イリーナ・メジューエワさんのこと3

アートなこと

2016年10月05日

先月のこと、ロシアのピアニスト、イリーナ・メジューエワさんのリサイタルに出かけてきました。イリーナさんのことは、このブログでも何度か書いていますが、「しののめ寺町」開店当初からご贔屓いただいている、素敵なお客様のお一人です(ブログイリーナ・メジューエワさんのこと)。

クラッシックには興味のなかった私ですが、イリーナさんのピアノは特別。そのときどきに新鮮な感覚が湧き起こり、演奏はもとより、そうした自分の反応をいつもおもしろく思っています。4度目になる今回はどんな自分に出会えるか、ワクワクしながら出かけて行きました。

今回のプログラムはショパン。といって、私に解説ができるわけはありませんが(汗)。これまでは華奢な姿からは想像できない力強い演奏が印象的でしたが、今回はイリーナさんらしい可憐なイメージが際立っていたような。あくまでも個人の感想ですが(笑)。

心で感じたことが、映像となって頭に浮かぶという変な性癖(?)のある私。前々回のリサイタルでは、固かった大地が耕され、その下から現れた柔らかい土に雨が沁み込む絵が浮かびました。その時のブログでは、英語で文化(culture)と農業(agriculture)に同じ文字が含まれることが腑に落ちた。なんてことを書きました(ブログイリーナ・メジューエワさんのこと2)。

今回もまた、柔らかく耕された土に、雨が深く沁みこむ絵が浮かびました。折しも雨続きの日々。雨音を聞き慣れた耳に、ピアノの音色が心地よく重なるようでした。

もう何年前になるでしょうか。まだ店を始める前、といってそう遠い昔ではないころ…。感情があまり動かない時期がありました。感情が動くとしんどくなってしまうのか、防御反応として感情のセンサーがスイッチを切ってしまったようでした。知人の葬儀でさめざめと泣く友人たちに交じり、涙ひとつ出なかった私のばつが悪かったこと…。

そのころ目の前にあった映像はというと、乾燥しきって固くひび割れた土、ところどころ割れ目から伸びるわずかばかりの草…。ただただ広がる荒野の絵でした。感情など持っていたら、とてもじゃないけれど、このなかを進んで行くことはできない。呆然としながらも、妙な覚悟を決めて眺めている自分がいました。

開店を機に、たくさんの方に出会い、たくさんの経験をしてきました。気づけば固かった土はほぐれ、果てしないばかりだった荒野は、緑生い茂る沃土に。今や、うれしいにつけ、悲しいにつけ、ところ構わず泣いてしまう私。感情のセンサーはフル稼働です。

喜怒哀楽を感じることは、案外、体力気力の要るものです。ましてや悲しさやさみしさを感じるのは、ただでさえ辛いこと。それでも、うれしいことはうれしいと、悲しいことは悲しいと感じられるのは、それだけで素晴らしいことなのだと、今、思います。

あらゆる感情を受け止められる、柔らかで豊かな土壌を持った私でありたい。

今回、演奏のなかでポロン、と一音を奏でられることが何度かありました。その一音のなんと美しかったこと。イリーナさんの人生と感性のすべてを込められたポロン。ほかの誰でもないイリーナさんのポロン。静まり返ったホールに余韻を残して消え入るポロン。渾身の一音。渾身の一滴。慈雨のように私の心に深く沁みこんでいきました。

この音のつながりがメロディーになり、曲になる。音楽の素養がないなどと構えることなく、この音を楽しめばいいのだと思いました。音を楽しむ…まさに「音楽」じゃないかと気づき、心の中でひとり手を打った次第です。

ピアノにも楽しげな音、悲しげな音があります。いろんな音色を味わうように、自分の中に湧き起こるいろんな感情も味わえたなら、どんなに素敵でしょう。ちょっと気の遠くなる境地ですが。

いつも私にインスパイアを与えてくださるイリーナさんのピアノ。出会えたことに改めて心からの感謝を(ブログペトロフピアノ)。

何必館の時間

アートなこと

2016年06月23日

店をやっていてよかったなぁと思うことはたくさんあります。一方で、大変だなぁと思うこともいくつか…。そのひとつが、止まれないこと。

たまには少し立ち止まりたいと思うことがあります。一旦、立ち止まって、いろんなことをゆっくり考えてみたい。そうして、いろんなことを整理してみたい。目に見えるものも、見えないものも。

あるいは、しばらくの間、なぁんにも考えないで過ごしてみたい。懸案事項をすべて棚上げにして、頭の中を空っぽにして、ぼぉ~っと一ヶ月、せめて二週間、いえ一週間…。そんなことをしきりに思うこのごろ。

現実は、店を始めたが最後、そんなことは言っていられません。よくよくわかっていながら、それでも頭をかすめる思い。それはそれで大切なサインなのかも。ダウンしてしまった昨年の夏を思い出し(ブログユルスナールの靴2)、自分の心身に注意を払うよう心がけているところです。

そんななか、月に一度の連休は、それはそれは楽しみな二日間です。どうやって過ごそうかと、早くからあれこれ考えます。まずは一ヶ月の間にたまった心と体の疲れを取ることが最優先。

次に、しなければいけないこと、したいことをピックアップ。挙げ出すときりがなく、とてもじゃないけれど二日間に収まりそうにありません。優先順位の上位いくつかを選び、段取りよくことが運ぶよう、時系列でメモに書き留めておくことが習慣になりました。

そうまでして立てた綿密なタイムスケジュールも、当日になって過密過ぎることに気づくことたびたびです。ああでもない、こうでもないと、組み換えたり、端折ったり。そんなことに要らぬ時間を費やしていたりして。まったくもって、なにをやってるんだか(笑)。

今月第二週の連休は、仕事がらみも含めて、いつにも増して過密なスケジュールになっていました。二日目の朝、どうにもこなせない自分に気づきました。その日の予定で、気持ちの向くもの、向かないもの、自分に問うてみることに。

当初は余裕があれば行きたいなぁ、くらいに思っていたことが筆頭に挙がりました。何必館・京都現代美術館で開催中の「サラ・ムーン展」。大好きな写真家の展覧会です。http://www.kahitsukan.or.jp/ 

もう十年以上前、初めて出かけたサラ・ムーンの展覧会でのこと。たまたまフロアに私一人。見るほどに怖くて、美しい彼女の写真。その中に思わず引き込まれそうな感覚に、鳥肌が立ったのを覚えています。

その日の予定の中から、この展覧会を一番に選んだことに、至極、納得する自分がいました。今日はのんびりモードに切り替え、自分がしたいと思うことだけをして過ごそう。そう決めました。

期待通りの展覧会に満足し、最後は最上階の坪庭前のソファで一息つくのが、何必館での私のお約束です。天窓から注ぐ光と風に、刻々と変わる木の陰影。祇園の真ん中とは思えない静寂の空間。自分の呼吸まで聞こえてくるようです。

あぁ、時間が止まってる…。

同じ時間でも、あっという間に思うこともあれば、長く感じることもあります。

時間はいつも刻々と流れているようで、実は時に早く、時にゆっくり、自在に、気まぐれに流れている。そう思うことがあります(ブログ休日)。何必館で過ごした時間は、まるで止まっているようでした。

毎日、忙しいのは間違いないけれど、自分が思うよりずっと時間は自由なものなのかもしれない。時間に枠をはめ、そこに自分を押し込んでいたのは、私自身ではなかったか。

楽しい時も、しんどい時も、そのときどきの時間を愛おしみながら過ごしていきたい。自分の心の声に耳を傾けながら…。それが、かけがえのない私の人生の最高の過ごし方。

風に揺らぐ影を眺めながら、そんなことを思ったひととき。わずかの時間でも、立ち止まれた気がしました。

 

ペトロフピアノ

アートなこと

2015年12月16日

先月のことになりますが、素敵なピアノリサイタルに出かけてきました。会場は今は廃校になった明倫小学校(現京都芸術センター)の講堂。建物に入った途端、油引きの廊下の匂いがして、たちまちノスタルジックな気分になりました。

ピアノはオーストリア・ハンガリー帝国時代にプラハで製造されたというペトロフ社の伝説のピアノ。篤志家から子供たちのために寄贈されたものの、その後、放置され傷みが激しかったとのこと。有志により修復され、かつての音色がよみがえったのを機にコンサートが開かれるようになったようです。

今回の演奏者はロシアのピアニスト、イリーナ・メジューエワさん。「しののめ寺町」開店当初より、日本人のご主人様と共にご贔屓いただいている素敵なお客様です。(ブログイリーナ・メジューエワさんのこと イリーナ・メジューエワさんのこと2)。

清楚で美しいイリーナさん。華奢な姿からは想像できない力強い演奏。彼女のリサイタルに出かけるのは3度目ですが、いつもながらその魅力にたちまち惹きこまれてしまいました。さらに今回は、時を超え、国を超え、出会ったピアノと演奏者と聴衆、そしてその場に私がいるということ…。不思議なストーリーにいつにない感動が加わりました。

人も物も、出会うべきものは出会うように用意されている。

演奏を聴きながら、そう思わずにいられなかった私。外は寒い寒い夜でしたが、温かな思いに包まれたひとときでした。

店を始めて以来、一日のほとんどを店で過ごしています。定休日とて遊びに出かけることもままならない状況。体は一つ、一日は24時間。正直、不自由だなぁと思うことも。

けれど毎日お客様と接し、いろいろなお話を伺うなかで、私はここに居ながらにして途方もない時間と距離を行き来しているんじゃないかと思うことがあります。

「しののめ寺町」のじゃこ山椒と塩昆布。店奥の厨房で自分たちで手作りするこれらの商品は、私たちにとって、もはやただの物ではありません。私たちの思いが込められています。こういう話、重かったら申し訳ありません(笑)。

日本各地からご来店くださるお客様が持ち帰られる土地。それぞれのご家庭の食卓、さまざまな集いの場。時には山登りのお供に連れられ、素晴らしい眺望の中に置かれることも(ブログ心の旅)。その先々に私たちの思いも一緒に出かけている気がしています。

その先は日本にとどまりません。私にはとうてい行けそうもない国々へ、海を越え、空を飛び、うちのおじゃこたちは出かけて行きます。そこはどんな気候、言語、文化の国でしょう。どんな器に入れられるのかと想像するだけで楽しくなります。

亡くなられた方が、うちのおじゃこが大好きだったからと、法事の粗供養に使っていただくことがあります。あの世で喜んでくださっているかなぁと想像しますが、そこはまだ私にはちょっと未知の世界です(笑)。

忘れられないエピソードもあります。幼子を残して亡くなられた女性。そのお友達が、成人した忘れ形見の娘さんを連れてご来店くださいました。「あなたたちのお母さんは手土産といえば、いつもこちらのおじゃこだったのよ」と涙ながらに語られたのには、私も思わずもらい泣き。その娘さんが後日、恋人の実家を初めて訪問する手土産にと、彼と一緒に来てくださったのには驚きました。何十年の時がつながった瞬間を見る思いでした。

一人の人生ではとうてい出会えない多くの方たちに、おじゃこを介して直接、間接に出会っている気がしています。ひとは不自由なようで、実はとても自由なのかもしれない。それに気づけるか気づけないか、その違いで人生の楽しみがずいぶん変わる気がします。

私は寺町のこの場所に立ちながら、自由に時空を駆け巡っていたい。

そんなことに気づくきっかけとなったリサイタル。ペトロフピアノとの出会いもやはり、出会うべくして出会うように用意されていたものだったかもしれません。

今年も残すところあと半月となりました。帰省の手土産を求めるお客様が多くご来店くださる年末。いつにも増して、私の心も西へ東へ飛び交う距離が伸びそうです(ブログふるさと)。

今年は30日(水)の定休日を返上、大晦日の午前まで営業です。たくさんの出会いを楽しみに、いつにも増して健康に留意しなければと思うこのごろです。

ユルスナールの靴 2

素敵な女性

2015年09月11日

9月に入り、めっきり涼しくなりました。今年の夏は例年にも増して厳しい暑さで、とても長かったように思うのですが、そんな日々ももう遠いことのよう。季節の移ろいは本当に早いものです。

前回のブログ八日目の蝉でも触れていますが、店を始めるまでは毎年ひどい夏バテに悩まされていました。店を始めるにあたって、夏、私の体力がもつかどうかが心配事の一つでしたが、お陰様で休むことなく続けてこられています。そんな自分に驚きながら、夏になると思い出すフレーズがあります。以前にも紹介しましたが(ブログユルスナールの靴)もう一度。

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いて行けるはずだ。そう心のどこかで思い続け、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。

                   須賀敦子 「ユルスナールの靴」

イタリア文学者でエッセイストの須賀敦子さん。残念ながらもう亡くなられましたが、美しい文体が魅力で、女性としても素敵だなあと思う作家さんです。なかでも、この一節に出会ったときは、ちょっとした衝撃でした。

当時「ほぼ専業主婦」だった私。自分を生かせる場所を探して、あれこれ出かけては、やっぱりここは私の居場所じゃないと、あとにして。そんなことを繰り返していました。私は自分を生かせるものなど持ち合わせていないのだと、どこかであきらめていたような。それでもやっぱり、あきらめ切れずに苛立っていたような。そんな思いを代弁してくれる一節だったのです。しかも「ユルスナールの靴」だなんて、洒落た表現で。

思いがけないことに店を開くことになり、気づくと、きっちり足に合った靴を履ている自分がいました。この靴ならどこまでも行けそうで、歩くのももどかしく、いつも前のめりの駆け足でここまで来たような気がします。

そうして今年の春、三周年を迎えました。三年も経てば落ち着くのかと思いきや、三年経ってようやくわかってくることばかり。見直しを迫られることが重なり、あれやこれやいつも考え事。ヒートアップした脳みそは熱く感じられるほどで、眠っていても余熱冷めやらず。疲れているはずなのに、少しの睡眠時間で目が覚めてしまう。そんな日が続いていました。

もともと要領が悪く、全力疾走しては倒れ込むタイプの私。がんばりどころと危険領域との境界がさっぱりわかりません。警告ランプでも点灯してくれたらいいのですが、そんなわけもなし。8月のお盆過ぎ、夏季休業に入るやダウンしてしまいました。

ユルスナールの靴でこけちゃった。

休み返上で後半戦に備える態勢でいたのですが、それどころでなく、近所の医院に通って点滴を受けては、自宅ベッドで昏々と眠り続ける5日間でした。こんなに眠れるものかと思うほど眠り続け、やがて脳みそもクールダウン。そうして思ったこと…。

元気な体さえあれば、なんとかなる。

気になることは数知れず、やるべきことも数知れず。けれど、それもこれも元気な体があってこそ。全部やり遂げたところで、ダウンしてしまったら元も子もない。困ったら誰かに助けを求めよう。至らないところは謝って許しを請おう。続けていくことが一番大事。そう思い知りました。

ダウンしたのは、こうでもしないと休まないだろうと思われた、神様からのドクターストップだった気がしてなりません。

やっと見つけたぴったりの靴。見つけられたことがうれしくて、夢中でここまできたけれど、これからは歩き方が大事だなぁと思います。どんなに素敵な靴も、寝込んでしまったら履くこともできないのだから。

時にゆっくり歩いてみたり、時にスキップしてみたり。私なりの歩き方を見つけていきたい。履くほどに足に馴染む靴のように、愛おしみながら、どこまでも一緒に歩いて行きたい。私のユルスナールの靴。

そんなことを思う秋の入口です。

八日目の蝉

アートなこと

2015年08月23日

日差しの強くなった七月から、通勤は日焼けを恐れて自転車から地下鉄に変更です。丸太町の駅で地上に出ると、たちまち、けたたましい蝉の鳴き声が。空からシャーシャーと降り注ぐような大音響のなか日傘を差して歩いていると、しきりに浮かぶ言葉があります。

八日目の蝉

角田光代さんの小説です。残念ながら原作は読んでいないのですが、何年か前に映画を観ました。印象的なタイトルと共に、感慨深いストーリーが今も心に残っています。

不倫相手の赤ちゃんを不本意ながら堕胎した女性が、時を同じくして出産した本妻の赤ちゃんを衝動的に誘拐。自分の子どもとして育てるも、数年で発覚。本来の両親の元に戻された子どもは、なにもなかったように普通の生活に戻れるはずもなく…。

成長したその女の子が、通常では有り得ない経験をした自分を蝉になぞらえ、同じく不遇な環境で育った女性に語ります。七日でみんな死んでしまうなか、一人だけ八日目まで生きる蝉がいたら悲しい、と。

相手の女性は答えます。八日目の蝉はほかの蝉には見られなかったものが見られる。それはすごく綺麗なものかもしれない、と。

小説家の着眼点のおもしろさに感心せずにはいられないワンシーンです。タイトルが決まると、作品はほぼ完成したも同じ、と聞いたことがあります。これはまさにそうだったのではないかと、素人ながらに思う一冊です。

店を始めるまでは、毎年ひどい夏バテに悩まされていました(ブログユルスナールの靴)。早朝から聞こえてくる元気極まりない蝉の鳴き声には、苛立たしささえ覚えたものです。それが、この映画を観てからは、渾身の力で鳴き、短い命を生き切る蝉が、無性に愛おしく思えるようになりました。

店への道すがら聞く蝉の鳴き声に、私もずいぶん夏に強くなったものだと感心しながら、そんなことを思い出しています。

ほんの3年半ほど前までは「ほぼ専業主婦」だった私、開店以来の日々は、かつての生活では有り得なかった経験の連続でした。思いもよらないこと。経験してみなければわからないこと。うれしいこともありますが、ときにしんどく思うことも。

ふと、平穏な暮らしってどんなかな、と思うことがあります。平穏な暮らしのイメージを勝手に描きながら、うらやましく思ってもみたり。しばし妄想にふけったあと、我に返って思います。うれしいことも、しんどいこともない交ぜの、てんやわんやの人生の方が、きっとおもしろい。

私は八日目の蝉になりたい

私にしか見られない綺麗なものが、きっと見られるはず。私はそれを見てみたい。そんなことを思う八月、生きることに貪欲になってきた自分を感じるこのごろです。

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