体の声
心と体のこと
2016年08月27日

ご挨拶が遅くなりましたが、8月17日から21日まで5日間の夏休みをいただきました。ありがとうございます。皆様はどんな夏を過ごされたでしょうか?
私は仕事でもプライベートでも、なにかと考えなければいけないことが多い夏でした。そうしたひとつひとつに、決断や選択をしていかなければいけないところなのですが…。
どうしたことか、私の中のいろんな私が口々に好きなことを言って、頭の中がやたらやかましい状況。いちいち聞いていたらきりがなく、決断を先延ばししたり、選択が二転三転したり。 果ては「カリスマリーダー、早く出てきてぇ~」と叫んだり(笑)。自分でも不思議なくらい優柔不断な状況に陥っていました。
そんな私に、こんなアドバイスをくださる方が。いつも、そのときどきに適切な言葉をかけてくださる人生の大先輩です。
「頭の声より、体の声を聞いてあげてはどうでしょう」
以前にも伺っていた言葉ですが、これが結構、難しい。頭の声はにぎやかで、体の声は控えめ。体の声は頭の声にいつもかき消されてしまいます。
「体は我慢強いのでなかなか弱音を言いません。こちらから聞いてあげないと。頭は嘘をつきますが、体は正直です」とも。
ちょっとショッキングな言葉ですが、確かにそうです。頭の声はまことしやかなことを言います。こうあるべき、とか。これくらいできなくてどうする、とか。その根拠はというと、案外いい加減だったりして。
頭の声に引っ張られて行動していると、いつか無理が生じる気がします。気づけば体はくたくた。体の声はまさしく身をもって語られる言葉。嘘、偽りなく訴えてきます。
昨年、夏休みに入った途端、ダウンしてしまうという苦い経験をしました(ブログユルスナールの靴2)。夏休みに入る直前、決して昨年の二の舞をすまいと、用心深く体に注意を払うよう心がけてみることに。
すると、ずいぶん早い時間から眠たくてしょうがない自分に気づきました。早々にベッドに入ると、たちまち深い眠りに就き、翌朝の体がとても楽。もしかして、本当はいつも眠たかったのかも。なんて思う私に、どこからか「うん」という微かな声が聞こえたような。
たまたまだったのかもしれませんが、私にはとても暗示的な出来事に思えました。自分の体と交信したような感覚。気に掛けられることで、体は安心し、素直な反応を返してくれたのだと思います。お陰様で昨年とはうって変わり、元気な夏休みを過ごすことが出来ました。
体の声は、単に体の好不調だけなく、さまざまなメッセージを送ってくれるような気がします。よりよく生きていくための大きなヒントが含まれているような。まだよくわかりませんが、そんな気がしてなりません。
上の写真は、週に一度通っているアロマキャンドルヨガのスタジオ風景です。ここに来るとたちまちリラックスして、毎回、あくび連発の私。まさに体と向き合い、体の声を聞く貴重な時間となっています(ブログ体)。
日々の暮らしのなかで、体に語りかける時間を増やしていきたい。そうして、体の声を聞き分け、体からのメッセージをキャッチし、よりよく生きていきたい。そんなことを思っています。
まだまだ懸案事項は山積みですが、そんななか答えを出せたことがひとつ。定休日の追加です。9月から現在の定休日、毎週水曜日と第2木曜日に加え、第4木曜日も休ませていただくこととしました。ご迷惑をお掛けしますが、何卒ご理解の程よろしくお願いします。
最後は業務連絡のようになってしまいました(笑)。元気に過ごせたことに感謝しつつ、後半戦もまたがんばっていこうと思う夏の終わりです。
エネルギー
心と体のこと
2016年05月18日

1月から新しい体制で始動した今年。当初は精神的緊張が高く、その疲れが大きかったように思います。気づけば5月も半ば。今度は体の疲れを自覚するようになってきました。
店にいる時間が長くなり、慣れない業務も増え、当然といえば当然の結果。自分の体は自分で管理しなければと、改めて反省しきりです。そんなことを思うのも、心に余裕ができてきた証拠かなと、少しほっとする気持ちにもなったり。
自分の心と体に思いを寄せながら、ひとの持つエネルギーについて考えるこのごろです。
店を始めるにあたって心配なことは山ほどありましたが、なんといっても一番の心配は、体がもつかということでした。なにしろスタミナのない私。疲れは慢性的に感じてきましたが、お蔭様で店を休むほどのことは一度もなく、今日までやってこられました。以前の私を思うと、信じられない思いです。
それなりに体調に気を配ってきたせいもあるでしょうが、決してそれだけではなかったような。自分のやりたいこと、やるべきことが見つかり、自分の持っていたエネルギーがやっと動き始めた。そのエネルギーに突き動かされてやってこられた。そう思っています(ブログ ユルスナールの靴 ユルスナールの靴2)。
エネルギーは人が生きていくための力の源。このエネルギーの使い方次第で、人生が決まるのでは、と思うほどです。
なんにつけ計算のできない私は、このエネルギーの配分がとても下手。知らぬ間に使い果たし、気づいた時には枯渇状態。なんてことが何度かありました。全力疾走しては倒れ込むタイプです。そんな時は、否が応でも補給に専念するしかありません(ブログ 私の心の中の瓶)。
持てるエネルギーを酷使して向う見ずにやってきましたが、それでは通用しない時が来ているような。今のエネルギー量では手に負えない。もっと大きなエネルギーがほしい。最近、切にそう思うようになりました。
自動車のように、搭載エンジンを積み替え、簡単にパワーアップできたらどんなにいいでしょう。人間はそう簡単にはいきません。
自分が持っているエネルギーを、うまく活用するしかなさそうです。まだ眠っているエネルギーがあるなら、それを目覚めさせてみる。すでに動いているエネルギーは、もっとうまく巡らせてみる。そのためによさそうなことを、少しずつ実践しているところです。
たとえば…。エネルギーを活性化させてくれそうなものに触れてみる。物であれ、人であれ、場所であれ。刺激を受けたり、ワクワクしたりして、エネルギーが自ら元気に動き始めるように。
たとえば…。疲れた時には、そっと癒してくれそうなものに寄り添ってみる。そばに置くだけで心安らぐ物だったり。一緒にいるだけで安心できる人だったり。そこに居るだけで心和む場所だったり。疲れたエネルギーが静かに回復していくように。
エネルギーを元気づけたり、慰めてくれるものを、身の回りにたくさん見つけておくことは、とても大切だなぁと思います。
限られたエネルギーを、つまらぬことで消耗させない。価値あることにこそ使う。というのも心掛けたいことです。エコの精神ですね。
時には、私がエネルギーを操作するのではなく、エネルギーの赴くままに身を委ねてみる、なんていうのもおもしろいかも。予想外のことが起こりそう。
エネルギーと仲良く付き合っていくことは、人生そのものが豊かになっていくこと。やがてエネルギーが心強い味方となって、私をけん引していってくれたら…。
持てるエネルギーをフルに使って、人生を生き切りたい。
新緑の持つエネルギーに触発されたからでしょうか。そんなことを思う五月。まだまだスタミナ不足の私ですが、少しずつ増強を図っていきたいと思っています。どうぞ気長にお付き合いくださいますようお願いします。
日常
心と体のこと
2016年04月29日

熊本で大きな地震が起きました。お客様の中にも熊本にお住まいの方がおられ、心配しているところです。
世界で、日本各地で繰り返される災害には、自然の恐ろしさを感じずにはおれません。なかでも地震は、人の手で作られた街に住んでいるようで、実は地球という星に住んでいるに他ならないことを痛感させられます。
日常と思っている日々の暮らしが、決して常なるものではないこと。平凡だったり、時につまらなく思える日常が、実はかけがえのないものであること。災害や事件、事故の映像を目にするたびに思い知らされます。
先だっては、知人が大きなアクシデントで急死されるという出来事がありました。テレビのニュースで知った時の驚きは、今までに経験したことのないものでした。ご家族の嘆きはいかばかりか。日常というものについて、考えることの多いこのごろです。
店を始めて、それ以前にも増して、大小様々なことが起こる生活となりました。開店時間に店を開け、閉店時間に店を閉める。当たり前に思えるそんなことが、決して当たり前でないこと。滞ることなく繰り返していかれる毎日が、どんなに有り難いことか、身に沁みてわかるようになりました。そうして積み上げられた一日一日が、先だって迎えた開店四周年です。
有り難く思いながらも、慌ただしさばかりが先行していたこれまで。最近になって、ようやく少し余裕が生まれてきたのでしょうか。こうした日常に心を向ける時間が、わずかですが持てるようになってきました。
災害も、事件も事故も、明日は我が身。そうしたことに遭遇しないまでも、生老病死はひとの常。今日の日常が明日も続く保証など、誰にもありません。もちろん不老不死など望むべくもない。
そんな貴重な今日を、過去を悔やんだり、未来を憂えて過ごしていてはもったいない。運命づけられたこと、努力ではどうにもならないこと、そんなことを恨んだり、嘆いたりしていてもしようがない。
し残してきたことを悔いるより、してきたことに誇りを持とう。自分に欠けているものを数えるのではなく、自分に備わっているものに目を向けてみよう。今、ここにある、あるがままの自分。あるがままの現実。まずはそれを認めてみよう。そう思うようになりました。とても難しいこと。簡単にはいきませんが。
近頃、今までと変わらない日常が、少し違って見えてくるようになりました。なんでもない日常にも、小さな喜びが見え隠れしています。それを見つけられるか見過ごすか。すくい取れるか、取りこぼすか。その差はほんのわずかだけれど、人生の楽しさは大きく違ってくるように思います。
日常を大切に思うことは、とりもなおさず自分を大切に思うこと。今という時を愛おしみ、今ある自分を愛おしむ。それが、今、私の思う「日常」。
熊本の地震で犠牲になられた皆様のご冥福を祈ると共に、一日も早い復旧を願いつつ、私もがんばっていこうと思っています。
なおゴールデンウィークは、5月4日(水・祝)が営業。5月5日(木・祝)が休業となります。お間違えのないよう、よろしくお願いします。
タンザニアのお友達
心と体のこと
2016年01月31日

店を始めて、さまざまな方と出会う機会に恵まれるようになりました。世の中には多彩な方がいらっしゃるもんだなぁ、と感心することしばしばです。
そういう方たちの考えられること、行動力は、私などからすると型破りに思えて驚くばかり。同時に、驚いている自分がまだまだ小っちゃいんだなぁと気づかされます。
なかでも、最近とりわけ驚いた出来事が…。知人のご家族が、まだ幼い子供さんを連れて、アフリカのタンザニアに引っ越されたのです。日本の支援で、教育機会に恵まれない女子のための学校が開校されたとのこと。ご主人は理科教師として、奥様は文化交流担当として勤められるようです。
特に親しい間柄というわけではないのですが、私が恐る恐る書いたブログ「紅葉の頃 思うこと」(紅葉の頃 思うこと)にご主人が温かいメッセージをくださったのが印象的でした。希少難病患者支援事務局主催のイベントに出店した折に顔を見せてくださったのも嬉しいことでした(ブログ希少難病患者支援事務局SORD(ソルド)、ブログ希少難病支援事務局SORD(ソルド)2)。失礼ながら、私と感性の近い方なんじゃないかと、勝手に親しみを感じていました。
二年近く前になるでしょうか、ご家族で来店くださったことがあります。当時生まれて間もないお子さん、ねねちゃんを「人見知りが始まって」と言いながら、いきなり手渡されました。赤ちゃんを抱くなんて久し振りの私、ぎこちなく抱っこし、いつ大泣きされるかと内心ひやひや。
ところが、ねねちゃん、私を見つめて満面の笑み。私もつられて笑みがこぼれます。その様子を見たパパさん、「ねねが泣かなかったのは、木村さん(私)とタンザニア人の友人だけです」って。えぇ~!! 以来、私のなかでは、私とねねちゃんとタンザニア人はひと続きのものになりました(笑)。
その後もフェイスブックを通じて、ねねちゃんの成長とご家族の睦まじさを、遠い親戚のように楽しませていただいていました。そんななかタンザニア行きのお知らせが。ご主人は青年海外協力隊のご経験があり、奥様も国際的なお仕事に携わっておられる由、なるほどと思うものの、やはり驚きです。
実は私、20代はじめの頃、青年海外協力隊の説明会に出かけたことがあります。当時、安定した会社員生活を送っていたのですが、なにか飽き足りないものを感じていたのでしょう。あれこれ模索していた時期でした。
たまたま見かけた案内のポスターにつられ出かけたものの、そんな甘い考えは開始数分で打ち砕かれました。私はその地で役立つ技術も資格もなにひとつ持ち合わせていませんでした。自分の無力さと甘さを痛感し、その場にいることすら恥ずかしかったことを覚えています。
その後も電車の中などでポスターをを見かけるたびに、あの時の情けなさが蘇ります。そして、いつからか目につくようになったのが、青年海外協力隊と共に併記されるシニア海外ボランティアの募集案内でした。
結婚後、二人の子供が小学校に上がったのを機に服飾の専門学校に通い、卒業後はささやかながらニットのお仕事をさせてもらうようになっていました(ブログ杉本先生から教わったこと)。今なら、現地の女性に編み物の技術を伝えられるんじゃないか。木綿の糸などで日用品や簡単な衣料を作れたら、女性の自立の助けになるかもしれない。そんな夢を描くことも。
けれど今の自分の置かれた状況では、とうてい叶わない夢だと諦め、それもまた体のいい言い訳に過ぎないと、覚悟も行動力もない自分がやっぱり恥ずかしくなり。
そんな私をよそに、この間どれだけの若者やシニアの方たちが各国に赴き、活躍してこられたのでしょう。そうした若者のお一人が、家庭を持ち、今度はご家族で新たな夢を追いかけられる。本当に素晴らしいことだと思います。
現地到着後、フェイスブックに初めてアップされた投稿には、ねねちゃんが黒人の男の子と仲良く手をつなぎ、楽しげな表情で立つ写真が添えられていました。京都弁でコミュニケーションを取っているとのこと。たくましい!(笑)
タンザニアで暮らすこと。その地で新しいものを根付かせること。大変なことだと思います。ましてや小さな子供さんを連れての赴任には、数々の不安もおありだったでしょう。その一つ一つを超える意義を感じての決断だったのだろうと推察します。
そんな不安をよそに、ねねちゃんはねねちゃんなりの役割をしっかり果たしている様子。どんな女の子に、女性に成長していくのでしょう。ねねちゃんと似た波長を持っているであろう私は、とても楽しみに思っています。
お陰様で、私もようやくがんばれる場所が見つかりました。海外の途上国ではなく、ここ寺町に。「しののめ寺町」も新体制で新年をスタートしたばかり。緊張して過ごした一ヶ月でした。どこからやって来たのか、こんな言葉がしきりに浮かぶ一ヶ月でもありました。
不安は希望を孕(はら)んでいる。
店に立ちながら、時々タンザニアに思いを馳せています。タンザニアに友達がいる。空を見上げれば、空はひと続き。まずは健康第一に、地道に進んでいかれることを祈るばかりです。
参考までに関連のリンクを貼らせていただきます。ぜひご覧ください。
https://www.facebook.com/mitsuru.goshozono/posts/723893977710327?pnref=story
美しいということ
素敵な女性
2016年01月12日

ウィンタースポーツの季節到来。昨年末よりフィギュアスケートのニュースをよく目にするようになりました。特別ファンというわけではないのですが、浅田真央選手にはなにか心魅かれるものがあり、普段テレビを見ない私も見たりして。
真央ちゃんといえば、十代の頃から、神様から選ばれしひとは、こういうものかと思うばかり。なにもかも兼ね備えたひとのように私には思えました。こぼれんばかりの笑顔には、誰もが魅了されたのではないでしょうか。
選手としてキャリアを重ねるごとに、絶えない苦悩もあった様子。演技後のインタビューでは、時にしゃくりあげながら、時に表情を曇らせながら、それでも真摯に答える姿には、いつも感心させられました。短い受け答えの一つ一つはシンプルでありながら、経験した者のみが語れる言葉の重みがあり、胸打たれることも。
休養から復帰後初めての今シーズン。なかなか調子が上がらず苦戦が続いていたようですが、昨年末の全日本選手権大会のフリーの「蝶々夫人」の演技は、本当に素晴らしかった。転倒しながらも繰り広げられる渾身の演技は、息を呑む迫力。演技後、小さく頷く表情に、今の彼女のすべてが表現し尽くされたのだと、見ている私まで胸すく思いでした。もはや評価など超越していたような。
若い選手が台頭するなか、25歳で最年長と言われるスポーツの世界。決して本調子ではないなか、あの大きなスケートリンクに一人立つ孤独。不安を抱えながら、それでも果敢に挑む姿…。無垢な頃の真央ちゃんも美しかったけれど、苦悩を湛えた真央ちゃんはさらに美しい。
美しいということは、経験すること…。
苦しい経験に心が澱んでしまうこともあるものです。が、それを超えた時、また新たな美しさが生まれる。一つ一つの経験が、その向き合い方が、そのひとが本来持っていた美しさにさらに磨きをかけていく。真央ちゃんの姿を見ていて、そんなことを思いました。
女性が年齢を重ねることは、決して悲観的なことではなく、むしろ素敵なことなんじゃないか。経験を重ね、折り重ねられていく心のひだ。そうしたものが若い頃にはなかった深い美しさを生むんじゃないか。そんなことを思ったり。そうであることを願ったり。そういうものが評価される世の中であってほしいと思います。
年齢を重ね、経験を重ね、澱みながら、澄みながら。また澱みながら、澄みながら。最期に本当の「透き通る瞬間」があるのかも(ブログ透き通る瞬間)。
多忙だった12月。ダウンしたお盆休みの二の舞はすまいと、仕事と休養に専念した年末年始でした。新年のご挨拶がすっかり遅れてしまい申し訳ありません。お陰様で元気に新しい年をスタートすることが出来ました。
今年もまた、さまざまな経験をすることになりそうな気配です。好ましい経験も、好ましくない経験も、恐れずに向き合ってみよう。真央ちゃんの演技を思い出しながら、そんなことを思うこのごろ。どうぞ今年もよろしくお願いします。