桜
季節のこと
2015年04月14日
今年の春、皆様、どんなお花見を楽しまれたでしょうか? これからという地域の方もいらっしゃるかと思います。京都はおおむね4月に入ってすぐのころに、見頃のピークを迎えました。とはいえ雨が多く、お花見日和といえる日は数えるほどだったような気がします。
以前のブログ私が苦手だったもの 春で書きましたが、なにやら世の中が浮き立つ「春」という季節、いつも置いてきぼり感にさいなまれる私には、気分の落ち込む苦手な季節でした(ブログ天狗おじいさん)。店を始めてから少しは克服できたかと思っていたのですが…。
前回のブログ可能性では、目の前の可能性に果敢にチャレンジしていきたい、なんて威勢のいいことを書きました。有言実行、さっそく取りかかっていますが、どうもスピード感に欠けるような。計画しながらも、今一歩が踏み出せずにいることもたくさんあります。
可能性をものにできるだけの力が、果たして私にあるのだろうか。不安がよぎるや、たちまち足踏み状態に。とうてい果敢にとはいかない現状です。
そんな不甲斐ない私を尻目に、桜は一気に開花し、咲き切ったと思うや、惜しげもなく散っていきました。見る間に移ろう季節のうしろ姿を追いながら、その背中に指先すら触れることができない私…。
やっぱり春には追いつけない。
写真はかの有名な円山公園のしだれ桜です。春が苦手な私も、これを見ないことには春が始まらない、というくらい大好き。去年、閉店後に思い余って出かけた折にカメラに収めたものです。
近年は傷みも激しく、かつての華麗さはないという声をよく耳にします。それでも見事な立ち姿。痛々しさまでもが美しく、まるで老いてなお妖艶な女性を見るようです。えもいわれぬ気品と色香。はかなげだけれど雄々しくて、なににもおもねらない孤高の美。対峙するたびに息を飲み、立ちすくんでしまいます。そんな大好きな桜も、残念ながら今年は行きそびれてしまいました。
追いつけないまま、また春が行っちゃった。
今年もやっぱり置いてきぼり感にさいなまれ、気分が落ち込みがちなこのごろ。まだまだ春が苦手なのかなぁ。
いやいや、今年はかつての置いてきぼり感とは少し違う気がします。春のスピードに追いつけないでいるだけで、今の私はたとえゆっくりでも前に進んでいるんじゃない? 追いつけないもどかしさは、懸命に背中を追っているからこそ感じる思いなんじゃない?
ただ愛でるには、桜はあまりに美しすぎる。そう思うのは私だけでしょうか。私にとって桜は、畏れにも似た憧れです。たとえ追いつけなくても、ずっとその背中を追いかけていたい。その思いを新たにするのが、春という季節なのかもしれません。
京都の桜もすっかり終わる頃、そんなことを思う私です。
可能性
店のこと
2015年03月31日
私、心に思ったことが視覚的に見えるという変な癖(?)があります。心が動いた時などに、よく起こります。そのものズバリというよりは、暗示的なイメージで現れることが多いでしょうか。うまく説明できませんが…。
このところ、しきりにシャボン玉が見えます。大きなシャボン玉がいくつも、目の前でふわりふわり。光を浴びて七色に輝くシャボン玉、中には色とりどりの小さな紙切れが。七夕飾りの短冊みたいに、なにやら願い事が書かれているもよう。指先でつつくとパチンと割れて、短冊がはらはらと空に舞います。入れ替わるように、またひとつ新しいシャボン玉が。
可能性をはらんだシャボン玉。
可能性は私のまわりにいくらでもあるのだと、それをものにするもしないもすべては私次第なのだと、この光景は教えてくれます。
先だって、お陰様で開店3周年を迎えることができました。とはいえ40年近く続いている店からの暖簾分けという状況、新規の店とは少し事情が違います。多少のアレンジは加えながらも、基本、もともとあったものを持ってきた、というのが正直なところです。
これはこういうもの。ここはこうあるべき。そう信じて疑わずに準備し、やってきました。それがお客様が望まれていることと思って…。
三年が経ち、そんな思いに変化が表れています。こういうもの、こうあるべき、と思っているものは本当にそうなんだろうか。すでにあるものを改良したり、ないものを一から作り出したり、いくらも工夫の余地がありそうな。お客様はむしろ、そちらを望まれているんじゃないか。
途端、目に入るもの、目に入るものに可能性を感じるようになりました。次々に新しい発想が生まれ、その発想がまた新しい発想を呼んでくる。それは店のことに留まらず、自分自身のことにおいても同じです。気づけば、私の目の前はシャボン玉だらけ。ずっと目の前にあったのに、私が気づかなかっただけかもしれません。
これまで、精一杯がんばっているようで、がんばり切れていないもどかしさを感じていました。守るべきもの、変えていいもの。そこを見誤らなければ、もっと自由でいいんじゃないか。そう気づくと、心まで自由になれた気がしています。これからが本当のがんばりどころです。
自分の心は自分が一番わかっているようで、わかっていない。そこのところをダイレクトに見せてくれる、この変な癖。直感タイプの私らしい、いい癖だなぁと思っています。
目の前のシャボン玉、さあ、なにから割ろうか。たくさんありすぎて、どれも魅力的過ぎて、きょろきょろ視点が定まらない状況です。一日24時間、体は一つ、手当たり次第とはいきません。まずは目の前の一番大きなシャボン玉から。
大それたことはできないけれど、手の届く可能性には果敢にチャレンジしていきたい。伝統を守りながら、でも新しい風も吹きこみながら「しののめ寺町」は「しののめ寺町」らしい店になっていきたい。それこそが店を開いた意味だったのだと、思いを新たにするこのごろです。
写真は3周年記念に友人のカメラマン篠崎一恵さんに作ってもらったオリジナルポストカードです。私からお願いしたテーマは「希望」でした。まさに私の心象風景。これからまた一歩一歩です。皆様、どうぞ気長に見守ってくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
私が苦手だったもの 兄
心と体のこと
2015年03月18日
私が苦手だったものシリーズ(ブログ私が苦手だったもの春 私が苦手だったもの京都 私が苦手だったもの花)今回は兄です。またまたひんしゅくを買いそうな(笑)。
私は三歳年上の兄と二人きょうだいです。この兄というのが子供の頃から勉強がよく出来て、スポーツでもなんでも難なくこなす優秀なひとでした。学校に行けば、どこからともなく兄の評判が聞こえてくる。親戚が集まれば兄は皆から褒められヒーローのよう。
かたや妹の私はというと、なにをやってもドンくさい。兄にひきかえ影の薄い存在でした。母にとって兄は自慢の息子。私はどうもパッとしない娘だったように思います。どうしたって兄には敵わないという思いが、私にはずっとありました。兄に甘えるなんてことは一度も思ったことがなく、邪魔をしちゃあいけないとさえ幼心に気を遣っていたように思います。
日本では身内のことは謙遜することになっているようですが、兄は私にとって、身内であって身内でないような。自慢も謙遜もできない、近くて遠い存在でした。
やがて兄は大学進学と共に家を出て下宿生活を始め、就職後は国内はもとより、海外も転々とする生活に。お互い結婚もし、文字通り遠い存在になってしまいました。
そんな兄との距離が少し近くなったのは、10年ほど前でしょうか。実家近くに暮らす私が、遠方で暮らす兄に、老いていく両親の近況を伝えたり、相談したりといった必要に迫られ、パソコンでメールをやり取りするようになった時です。
本題のあと、話題はときに幼い日の思い出話に及ぶことも。互いの記憶を突き合わせ、そうやった、そうやったと納得することもあれば、へぇ、そうやったん? と意外に思うこともあったり。他人行儀な言葉を使う距離感でしたが、暗くなりがちな時期のささやかな楽しみだったことを覚えています。
そんなやり取りも一段落。実家は今はもうなく、私も店を始め忙しくなり、また遠い存在になってしまいました。兄は今は名古屋に単身赴任中。実際は京都からは新幹線を使えばあっという間、会おうと思えばいつでも会える近さですが…。
開店を機に初めて商売に携わった私、大変ではありましたが、怖いもの知らずの強みもあったように思います。いろいろなことがわかってくるにつれ、怖さを感じるようになってきました。3周年の節目を前に、この漠とした不安を誰かに聞いてほしい。聞いてもらうだけでいいから…。そう思った時、浮かんだのは兄の顔でした。年度末で忙しいかと案じながらも連絡をしてみました。
定休日の3月11日、仕事の段取りをつけてくれた兄と、夕刻、名古屋駅で待ち合わせをすることに。方向音痴の妹が迷子にならないよう、宿泊予定のホテルからも、駅からもわかりやすいビルを食事場所に選んでくれました。
食事の席に着き「どうした?」と聞かれた途端、急にこみあげるものが。張りつめていたものが緩んだのでしょうか。店のこと、家族のこと、これまでのこと、これからのこと、せきを切ったように話しました。「冷めないうちに食べなさいよ」と食事を勧める兄の言うことも聞かずに(笑)。
聡明なうえに、長年企業の最前線で働いてきた兄。理路整然と明瞭、的確に話してくれる内容は、私の混沌を一気に整理してくれました。最後に会議の議長のように結論を取りまとめ、翌朝の朝食のアドバイスをし、ホテルの前の信号まで私を送り、足早に駅へと消えていきました。
やっぱり兄には敵わない。
信号が青に変わるのを待ちながら、その見事さに笑ってしまいそうなくらい、私の心は軽くなっていました。そして横断歩道を渡り終えたところで、兄にお土産を渡すのを忘れていることに気づきました。長い信号待ちのあとのことです。雑踏の中でとうてい追いつける自信もなく、そうしてまで渡すほどのお土産でもなし。そのまま持ち帰ることに決めました。
やっぱりドンくさい妹やぁ。
兄の前ではいくつになっても妹だったなぁと思います。ちょっと違っていたのは、一度も甘えたことのない兄に、初めて甘えられたこと。やっと気づきました。兄に敵う必要なんてどこにもなかったんだと。兄に妹が甘えるのは、ちっとも悪いことではないんだと。
3年前の開店の朝、兄から花と共にこんなメールが届きました。「寺町という最高の場所を与えられたということは、神様が味方してくださっているんだよ」。その言葉はいつも私の心の支えでした。
これから、ますますがんばっていかないといけないけれど、しんどくなったらまた兄に甘えてしまおうかなぁ。ただし手厳しい兄は、必要以上の甘えは許してくれないはず。そのへんを見極めながら、うまく甘えていけたらいいなぁ。そんなことを思いながら、やっと妹らしくなれた自分を感じています。
名古屋に出かけた3月11日は、花を買うと決めている連休の初日、奇しくも東北の震災からちょうど四年目でした。写真はその日選んだ花です。ピンポンマムという名の可愛らしい菊。白い色、まん丸の形。哀悼のお思いと共に、幼い日の無垢な思いが蘇ったのではと思います。
お陰様で3月16日、3周年を迎えることができました。ひとえに皆様のご愛顧のお陰です。こんな私でありますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。
私が苦手だったもの 花
心と体のこと
2015年02月27日
私が苦手だったものシリーズ(ブログ私が苦手だったもの春 私が苦手だったもの京都)今回は花です。私、花が苦手です。なんて、またまた引かれることを書いてしまいました。
自然の造形やアートが大好きな私。美しいものにはとても興味がある方だと思います。花といえば美しさの代表格のようなもの。なぜ? と不思議がられそうですが、花の美しさを愛でる感性だけ欠如しているのかも、としか答えようがありません。
女性は誰でも花を贈ると喜ぶとお思いの男性がいらしたら、今頃、ひっくり返っておられるでしょうか。多分、私が例外中の例外だと思いますのでご安心ください。
しいて言うなら高山植物は好きかもしれません。華やかではないけれど力強い美しさを秘めていて、誰に見られていなくても健気に咲く様は、気高さすら感じます。といっても旅先でのトレッキングの折に見かけるくらい。愛でようにも日常では無理なことです。
たぶん花屋さんに並ぶ花が苦手なのだと思います。色とりどり、華やかで、艶やかで、まさに百花繚乱。我こそは一番美しいとばかりに咲き競う感じが、どうも…。そんな私に変化が…。
「しののめ寺町」は毎週水曜日と第二木曜日にお休みをいただいております。第二週は月に一度の貴重な連休です。が、たまった用事を片づけバタバタしてる間に終わり、なんてことの繰り返し。それでは味気ない。ささやかでも気分転換になるものはないかと考え、思いついたのが花でした。自宅に花を飾ってみよう。いつもは素通りの花屋さんを覗いてみました。
自分のために花を選ぶって、なんて贅沢なことでしょう。たぶん初めてのことだと思います。色とりどりの花の前に立つだけで、心華やぐ気分に。花って、こんなにきれいだったっけ。うれしい戸惑いを感じながら、花を一巡、また一巡。あれこれ迷うのも楽しい時間です。
そんななか、なにかしら心魅かれる花が。ほかの花に目をやっても、やっぱりそこに帰ってくる。気持ちにしっくりくる色と形。数本、購入してみました。たいそうな花瓶では似合わず、ワインの空き瓶に挿してみると、思いのほかいい感じに。華道の心得のない私、自由気ままな自分流です。
ダイニングテーブルに置いてみると、いくら眺めていても飽きることがありません。微妙な色合い、はかなげな形…、見るほどに見入ってしまいます。なにか用事をしていても、ふと目がいき、そのたびに、うふっとしてしまう。私、花を愛でてるやん。
以来、毎月第二週の水曜の朝には花を買うことが習慣に。それがひとつのスイッチとなって、たとえ特別なことがなくても、貴重な連休を特別なものとして味わえるようになりました。
おもしろいことに花屋さんに出かける前から、その日自分が買うであろう花のイメージがはっきりとあります。気持ちが安定している日、疲れている日、苛ついている日…、ときどきの思いが選ぶ花に如実に表れ、予想を外すことはありません。まるで自分で自分の心を占うよう。
自分が選んだ花を眺めていると、幸せな思いは増幅し、不穏な思いは静められていくから不思議です。花の持つ力に驚きながら、正直に反応する心って素敵だなぁ、大切にしないといけないなぁ、なんて思ったり。
そんな花を、私はなぜ今まで苦手に思っていたのでしょう…。
店を始め、いろいろな交流会に参加させていただく機会が増えました。参加者のなかには、一線で活躍されている女性も多く、自身で起業された方も少なくありません。皆さん、華やかで美しく、才気に溢れておられます。まさに百花繚乱。
そんな花々を遠巻きに眺めながら、壁の花になっているのが居心地いいタイプだった私。商売を始めた今、それではせっかくの交流会に参加した意味がありません。気持ちを奮い立てて、花々の近くへ一歩二歩。
高嶺(たかね)の花と思っていた方たちが、皆さん気さくに迎えてくださることは大きな驚きでした。華やかな美しさに気後れし敬遠していたのは、私の勝手な思いこみだったのかもしれません。花も人も…。
鮮やか色の大輪の花も、淡色の小花も、どれも等しく美しい。なんていうと、どこかのグループの歌のようですが、本当にそうだなぁと思うこのごろ、切に願うことがあります。今さらですが…。辛辣なツッコミ覚悟で書きます。
私は私の花を咲かせたい!
失礼しました(笑)。
透き通る瞬間
素敵な女性
2015年02月15日
透き通る瞬間…。
なぜか最近、しきりにこの言葉が心に浮かびます。このブログでも何度か紹介している佐藤初女さん(ブログ佐藤初女さんのこと、佐藤初女のこと2)の言葉です。
初女さんは青森県の岩木山の麓に建つ宿舎を拠点に、食を通してひとの心に寄り添う活動をしておられる女性です。私も数年前に訪れ、大きな力をいただいた一人です。もう90歳を超えられたかと思いますが、ひとになにかをしてもらうより、自分がひとのために出来ることをひたすらに実践されている。そのお姿は神々しいばかりです。
乞われれば全国、あるいは海外でも講演に出かけられます。私も二度、拝聴する機会がありました。弘前弁のとつとつとした語りは耳に心地よく、その内容はいたってシンプルで明快。まさに初女さんの作られるお料理と同じです。滋養ある食物が体に深く染み入るように、心が数段元気になって帰ってきたのを覚えています。そんななか出てきたお話です。
野菜の適切な茹で時間はどうしたらわかりますか、という質問をよく受けますが、それは簡単なんですよ。観察していたら、野菜が透き通る瞬間があるんです。その瞬間を見逃さず引き上げると、ちょうどいい茹で具合になっています。と、こともなげに初女さん。この瞬間を「命の移し替えが行われた」と仰っていたような。
確かに、ブロッコリーやほうれん草など、お湯の中で緑が鮮やかに透き通る瞬間があります。その絶妙の茹で加減で上げたものは、歯の当たりに無理がなく、野菜本来の甘みが生きています。透き通る瞬間というのは、まさに瞬間。早過ぎると、なにかまだ抵抗がある。タイミングを逃すと、もはやだれてしまっている。この瞬間を的確に捉えるのは、案外難しいことです。
野菜のみならず、自然界では大切な瞬間に透き通ることがよくあるそうです。学者さんから聞かれたという、いくつかの例を挙げて話してくださいました。残念ながら詳しいことは忘れてしまいましたが、自ら体得された知恵に、学術的な裏付けを得られたことに深く感銘を受けておられるご様子でした。
透き通る瞬間…。
初女さんには珠玉の言葉がたくさんありますが、私の中で最近になって輝きを放ち始めたこの言葉。今の私に必要な大切な教えが含まれている気がしてなりません。
生きていれば、日々、様々なことが起こります。いいこともあれば、よくないことも。一人で生きているわけでなく、様々な人との関わりの中で生きています。やっぱり、いいこともあれば、よくないことも。
それに伴い様々な感情が湧きます。喜怒哀楽、それだけでは表し切れない微妙な心の揺れ…。修行の足りない私は、その都度、一喜一憂。泣いたり、笑ったり、怒ったり。そんな自分に、結局は自分が一番疲れさせられているジレンマ。
自分にも、ひとにも、物事にも、あらゆることに、きっと適切な瞬間があるのでしょう。焦るあまりに勇み足をしてしまったり、注意力散漫で見逃してしまっていたり。そんなことを繰り返しているんだなぁと思います。その瞬間を捉えるには集中力のみならず、あらゆる感性や心配りが必要なような。初女さんのようにこともなげに捉えられるようになったら、何事ももっとうまく進むようになるでしょうか。
透き通る瞬間…。
まだ漠然としてよくわかりませんが、この言葉をいつも心に留めて、意味を考えながら、目指しながら、これから暮らしていくんだろうな。そんな予感がしています。
大きなテーマを与えられたようでもあり、一つの指針を与えられたようでもあり。たぶん一生かけての作業になると思います。片鱗でもつかめましたらお伝えしていきますので、気長にお付き合いくださるようお願いします。