杉本先生から教わったこと
アートなこと
2013年06月30日
個展の案内が届き、出かけてきました。
杉本晋一展
『重力都市14シリーズ 2007-2013の仕事』
2013/6/25~07/06
galerie 16
不思議な次元を描いた素晴らしい大作です。
私、30代の半ばの2年間、服飾の専門学校に通った経験があります。家事と学業の両立は大変でしたが、私には密かな夢がありました。ニットデザイナーになれたらいいな、と。気恥ずかしくて一度も口にしたことはありませんが。その学校に講師として来られていたのが杉本先生です。私には、学友より年齢の近い先生でした。
デッサンと色彩学の担当で、鉛筆一本でプラスチックや木綿などの質感を描き分けたり、色のイメージから一着の服をデザインしたり。毎回、難しくも楽しい授業でした。
「ファッション雑誌は見ないほうがいい」
先生から言われた言葉です。既成概念にとらわれるな、ということでしょうか。自ら創作することの楽しさを教わりました。
卒業後しばらくして、ささやかながら、ニット業界で仕事をさせていただくようになりました。学んできたことが、実を結んだといえば結んだような。
ところが数年であっけなくやめてしまいました。やりがいのある仕事ではありましたが、なにか、そこが、自分の居場所ではないような気がしたのです。お世話になった方には申し訳ないことでした。学んできたことが、無駄に終わったといえば終わったような。
そうこうするうちに、今回の起業となりました。開店に当たっては決めなければならないことがたくさん出てきます。それぞれ専門の方にずいぶん助けていただきましたが、最後は自分たちで決めなければいけません。経験のない私は途方に暮れることもたびたびでした。
そんななか、包装の袋やロゴマークのデザインを考えたり、店内のしつらえの配色を決めたりといった作業は、とても楽しいものでした。緊張を伴うものでしたが、ものづくりが好きな私にとっては、またとない創作のチャンスです。嬉々として取り組んでいたように思います。学んできたことが役立ったといえば役立ったような。完成度はともかくですが。
人生に無駄はない、とはよく言われることですが、すぐに実感できるものではありません。焦ったり、悔やんだりの連続です。そうしたなか、巡り巡って、ああ、そういうことだったのかと気づくことも。自分流のこじつけだったりする場合もありますが…。いずれにせよ、忘れた頃にやっと実感できるというのは、かなり忍耐の要ることです。
最近、これまでに経験してきたうれしかったこと、辛かったこと、そんなこんなが全て今につながっているんだなと思うことがあります。そんなことを実感できるくらい、私もそこそこ長く生きてきたということかもしれません。(笑)
既成概念にとらわれない、あまりに自由な杉本先生の作品を鑑賞しながら、そんなことを思ったことでした。
雨降れば雨降るままに
アートなこと
2013年06月05日
写真家 土門拳が好きです。初めて展覧会に行ったのは、15年ほど前でしょうか。「筑豊のこどもたち」に特に胸打たれたのを覚えています。
土門拳の故郷、山形県酒田市に記念館があると知り、5年前、初めて一人旅を計画した時、行き先を迷わずここに決めました。
念願の叶った日、記念館に入ると、中には見慣れない写真が飾られていました。山里のなんでもない花や生き物、古民家…。土門拳の写真はどれも、被写体に向けられたカメラの向こうの鋭い眼差しに射すくめられるような気がします。これらの作品には、そうしたものが全く感じられず、不思議な気がしました。
雨降れば雨降るままに 、
晴れてあればやっぱり晴れてあるままに、
風景はそこにあるより仕様がないのである
説明によると、撮影旅行に向かう道すがら撮られたものとのこと。添えられた氏自身のこの言葉に、腑に落ちた気がしました。私の心にストンと落ちた言葉を心で唱えながら、館内の写真を何周も観て回りました。 なんでもない花や生き物が、そのままで愛おしく感じられました。
誰しも問題が起これば解決したい、困難があれば克服したい、そう思うものではないでしょうか。私もそうしてきたように思います。前向きに立ち向かっていくことは大事なことです。
だけれども…、
どうしたって解決しないこと、克服できないこともあるものです。もしかしたら、どうしても解決しないこと、どうやっても克服できないことの方が多いものかもしれません。結果、疲れ果て、無力感にさいなまれることに。
雨降れば雨降るままに 、
晴れてあればやっぱり晴れてあるままに、
風景はそこにあるより仕様がないのである
これを本物の諦観というのでしょうか。 ただの諦めとは違う、おおらかな受容のような。こんな境地で生きていけたら、そう願い、心で繰り返し唱えてきました。 が、この境地、ちょっとやそっとで到達できるものではありません。(笑)
親族経営から独立、一年余りが過ぎました。無我夢中でやってきました。この間、出来たこと、出来なかったこと。この先、出来そうなこと、出来そうもないこと。少しずつ見えてきたような、まだ見えないような。
最近、この言葉がしきりに心に浮かびます。先に向けて、引き続き力強く立ち向かっていく一方で、こんなしなやかな心持ちも大切なんじゃないか、そんな示唆を与えてくれているように思います。
めぐる季節のなかで
アートなこと
2013年03月09日
春です。
季節ごとに架け替えている壁の3枚の写真も、高野山の雪景色から、桜に変わりました。
【店舗のご案内】のミニミニギャラリーでも紹介していますが、和歌山在住の友人が撮ってくれているものです。アマチュアながら相当の実力者で、私と同い年ですが、そうは見えない若々しくて可愛い女性です。感性溢れる彼女の作品が大好きで 、「しののめ寺町」の開店に当たり、是非、店に飾りたいと思っていました。
3月の開店に合わせて持参してくれたのが桜の写真3枚、ちょうど一年経ちました。開店時はお祝いにいただいた生花が店内に溢れ、写真の桜は少し遠慮がちだったよう。私も落ち着かない日々でした。一年経って再会した桜の写真に、改めて見入っているところです。
写真撮影には光や空気、自然の諸々の条件が重要な問題らしく、彼女のセンサーは常に敏感、一緒にいると、普段気づかない発見がたくさんあります。
数年前、当時、佐賀県に住んでいた彼女を訪ね、一緒に博多の太宰府天満宮に出かけた時のこと。
「あの雲の形おもしろい!」と突然、空を見上げる彼女。
「ほんまや!」と、私。
参道で空を見上げるいい年(?)の女性二人…、知らない人からは、さぞや変に見えたことでしょう。変でもいい。おばあさんになっても、二人でこうして空を見上げ、雲の形をおもしろがっていたい。そう思ったのを覚えています。
思えばこの一年、店で繰り広げられる日々のあれこれを、壁に飾った写真はいつも見守ってくれていたように思います。桜の花びらの形を模したハンコがありますが、この写真、桜の花びらの中に「よくがんばりました」という文字が見え隠れするような。彼女からのエールでしょうか。
二巡目の季節が始まります。めぐる季節と共に写真を、そして「しののめ寺町」をこれからもよろしくお願いします。
イサム・ノグチの輪っ!
アートなこと
2013年02月11日
私、アートが好きです。なかでも現代アートというんでしょうか、前衛アートというんでしょうか、専門的な分類はよくわかりませんが、そういうのが好きです。
見ていてとても気持ちがいいんです。もちろん気持ちがよくないものもありますが、好きな作品はもう本当に気持ちがいい。 隣で「なにこれ?!」っていう声を聞くこともありますが、好みは人それぞれ、ということでしょう。
なかでもイサム・ノグチの彫刻が好きです。数年前、滋賀県の美術館で初めて観て魅了されました。「真夜中の太陽」という有名な作品があります。直径2メートルほどの石の円環です。ドーナツ状の大きな石なのですが、不思議なことにすっくと立っています。まわりのどの方向からも眺められるように展示されていて、四方から眺めているうちに、とても不思議な感覚に陥っていった時のことを、今でもよく覚えています。
手前で眺めていると、 こちら側はこちら側、向こう側は向こう側。けれどひとたび向こうに回って眺めると、さっきまでのこちら側は向こう側で、向こう側がこちら側に。
円環の手前から向こうをのぞくと、まるで未来が広がっているように見えます。果てしなく見える未来も、向こうに回ればたちまち過去に。
円環の上と下。くるりと回せば、上が下に、下が上に。円環の右と左。ひょいと回せば、右が左に、左が右に。
終わりのない問答を繰り返すように、私は何度も行ったり来たりして、飽かず眺めていました。禅問答って、こんな感じでしょうか。
以来、私の胸の中にはイサム・ノグチの輪がペンダントのようにぶら下がっています。なにかに囚われそうな時、くるくる回していると、いつのまにやら開放されて、自由になれる気がします。ちょっと無理からではありますが。(苦笑)
このブログでも何度も書いていますが、この一年少しの間に私の状況は一変しました。「ほぼ専業主婦」から「自称にわか女将」へ。活動のフィールドが家の内から外へ。交流の範囲が自分の周辺から大きな広がりへ。考えるべきことの内容も多岐にわたり様変わり…。
確かに大きな変化です。けれど変わっているようで、実は大して変わっていないようにも思います。今さら私に大それたことが出来るわけはなし。出来るとしたら、これまで生きてきたなかで培ってきたことを、ただ精一杯形に表していくこと。過去を未来に。この先に待ち構えていることに真摯に向かっていくこと。未来はたちまち、また過去になるでしょう。
開店からもうすぐ一年を迎えます。それを前にして、そんなことに気づいたこのごろです。
ユルスナールの靴
素敵な女性
2012年08月07日
きっちり足に合った靴さえあれば、
じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。
そう心のどこかで思い続け、
完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。
須賀敦子 「ユルスナールの靴」より
今日は立秋、暦の上では秋とはいえ厳しい暑さが続きます。
地下鉄「丸太町」から地上に上がると、真夏の太陽が照りつけます。
セミがシャーシャーと鳴く道を、昼のお弁当やらを詰め込んだ重いスーツケースを引きながら、東に向かって歩くのは、結構、こたえます。
私は夏が苦手で、食欲は激減。ほうほうのていで夏をやり過ごす、なんてことがもう何年も続いています。
起業に当たって不安なことは山ほどありましたが、体力がもつかどうかもその一つでした。
しっかり朝ごはんを食べ、最低限ながら家事を済ませ、店に向かって歩く自分に、私自身が一番驚いています。
ゆっくりながら歩を進める自分の足元を見つめ、ふと心に浮かんだのが冒頭の一節です。 イタリア文学者でエッセイストの須賀敦子は、とても魅力的な文章を書く人で、大好きな作家の一人です。
これまでの私…、あれこれ模索しながらも、なにかしっくりいかないものを感じて生きてきたように思います。 わがままなだけかもしれませんが。
やっと私の足に合った靴が見つかったのかな。
まだ歩き出したばかり、先のことはわかりません。
今はただ一歩一歩、この靴で行けるところまで行ってみよう。
そんな風に思っています。