ユルスナールの靴 2

素敵な女性

2015年09月11日

9月に入り、めっきり涼しくなりました。今年の夏は例年にも増して厳しい暑さで、とても長かったように思うのですが、そんな日々ももう遠いことのよう。季節の移ろいは本当に早いものです。

前回のブログ八日目の蝉でも触れていますが、店を始めるまでは毎年ひどい夏バテに悩まされていました。店を始めるにあたって、夏、私の体力がもつかどうかが心配事の一つでしたが、お陰様で休むことなく続けてこられています。そんな自分に驚きながら、夏になると思い出すフレーズがあります。以前にも紹介しましたが(ブログユルスナールの靴)もう一度。

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いて行けるはずだ。そう心のどこかで思い続け、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。

                   須賀敦子 「ユルスナールの靴」

イタリア文学者でエッセイストの須賀敦子さん。残念ながらもう亡くなられましたが、美しい文体が魅力で、女性としても素敵だなあと思う作家さんです。なかでも、この一節に出会ったときは、ちょっとした衝撃でした。

当時「ほぼ専業主婦」だった私。自分を生かせる場所を探して、あれこれ出かけては、やっぱりここは私の居場所じゃないと、あとにして。そんなことを繰り返していました。私は自分を生かせるものなど持ち合わせていないのだと、どこかであきらめていたような。それでもやっぱり、あきらめ切れずに苛立っていたような。そんな思いを代弁してくれる一節だったのです。しかも「ユルスナールの靴」だなんて、洒落た表現で。

思いがけないことに店を開くことになり、気づくと、きっちり足に合った靴を履ている自分がいました。この靴ならどこまでも行けそうで、歩くのももどかしく、いつも前のめりの駆け足でここまで来たような気がします。

そうして今年の春、三周年を迎えました。三年も経てば落ち着くのかと思いきや、三年経ってようやくわかってくることばかり。見直しを迫られることが重なり、あれやこれやいつも考え事。ヒートアップした脳みそは熱く感じられるほどで、眠っていても余熱冷めやらず。疲れているはずなのに、少しの睡眠時間で目が覚めてしまう。そんな日が続いていました。

もともと要領が悪く、全力疾走しては倒れ込むタイプの私。がんばりどころと危険領域との境界がさっぱりわかりません。警告ランプでも点灯してくれたらいいのですが、そんなわけもなし。8月のお盆過ぎ、夏季休業に入るやダウンしてしまいました。

ユルスナールの靴でこけちゃった。

休み返上で後半戦に備える態勢でいたのですが、それどころでなく、近所の医院に通って点滴を受けては、自宅ベッドで昏々と眠り続ける5日間でした。こんなに眠れるものかと思うほど眠り続け、やがて脳みそもクールダウン。そうして思ったこと…。

元気な体さえあれば、なんとかなる。

気になることは数知れず、やるべきことも数知れず。けれど、それもこれも元気な体があってこそ。全部やり遂げたところで、ダウンしてしまったら元も子もない。困ったら誰かに助けを求めよう。至らないところは謝って許しを請おう。続けていくことが一番大事。そう思い知りました。

ダウンしたのは、こうでもしないと休まないだろうと思われた、神様からのドクターストップだった気がしてなりません。

やっと見つけたぴったりの靴。見つけられたことがうれしくて、夢中でここまできたけれど、これからは歩き方が大事だなぁと思います。どんなに素敵な靴も、寝込んでしまったら履くこともできないのだから。

時にゆっくり歩いてみたり、時にスキップしてみたり。私なりの歩き方を見つけていきたい。履くほどに足に馴染む靴のように、愛おしみながら、どこまでも一緒に歩いて行きたい。私のユルスナールの靴。

そんなことを思う秋の入口です。

透き通る瞬間

素敵な女性

2015年02月15日

三度豆

透き通る瞬間…。

なぜか最近、しきりにこの言葉が心に浮かびます。このブログでも何度か紹介している佐藤初女さん(ブログ佐藤初女さんのこと佐藤初女のこと2)の言葉です。

初女さんは青森県の岩木山の麓に建つ宿舎を拠点に、食を通してひとの心に寄り添う活動をしておられる女性です。私も数年前に訪れ、大きな力をいただいた一人です。もう90歳を超えられたかと思いますが、ひとになにかをしてもらうより、自分がひとのために出来ることをひたすらに実践されている。そのお姿は神々しいばかりです。

乞われれば全国、あるいは海外でも講演に出かけられます。私も二度、拝聴する機会がありました。弘前弁のとつとつとした語りは耳に心地よく、その内容はいたってシンプルで明快。まさに初女さんの作られるお料理と同じです。滋養ある食物が体に深く染み入るように、心が数段元気になって帰ってきたのを覚えています。そんななか出てきたお話です。

野菜の適切な茹で時間はどうしたらわかりますか、という質問をよく受けますが、それは簡単なんですよ。観察していたら、野菜が透き通る瞬間があるんです。その瞬間を見逃さず引き上げると、ちょうどいい茹で具合になっています。と、こともなげに初女さん。この瞬間を「命の移し替えが行われた」と仰っていたような。

確かに、ブロッコリーやほうれん草など、お湯の中で緑が鮮やかに透き通る瞬間があります。その絶妙の茹で加減で上げたものは、歯の当たりに無理がなく、野菜本来の甘みが生きています。透き通る瞬間というのは、まさに瞬間。早過ぎると、なにかまだ抵抗がある。タイミングを逃すと、もはやだれてしまっている。この瞬間を的確に捉えるのは、案外難しいことです。

野菜のみならず、自然界では大切な瞬間に透き通ることがよくあるそうです。学者さんから聞かれたという、いくつかの例を挙げて話してくださいました。残念ながら詳しいことは忘れてしまいましたが、自ら体得された知恵に、学術的な裏付けを得られたことに深く感銘を受けておられるご様子でした。

透き通る瞬間…。

初女さんには珠玉の言葉がたくさんありますが、私の中で最近になって輝きを放ち始めたこの言葉。今の私に必要な大切な教えが含まれている気がしてなりません。

生きていれば、日々、様々なことが起こります。いいこともあれば、よくないことも。一人で生きているわけでなく、様々な人との関わりの中で生きています。やっぱり、いいこともあれば、よくないことも。

それに伴い様々な感情が湧きます。喜怒哀楽、それだけでは表し切れない微妙な心の揺れ…。修行の足りない私は、その都度、一喜一憂。泣いたり、笑ったり、怒ったり。そんな自分に、結局は自分が一番疲れさせられているジレンマ。

自分にも、ひとにも、物事にも、あらゆることに、きっと適切な瞬間があるのでしょう。焦るあまりに勇み足をしてしまったり、注意力散漫で見逃してしまっていたり。そんなことを繰り返しているんだなぁと思います。その瞬間を捉えるには集中力のみならず、あらゆる感性や心配りが必要なような。初女さんのようにこともなげに捉えられるようになったら、何事ももっとうまく進むようになるでしょうか。

透き通る瞬間…。

まだ漠然としてよくわかりませんが、この言葉をいつも心に留めて、意味を考えながら、目指しながら、これから暮らしていくんだろうな。そんな予感がしています。

大きなテーマを与えられたようでもあり、一つの指針を与えられたようでもあり。たぶん一生かけての作業になると思います。片鱗でもつかめましたらお伝えしていきますので、気長にお付き合いくださるようお願いします。

堀文子さんの言葉 2

素敵な女性

2014年09月28日

前回(ブログ堀文子さんの言葉)に続き、堀文子さんの言葉です。

息の絶えるまで感動していたい

短いけれど力を持った言葉、何度読み返しても心が震えます。

前回も紹介したNHKの「日曜美術館」では、ご自宅での様子も撮影されていました。そのなかで忘れ難い場面があります。うろ覚えですが…。

庭の草木にホースで水を撒かれていた時のこと、植物の間にクモの巣を見つけられました。水のかかったクモの巣に陽が当たり輝く様子を、なんてきれいなんでしょうと、それはそれは嬉しそうにはしゃいでおられました。アートのようなクモの巣の造形美、したたる水のしずくの輝き、確かにきれいだったような。そこの記憶は曖昧なのですが、子供のように無邪気に喜ぶ堀文子さんの姿は今も鮮明に浮かびます。

自然の織り成す美しさは、ひとを感動させてくれます。が、それが水を浴びて輝くクモの巣って…。ここまで無邪気に喜べるって…。なんて素敵なひと、なんて可愛らしい女性、そう感じたことを覚えています。

感動という言葉、簡単に使われ過ぎているように感じるのは私だけでしょうか。心から感動するって、案外難しいことに思います。慣れきった生活のなかで緩んでしまった心では、到底…。

私は岐路に立たされたときは必ず、未知で困難な方を選ぶようにしています

絶えず果敢なチャレンジを続けておられる堀文子さん。踏み出す一歩一歩が未知の世界なのではないでしょうか。感動すべきものに出会ったなら、たちまち感動できる心の状態を、常に保たれているのだろうと想像します。

堀文子さんには遠く及びませんが、「しののめ寺町」開店以来の毎日も私には未知の世界の連続でした。新しい発見、出会い、学び…。しんどいこともありますが、感動もまた絶えない毎日。慣れ親しんだ生活のなかでは、決して味わえなかったことばかりです。

開店から二年半が経ち、慣れてきたこともありますが、慣れてしまってはいけないなぁと思います。

堀文子さんほどの強い生き方は、私にはとうてい真似できませんが、心意気だけは見習いたいと思います。過去に囚われず、常に前を向いていきたい。絶えることなく新しい今を更新し、さっきまで知らなかった今に感動し続けていきたい。未来を案じ過ぎず、恐れ過ぎず。私も願わくば…

息の絶えるまで感動していたい

店まで通うのに長らく地下鉄を使ってきましたが、最近、新車購入を機に自転車に変えてみました。空の色、雲の形、光や風…、一日として同じ日はありません。最近では金木犀が香るように。帰る頃は真っ暗でちょっと心細くなりますが、ペダルを強くこいでみると、薄闇が開かれていくような。

今までになかった心の動きを感じながら、いくつになっても新たな感動があるなぁと思うこのごろ。そんな自分に感動している私がいたりして。

堀文子さんの言葉

素敵な女性

2014年09月14日

前回のブログで日本画家、堀文子さんのことを書きました。(ブログ画家 堀文子さんのこと

ふと立ち寄ったカフェで、たまたま座った席の正面に置かれたていたのが、堀文子さんのエッセイ「堀文子の言葉 ひとりで生きる」でした。絵と共にその生き様が素晴らしく、珠玉の言葉をたくさん残しておられる堀文子さん。私の憧れの女性です。思わず手に取ると、冒頭こんな文章が…。

私は九十年もの長い間さまよって、やっと少しわかったというか、私は自分を否定して、自分のことを劣っていると思っていましたから、よその世界に憧れて世界中をさまよったのです。自分は日本の生物だったと、そのことがわかるまでに長い時間がかかりました。

見つかったかどうかは知りませんけど、「青い鳥はよそにはいない」ということがわかったのです。皆さんも「青い鳥は自分のなかにいる」はずです。

私も自分のことを、なにか決定的なものが欠落した、ひとより劣った人間だと思ってきました。欠けているものを埋めたくて、劣っているところを補いたくて、随分と模索を続けてきました。堀文子さんには遠く及びませんが、方々探し回り、あれこれと試みてきたように思います。

けれど、どこも自分の居場所ではないような、どれも自分が求めていたことではないような、そんな気がしてすごすごと撤退、なんてことを繰り返してきました。飽き性とも少し違う、どれもしっくりとこなかったのです。

そんな様子を好奇心旺盛とか、行動力があるとか言ってくださる方もありますが、どれも大成することなく投げ出してきただけです。また回りををキョロキョロして、ひとと自分を比較して、ないものねだりをして、手に入らないことに途方に暮れて…。不全感はますます募るばかりでした。

思いがけず店を始めることになって二年半が過ぎました。生活は激変。あれこれ言っている余裕などなく、ただ目の前にある「しののめ寺町」と向き合ってきた日々。それはとりもなおさず、自分と向き合ってきた時間でもあります。

突然、商売の世界に飛び込んだ私は、ひとのなん倍も努力しなければいけないと思っていました。まわりの華やかな方たちを見て、私には到底真似はできないと思うことも。正直ちょっと疲れ気味に(ブログストック)。

一日の大半の時間を過ごす店、そこに立つ自分…。初めてここが私の居場所だと思えました。求めていたことがここにはあるのだと。だからどんなに疲れても、今度ばかりは続けてこられています。

自分の思いが店に反映し、店の印象が私に投影される。そんな毎日を送るなかで、気づいたこがあります。店をよくしていくには、まず自分がよくあらねばいけないということ。店を大切に思うなら、まず自分を大切にしなければいけないということ。

まわりから学ぶことはたくさんあります。もちろんこれからも学び続けていくつもりです。が、同時に自分に目を向けていくことも大切なんじゃないか、そう思うようになりました。自分の中に眠るものを呼び覚ますこと。くすんだまま放置しているものに磨きをかけること。そこにはまだまだ大きな可能性が秘められているような。逆行するようですが、改めてそこから始めてみようと思います。

私の心の中に、青い明かりが灯りました。よく見ると、濃い鮮やかな青色をした鳥でした。以来、ときどき手に載せて優しく撫でてやります。両の掌で包むようにそっと抱いてやります。繊細な羽を傷つけぬよう大切に。鳥は安心したように身を委ね、私の心も穏やかになっていきます。

堀文子さんの言葉のとおり、青い鳥は誰の心の中にも一羽ずついるはず。気づくか気づかないかは本人次第。気づけた私は幸運でした。

余談ですが、8月のこと、自宅の玄関先のやまぼうしの鉢植えに、鳥が巣を作りました。ぴぃぴぃと可愛い鳴き声を上げて、いたいけなヒナが二羽。親鳥が餌をくわえては通ってきます。巣立ちを楽しみに、木を見上げる日が数日続きました。

今年は大雨続きの夏でした。そこは屋根もない場所で、心配していたところに台風が。ぱったりと鳴き声が聞こえず、可愛い顔を見せてくれることもなくなりました。巣を覗いてみると、中は空っぽ。巣立ちには早すぎます。どうしたことやら。私の力不足のようで申し訳ない気もしましたが、自然界で生き抜くのは容易なことではないのかもしれません。

勝手な解釈ではありますが、折も折、私の心に青い鳥のイメージを届けに来てくれたような、そんなエピソードでした。

画家 堀文子さんのこと

素敵な女性

2014年08月30日

少し前のことになりますが、仕事帰り、とあるブックカフェに立ち寄りました。

京都には素敵なカフェや喫茶店がたくさんありますが、なかでも京都通の知人が勧めてくれていた店で、お一人でどうぞ、という意味深なコメントも気になっていました。ちょっとクールダウンしたい気分のその日、ふと思い出して出かけたのでした。

とてもわかりづらい建物の一室、怪しい扉を恐る恐る開けると…。中は一変、お洒落なカフェでした。窓に向かって設えられたカウンター席に、ひとり客が数名。本を読んだり、パソコンをしたり。外の世界とは隔絶したような独特の雰囲気。とにかく静か。コメントの意味がすぐに理解できました。

空いた席に腰かけると、真正面にあった一冊の本に思わず手が伸びました。「堀文子の言葉 ひとりで生きる」。憧れの女性、日本画家の堀文子さんのエッセイでした。

堀文子さんのことを初めて知ったのは、NHKの「日曜美術館」という番組。壇ふみさんが司会をされていましたので、ずいぶん前のことです。ご本人も出演されていて、絵の美しさはもとより、そのお話のユニークさに驚いたのを記憶しています。

すべてにおいて、ひとところに留まるということを知らない生き方。常に未知なものを求めて、挑戦し、感動し、また挑戦し…。過酷ではないのかと思いきや、むしろ楽しくってしょうがないご様子。孤高な芸術家の顔と、愛らしい童女の顔を併せ持った、とても魅力的な方という印象でした。

群れない 慣れない 頼らない

堀文子さんのモットーです。以来、私も常々自分への戒めとしてきました。が、気づけば、長らく忘れていました。茨木のり子さん(ブログ自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ)や須賀敦子さん(ブログユルスナールの靴)のことは、開店後もよく思い出していたのに。

ページを繰ると、容赦ない厳しい言葉が並びます。研ぎ澄まされた言葉に息をのみつつも、どこかしら漂うユーモアに救われる、というのが堀文子さん流でしょうか。そうそう、これこれ、と思い出し、一気に読破しました。

自由は、命懸けのこと

自由でありたいというのは、誰しも願うことです。私もせめて心だけは自由でありたいと思います。なにものにも囚われず、あるがままでいたい。

それが、命懸けって…。そこまでの覚悟はあるか?! と喝を入れられたような。90歳を超えた童女から見れば、私などまだまだ尻が青い(笑)。

読み終えて本を戻すと、不思議な爽快感が。いつの間にやら、窓の外は真っ暗。小一時間、しばし異次元に迷い込んだような奇妙な感覚でした。間違いなく、私はこの一冊に呼ばれて、ここに来たんだと思いました。偶然のようで、実は必然の出来事。入店時のふさいだ心持ちから一転、心軽くなって店を出る自分に、そう実感しました。

思い悩むことの尽きない毎日です。同時に、まるで用意されたように必要な助けが現れる毎日でもあります。一気に解決とはいかないけれど、また進んでいこうと思える一助となるものが、私の前には必ず現れます。ひとであったり、言葉であったり…。大きな計らいが働いていることを感じずにはいられません。

そんなことをまさに体現した出来事でした。

堀文子さんの珠玉の言葉の数々は、また改めて紹介していきたいと思います。

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