間(ま)
心と体のこと
2017年07月19日
店を始めて大きく変わったことの一つが、自由に動ける時間がめっきり減ったことです。開店時間中はもちろん、準備と片づけの時間、通勤時間を合わせると、一日の大半を店で過ごす毎日となりました。
休日は自由な時間かというと、そうはいきません。普段できない用事が山積み。あと欠かせないのが、心と体のメンテナンス。私にとって休日は、休み明けの一週間を心身ともに元気で、つつがなく過ごせるための準備の日、という位置づけです。
本当は、もっとしたいことがあるんやけどなぁ。って、心の中でぽそりと小さな声。行きたい場所、会いたい人、観たいもの、聴きたいこと…。あと、なぁんにも考えずに、ただぼんやり過ごせる時間…。
妄想をし出すとキリがありません(笑)。たまに一つ二つ叶う日があるのを楽しみに、たいていは、A地点で一つ用事をこなして、次のB地点へ移動。それが済んだらC地点…。あっという間に夕方で、あとは自宅で家事三昧。なんていうのが、開店以来の私の休日パターンです。
それでも、近頃、少し変わったなと思うことがあります。今までなら、寸暇を惜しんで立て続けに用事をこなしていたところを、移動の合間、軽くでもきちんと食事を取ったり。たとえ30分でもカフェでお茶をしたり。そういうことができるようになりました。
間(ま)を取れるようになったということでしょうか。
自分の体力気力の限界がわからず、全力疾走しては倒れ込むパターンを繰り返してきた私。それでは持たないと、ようやく学習効果が出てきた模様です。(ブログユルスナールの靴2)
先月のある休日。早朝から気の重い用事がありました。昼過ぎにようやく終了。急いで帰宅し、手つかずの用事を片づけねば、と焦る思い。でも、それだけで休日が終わっては味気ない。少し歩いて、川沿いのカフェで遅めのランチを取ることにしました。
窓辺に席を取ると、大きな窓から青い空、白い雲、川辺の豊かな緑が見えます。そのまわりを鳥が飛び交い、想像力を膨らませると、ここは高原のカフェかと。木々が風にそよぎ、見えないはずの風が見え、聞こえないはずの風の音が聞こえてくるような。
窓という額縁の中の、私だけの小さな宇宙。
そこだけ時間が止まっているみたい。朝からの慌ただしさ、沈む気持ちがたちまちリセットされ、軽い心で帰路につくことができました。もったいないと削っていた時間を、間(ま)に当てるようになって、かえってあとの効率が良くなったように思います。
ある時は、ビル街のカフェで、中庭の木々が青々と日に照りかえるのを眺めて。ある時は、和風の喫茶で、坪庭の緑が、葉先に雨滴をたたえているのを眺めて…。なんでもない日常にも、キラキラしたものが散りばめられているんだなぁ、なんて思うひととき。こんなわずかな時間が、とても愛おしく思えるようになりました。
思えば、店を始める前「ほぼ専業主婦」だった頃、十分な時間を持て余し、その中にどう身を置いていいのかわからずに、立ちすくんでいたように思います。店を始めて、自由になる時間は減りましたが、代わりに、短いながらもとても贅沢な時間を手に入れたような。私は断然、こちらの方が性に合っているみたいです。
心急く時こそ、ゆったりと。心沈む時こそ、ご機嫌に。間(ま)をうまく取り入れて、いい時間の過ごし方をしていきたい。そんなことを思うこのごろです。
着物
心と体のこと
2017年02月15日
店を始めて気づいたことの一つが、京都には着物を召した女性がたくさんいらっしゃる、ということでした。ここ寺町通りでも、着物姿の女性をよく見かけます。店のガラス戸越しに眺めながら、絵になるなぁと見とれることしばしば。京都の街に着物の女性はよく似合います。
もちろん着物でお越しのお客様もいらっしゃいます。祇園あたりでお店をされている方、茶道や芸能の関係の方、呉服屋さん…。お出かけは着物で、という方。なかには京都だから着物で来た、なんていう観光のお客様も。
様々な会に参加させていただくようになりましたが、やはり着物の女性は必ずいらっしゃいます。着物は洋服以上に個性が際立ち、その方の美しさが光るよう。間近に拝見し、着物にまつわるお話を伺ううちに、いつからか私も着物を着たい、と思うようになりました。
とはいえ時間に追われる毎日。実現は難しいと思っていたところ、素敵な知らせが届きました。手作りカバンの店(http://narrowboat.jp/)を営む友人が「着物部」なるものを発足したというのです。着物の難しい約束事は言いっこなし、気軽に着物で出かけましょう、がコンセプト。定休日がうちと同じのこのお店、開催日はいつも水曜日です。
私にうってつけの部活動。ふたつ返事で入部を表明。って、なんの手続きがあるわけではありませんが(笑)。さっそく去年の8月に初参加となりました。よりによって暑い盛りではありましたが、久しぶりの着物に七五三の子ども状態だった私。着物を着ているというだけで、こんなにも心浮き立つものかと驚きました。
私の生まれ育ったのは、着物などおおよそ馴染みのない家庭でした。成人式の振袖も、たった一日のために親に大きな出費を強いるのは心苦しくて、「いらない」の一言で片づけてしまいました。
結婚の際も、ただでさえ準備が大変な時。「着物はいらない」と言ったのですが、良心的にお世話くださる方もあり、和箪笥にひと通りの着物を持たせてくれることになりました。
そんな着物も、数回着たばかり。次男の中学の卒業式を最後に、和箪笥は開かずの扉になってしまいました。年に一、二度の防虫剤の交換のたび、親に余計な負担をかけたものだと、今でも胸が痛みます。同時に、こんな無駄な着物を揃えてもらうくらいなら、振袖一枚を誂えてもらえばよかった、という後悔の念も。
実のところ、たった一日の我慢と思っていたのは、私のとんでもない誤算でした。成人式に着ることのなかった振袖は、あとあとまで大きな欠落感となって、私の中に根強く残ってしまっていたのです。
着物部に参加するに当たり、改めて、和箪笥を開け、たとう紙を一枚一枚開いてみました。しつけ糸がついたままの着物や帯。まっさらのままの小物のあれこれ。引っ張り出しては、鏡の前で合わせてみたりして。
今からでも着物を楽しんでみようかな。ふと、そんな思いが湧いてきました。二十歳にはもう戻れないけれど、その年齢なりの着こなしを楽しめるのが、着物というものなんじゃないか。
以来、機会を見つけては、着物で出かけるようになりました。といっても、自分で着られない私。着付けは専門の方にお願いし、仁王立ちしてる間に完了、という有様ですが(笑)。
着物を着て撮った写真の中の私は、どれもうれしそう。置き去りにしてきた、遠い日の私が、そこにいるような。「私の中の女の子」は、いたくご機嫌のもようです(ブログ私の中の女の子)。気づけば、長年にわたり着物にまとわりついていた苦い記憶は、どこかに追いやられていました。
なにごとにも最適な時期というものがあります。勉強や経験、人や物との出会い…。あぁ、あの時にできていたら、と悔やむことは限りありません。が…。
心から渇望したものは、時を経て、形を変えて、また目の前に舞い降りてくる。
着終わって、鴨居に吊らされた着物を眺めながら、そんなことを思うこのごろ。まだまだ、たくさんの楽しみを見つけられそうな予感がしています。
生きているって、おもしろい。
評価しない
心と体のこと
2016年12月31日
店を始めてから、すっかり運動不足に。体中どこもかしこも、いつもコリコリ。これではいけないと通い始めたフィットネスクラブ。今ではすっかり生活の一部となりました(ブログ体)。
なかでも仕事終わりの夜に出かけるアロマキャンドルヨガは、体のみならず、心のメンテナンスに欠かせない時間となっています。照明を落としたキャンドルのほの明かりの中、アロマの香り漂うスタジオは、たちまちリラックスモードにいざなってくれます。時に大きな窓から月明かりが射しこむことも。
マットに横たわり、目を閉じて、深い呼吸をすることから始まります。最初はいくらも息を吸い込めず、すぐに吐き出してしまう浅い呼吸が続きます。先生の静かな言葉かけに従って繰り返すうちに、次第に深い呼吸に…。
12月はじめのこと、いつものように始まったこのクラス。この日は、先生からこんな言葉かけがありました。
「評価せず、自分を観察してみましょう」
どうしたことか不意に目頭が熱くなり、閉じた目から涙があふれました。
評価しない…。とても衝撃的な言葉でした。私はといえば、いつもいつも自分を評価しながら暮らしている気がします。なにかをしては、評価する。なにかを考えては、評価する。評価はいつもワンセット。評価しないなんてこと、考えたこともありません。
自己評価が低いね、と言われることがあります。確かに、私の評価はいつも低い。だって、そうなのだから仕方ない…と、そんな自分をまた評価したりして。
店を構えているということは、常に評価にさらされているということでもあります。直接にいただく評価もあれば、見えない相手を想定しながら予測を立てる評価もあり。店を始めてからは、ますます評価することが増え、頭の中はいつも評価でいっぱい。
この評価、そもそもなにを基準にしているのかと考えると、まったくもって心もとない気がします。ハードルを上げれば低くなるし、下げれば高くなる。右に寄っても外れるし、左に寄っても外れる。ど真ん中がいいかというと、それではつまらないらしい。流動的というか、結構いい加減なものかもしれません。
今年春で開店から四年が経ちました。とはいえ、今年は今年の初めてのことも多く、緊張の高い一年でした。その緊張感に支えられ、後押しされ、新しいことにチャレンジしたり、改革したりということができた一年でもありました。
今になってみれば、ああすればよかった、こうすればよかった。もっと出来たろうに、もっとがんばれたろうに。なんて思うことばかり。ですが、その時、その時の自分にとっては、それが最善の判断、最大の努力だったのだなぁと思います。
自分の能力を超えたことはできません。自分の感性に合わないこともできません。評価せず、自分を観察してみる。確かに、それが一番自然で大切なことのようです。
先の涙は、ずっと張りつめていた緊張が解けた瞬間だったのでしょう。そうして、結果の良し悪しを越えて、自分をそのまま受け入れられた解放感、安堵感だったのだと想像します。
この間の学びや反省は、これから検証し、改善していきたいと思っています。そうして将来につなげていくことで、あらゆることは循環し、成長し続けていく。今たちまちに評価を下せることなど、実はなにもないのでは。そんなことに気づいた今年、締めくくりはこれでいきたいと思います。
この一年の自分を評価しない!
きのう12月30日で本年の営業を終了いたしました。たくさんのお客様と出会えた一年。感謝の思いでいっぱいです。ありがとうございました。
新年は1月6日(金)から営業いたします。来年もまた、よろしくお願い申し上げます。皆様、良いお年をお迎えください。
二葉タクシー
心と体のこと
2016年10月25日
先日、偶然乗ったタクシー。三つ葉のマークでお馴染みのヤサカタクシーさん。車体の色も緑の葉っぱも変わらないのですが、なんだか様子が違います。ほんの数台、四つ葉のマークがあると聞きますが、それとも違う。
京都の三大祭りの一つ、葵祭で行列の皆さんが身に着けられる二葉葵(ふたばあおい)のような。運転手さんによると、上賀茂神社の式年遷宮に合わせた期間限定の車だとか。レシートを上賀茂神社に持っていくと、記念品をいただけるとのこと。大切に財布にしまって降りました。
上賀茂神社までは自宅からは自転車で10分ほど。定休日の先日、陽気に誘われ出かけてみることにしました。わずかの距離ですが、久しぶりに走る賀茂川沿いのサイクリングは、やっぱり気持ちいい。着くとさっそくお札授与所へ。ワクワクしながらレシートを巫女さんに渡すと…。差し出されたのは5cmほどのステッカー。
ちっちゃ~い!
いえいえ、大きさの問題ではないですね。ありがたく頂戴しました(笑)。
上賀茂神社は実家からも近く、以前はよく訪れた場所です。高校生の頃、お正月に巫女さんのアルバイトをしたことも。結婚し、子供が生まれてからは、お宮参り、七五三。店を始めるまでは、初詣は決まってここでした。懐かしくて、ちょっと散策してみることに。
陽射しが暑い日でした。境内のはずれを流れる小川の木陰で、ちょとひと休み。二人のこどもが小さい頃、夏になると水遊びに来た場所です。無邪気に遊ぶ、幼い日の二人の姿が浮かぶよう。その様子を眺めながら、慌ただしい日常から離れ、穏やかな気持ちになっている、若い日の私の姿もそこにあるような。
早くに結婚、出産した私。本当に未熟な子育てでした。今なら、もう少し違った対応ができたろうにと胸痛むことばかり。それでも、その時はそれが精いっぱい。それはそれで一生懸命やっていたんだなぁ。
よくがんばりました、私…。そんな言葉が口をついて出ました。
聞こえてくるのは、川のせせらぎと木々のそよぐ音だけ。こんな音を聞くのは何年ぶりでしょう。境内からほんの数メートル歩いただけで、こんな静寂があるなんて。目を閉じると、自分が限りなく透明になっていく気がします。
思い返せば、子育てに限らず、よくやったと思うことよりも、なにをやっていたんだろうと思うことばかり。後悔することは尽きません。時にそんな自分を責めることも。けれど、もう全部、許してやってもいいんじゃないか。そんな思いが湧いてきました。
川のせせらぎと木々のそよぐ音に合わせて、長年、溜めこんでいた澱(おり)が流れ、そうして消えていくような。いただいたステッカーを改めて見てみると、二葉葵は神との出会い幸せを呼ぶ…と書いてあります。
ああ、今、私は神様と出会ったんだ。
日々の慌ただしさに紛れ、なかなか気づけずにいるけれど、神様はいつも身近にいらっしゃるのかもしれません。二葉葵に導かれ、敢えては作れない時間を作り、出向かない場所に出向き、そこで神様に出会えたこと。それがすなわちご利益だったのでしょう。不思議な不思議な時間でした。
ちなみにネットで調べてみると、ヤサカタクシー1400台中、四つ葉は4台。二葉葵は2台とのこと。クジ運などおおよそ縁のない私が、なぜ ? ! あとになって鳥肌が立ちました(笑)。
体の声
心と体のこと
2016年08月27日
ご挨拶が遅くなりましたが、8月17日から21日まで5日間の夏休みをいただきました。ありがとうございます。皆様はどんな夏を過ごされたでしょうか?
私は仕事でもプライベートでも、なにかと考えなければいけないことが多い夏でした。そうしたひとつひとつに、決断や選択をしていかなければいけないところなのですが…。
どうしたことか、私の中のいろんな私が口々に好きなことを言って、頭の中がやたらやかましい状況。いちいち聞いていたらきりがなく、決断を先延ばししたり、選択が二転三転したり。 果ては「カリスマリーダー、早く出てきてぇ~」と叫んだり(笑)。自分でも不思議なくらい優柔不断な状況に陥っていました。
そんな私に、こんなアドバイスをくださる方が。いつも、そのときどきに適切な言葉をかけてくださる人生の大先輩です。
「頭の声より、体の声を聞いてあげてはどうでしょう」
以前にも伺っていた言葉ですが、これが結構、難しい。頭の声はにぎやかで、体の声は控えめ。体の声は頭の声にいつもかき消されてしまいます。
「体は我慢強いのでなかなか弱音を言いません。こちらから聞いてあげないと。頭は嘘をつきますが、体は正直です」とも。
ちょっとショッキングな言葉ですが、確かにそうです。頭の声はまことしやかなことを言います。こうあるべき、とか。これくらいできなくてどうする、とか。その根拠はというと、案外いい加減だったりして。
頭の声に引っ張られて行動していると、いつか無理が生じる気がします。気づけば体はくたくた。体の声はまさしく身をもって語られる言葉。嘘、偽りなく訴えてきます。
昨年、夏休みに入った途端、ダウンしてしまうという苦い経験をしました(ブログユルスナールの靴2)。夏休みに入る直前、決して昨年の二の舞をすまいと、用心深く体に注意を払うよう心がけてみることに。
すると、ずいぶん早い時間から眠たくてしょうがない自分に気づきました。早々にベッドに入ると、たちまち深い眠りに就き、翌朝の体がとても楽。もしかして、本当はいつも眠たかったのかも。なんて思う私に、どこからか「うん」という微かな声が聞こえたような。
たまたまだったのかもしれませんが、私にはとても暗示的な出来事に思えました。自分の体と交信したような感覚。気に掛けられることで、体は安心し、素直な反応を返してくれたのだと思います。お陰様で昨年とはうって変わり、元気な夏休みを過ごすことが出来ました。
体の声は、単に体の好不調だけなく、さまざまなメッセージを送ってくれるような気がします。よりよく生きていくための大きなヒントが含まれているような。まだよくわかりませんが、そんな気がしてなりません。
上の写真は、週に一度通っているアロマキャンドルヨガのスタジオ風景です。ここに来るとたちまちリラックスして、毎回、あくび連発の私。まさに体と向き合い、体の声を聞く貴重な時間となっています(ブログ体)。
日々の暮らしのなかで、体に語りかける時間を増やしていきたい。そうして、体の声を聞き分け、体からのメッセージをキャッチし、よりよく生きていきたい。そんなことを思っています。
まだまだ懸案事項は山積みですが、そんななか答えを出せたことがひとつ。定休日の追加です。9月から現在の定休日、毎週水曜日と第2木曜日に加え、第4木曜日も休ませていただくこととしました。ご迷惑をお掛けしますが、何卒ご理解の程よろしくお願いします。
最後は業務連絡のようになってしまいました(笑)。元気に過ごせたことに感謝しつつ、後半戦もまたがんばっていこうと思う夏の終わりです。