロナ禍以来、ずっと感情が停滞していました。笑いたいことは確かにあんまりないけれど、泣きたいことは山ほどあるはず。なのに、泣けもしない。

きっと、感情が動くとしんどくなってしまうことを恐れ、センサーがエコモードになっているのでしょう。でもそれはそれでしんどいもの。今回、やっと感情が大きく動き、涙と共に放出することができました。そんな爽快感も含めての感動だったかもしれません。

やっぱり映画って素晴らしい!

思い出らしい思い出のない夏でしたが、「糸」という映画を観て泣いたことを、心に留めておきたいと思います。

長らくのお休みをいただきましたこと、改めましてありがとうございました。

八日目の蝉 2

アートなこと

2020年08月09日

八日目の蝉

蝉のけたたましい鳴き声を聞く季節になりました。この鳴き声を聞くと、毎年、思い出す言葉があります。「八日目の蝉」。

5年前のブログにも書きましたが、角田光代さんの小説のタイトルです。永作博美さんと井上真央さんの共演で映画化され、そちらでご覧になった方も多いのではないでしょうか(ブログ八日目の蝉

不倫相手の赤ちゃんを不本意にも堕胎した女性が、時を同じくして出産した本妻の赤ちゃんを衝動的に誘拐。自分の子供として育てるも数年で発覚。本来の両親のもとに戻された子どもは、なにもなかったように普通の生活に戻れるはずもなく…。

成長したその女の子が、通常ではありえない経験をした自分の境遇を、蝉になぞらえ語ります。みんな七日で死んでいくなか、八日目まで生きる蝉がいたら悲しい、と。

それを聞いた、同じく不遇な環境で育った女性が答えます。八日目の蝉はほかの蝉が見られなかった世界を見られる。それはとても綺麗なものかもしれない、と。

印象深いシーンです。

八日目の蝉…。前回のブログでは、「ほぼ専業主婦」から突然、商売をすることになった自分の身に置き換えて書いていました。

今年、新型コロナウィルスという得体のしれない疫病のまん延に、これまで経験したことのない不自由な生活が続いています。いつまで続くのか。この先どうなるのか。いまや世界中の誰もが八日目の蝉のようです。

対岸の火事と思っていた災難が、あっという間に我が身に降りかかり…。当初は世の中のあまりの急変に現実感がなく、悪い夢でも見ているような感覚でした(ブログ新型コロナウィルスのこと)。

それも半年以上が過ぎ、これが紛れもない現実。かつての日々の方が長い長い夢だったんじゃないか。そんな気がするようになりました。以前の日常のひとコマひとコマが、折に触れ、日めくりカレンダーのように思い出されます。なんでもないはずの風景が、どれもキラキラとして見えます。

そんな行きつ戻りつの思いに揺れながら、今、このコロナ禍を生きていかねばなりません。前例もモデルもない、先の見えないなかを、どう生きていけばいいのか。人として、商売をする者として…。

日々、考え。考えても考えても、なにが正解かわからず。また考え…。そんな毎日が続きます(ブログ少しだけいつもと違う景色)。

収束にはまだ数年かかるという説も。収束したとして、もはや元の世界に戻ることはないでしょう。その先は一体どんな世界が待っているのか。誰もわかりません。

ただ、映画の中のセリフのように、それはとても綺麗な世界なんじゃないか。こんな苦難を経験した先にある世界が、綺麗なものでないわけがない。私は根拠なくそう信じています。

そして、そこに私は私の綺麗な世界を重ね合わせたい、と。

いくら考えても正解なんて見つけられないのかもしれない。自分の思う綺麗な世界をただ求めること。それこそが正解へ続く道なんじゃないか。

閉塞感も限界を超えたのでしょうか。そんな思いが兆し始めました

八日目は、ただの残りの一日ではなく、七日間の積み重ねが見事に花開く一日。八日目の蝉になって、私はそれを見届けたい。そこで、なりたかった本当の自分に出会いたい。

う~ん、壮大なテーマ、なかなか大変です。がんばらねば(汗、笑)。

第二波が深刻な状況です。皆様、くれぐれもご用心のうえお過ごしください。

少しだけいつもと違う景色

店のこと

2020年07月06日

少しだけいつもと違う景色

月に一度は必ず! と決めていたこのブログ。開店以来ずっと守ってきたのですが、6月は書けないまま終わってしまいました。申し訳ありません。

新型コロナウィルス騒動のさなかは、言い知れぬ不安や恐怖の毎日でした。けれど、誰もが大変なんだと自分に言い聞かせて、辛うじてやり過ごすことができたように思います。

終息を見ないながらも緊急事態宣言が解除され、再び暮らしが動き始めました。

今、コロナ禍を語る人の話を聞くと、その内情は実にさまざまだったことに気付かされます。生活を保障されていた人から、廃業や失業に追い込まれた人。ステイホームで家族の絆が強くなったという人から、DVの恐怖に怯えていた人…。

それぞれに大変さはありながらも、その差はあまりに大きい。人の数だけコロナ禍があることを、心に留めておかなければいけないなぁと思います。

「新たな日常」という掛け声のもとリスタートした暮らしもまた、家庭環境や職場環境によってさまざま。その中で、自分で考え、自分で決定し、自分で行動していく。そういうスタイルが求められる時代に入ったと感じます。

そんな手探りの生活のなか、いち早く順応できる人もあれば、戸惑いの中にいる人もあるのではないでしょうか。もともとあった格差が広がるのではと懸念されます。

かくいう私も、戸惑いの中にいる一人です。この難局を乗り切るには、多くの能力や行動力が必要だなぁと、ため息をつきながら、哲学者のように考え事ばかり。もうすぐ石膏像になってしまうんじゃないかと思うくらいです。石膏像になる前に動けよ、って話ですが(笑)。

コロナ禍のさなかは考える余地もなく、我慢するしかないとこらえていたしんどさが、今頃になって出てきたように感じます。

気づけば、もう何ヶ月も移動は自宅と店の往復だけ。目にするのは同じ景色ばかりのうえに、空や月を見上げることも、うつむいてばかりで忘れがち。

これじゃあいけないと、6月の半ば。久しぶりに仕事帰りに近くのカフェに立ち寄ってみました。

再開したばかりなのでしょうか、いつもは満席の店も客はまばら。入り口近くの窓際の席に座ると、夜風が心地いいこと。正面の本棚に、敬愛する女性の一人、白洲正子さんの著書を見つけ拾い読み。

窓からの眺め、店内のしつらえ、本の中の素敵な写真…。なんということもないものばかりなのに、普段と違うというだけで、とても新鮮に目に映りました。

同じ景色ばかり見ているということは、それだけで結構しんどいものなのかもしれません。五感はどれも大切だけれど、目からの情報はやはり大きいもののようです。

旅にでも出て、どこかの絶景を眺められたら最高でしょうが、決してそうでなくていい。身近にある、自分が心地いいと思える場所から見える、少しだけいつもと違う景色。そういうものをまめに自分に見せてやることは、とても大切なこと…。

脳も心身もリフレッシュしていくのを感じながら、そんなことを思ったひとときでした。

まだまだ考え事の日々は続きそうです。そんな合間に、少しだけいつもと違う景色をはさみながら、乗り切っていきたい。そんなことを思うこのごろです。

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