私が苦手だったもの 花

心と体のこと

2015年02月27日

ブログ花

私が苦手だったものシリーズ(ブログ私が苦手だったもの春 私が苦手だったもの京都)今回は花です。私、花が苦手です。なんて、またまた引かれることを書いてしまいました。

自然の造形やアートが大好きな私。美しいものにはとても興味がある方だと思います。花といえば美しさの代表格のようなもの。なぜ? と不思議がられそうですが、花の美しさを愛でる感性だけ欠如しているのかも、としか答えようがありません。

女性は誰でも花を贈ると喜ぶとお思いの男性がいらしたら、今頃、ひっくり返っておられるでしょうか。多分、私が例外中の例外だと思いますのでご安心ください。

しいて言うなら高山植物は好きかもしれません。華やかではないけれど力強い美しさを秘めていて、誰に見られていなくても健気に咲く様は、気高さすら感じます。といっても旅先でのトレッキングの折に見かけるくらい。愛でようにも日常では無理なことです。

たぶん花屋さんに並ぶ花が苦手なのだと思います。色とりどり、華やかで、艶やかで、まさに百花繚乱。我こそは一番美しいとばかりに咲き競う感じが、どうも…。そんな私に変化が…。

「しののめ寺町」は毎週水曜日と第二木曜日にお休みをいただいております。第二週は月に一度の貴重な連休です。が、たまった用事を片づけバタバタしてる間に終わり、なんてことの繰り返し。それでは味気ない。ささやかでも気分転換になるものはないかと考え、思いついたのが花でした。自宅に花を飾ってみよう。いつもは素通りの花屋さんを覗いてみました。

自分のために花を選ぶって、なんて贅沢なことでしょう。たぶん初めてのことだと思います。色とりどりの花の前に立つだけで、心華やぐ気分に。花って、こんなにきれいだったっけ。うれしい戸惑いを感じながら、花を一巡、また一巡。あれこれ迷うのも楽しい時間です。

そんななか、なにかしら心魅かれる花が。ほかの花に目をやっても、やっぱりそこに帰ってくる。気持ちにしっくりくる色と形。数本、購入してみました。たいそうな花瓶では似合わず、ワインの空き瓶に挿してみると、思いのほかいい感じに。華道の心得のない私、自由気ままな自分流です。

ダイニングテーブルに置いてみると、いくら眺めていても飽きることがありません。微妙な色合い、はかなげな形…、見るほどに見入ってしまいます。なにか用事をしていても、ふと目がいき、そのたびに、うふっとしてしまう。私、花を愛でてるやん。

以来、毎月第二週の水曜の朝には花を買うことが習慣に。それがひとつのスイッチとなって、たとえ特別なことがなくても、貴重な連休を特別なものとして味わえるようになりました。

おもしろいことに花屋さんに出かける前から、その日自分が買うであろう花のイメージがはっきりとあります。気持ちが安定している日、疲れている日、苛ついている日…、ときどきの思いが選ぶ花に如実に表れ、予想を外すことはありません。まるで自分で自分の心を占うよう。

自分が選んだ花を眺めていると、幸せな思いは増幅し、不穏な思いは静められていくから不思議です。花の持つ力に驚きながら、正直に反応する心って素敵だなぁ、大切にしないといけないなぁ、なんて思ったり。

そんな花を、私はなぜ今まで苦手に思っていたのでしょう…。

店を始め、いろいろな交流会に参加させていただく機会が増えました。参加者のなかには、一線で活躍されている女性も多く、自身で起業された方も少なくありません。皆さん、華やかで美しく、才気に溢れておられます。まさに百花繚乱。

そんな花々を遠巻きに眺めながら、壁の花になっているのが居心地いいタイプだった私。商売を始めた今、それではせっかくの交流会に参加した意味がありません。気持ちを奮い立てて、花々の近くへ一歩二歩。

高嶺(たかね)の花と思っていた方たちが、皆さん気さくに迎えてくださることは大きな驚きでした。華やかな美しさに気後れし敬遠していたのは、私の勝手な思いこみだったのかもしれません。花も人も…。

鮮やか色の大輪の花も、淡色の小花も、どれも等しく美しい。なんていうと、どこかのグループの歌のようですが、本当にそうだなぁと思うこのごろ、切に願うことがあります。今さらですが…。辛辣なツッコミ覚悟で書きます。

私は私の花を咲かせたい!

失礼しました(笑)。

 

三日月

心と体のこと

2015年01月31日

今の季節、店からの帰り道は真っ暗。なんとなく見上げた夜空に月が、ということがよくあります。形や大きさ、光の具合など、日ごとに違う月は、見つけるたびにささやかな驚きがあり、私のお気に入りの時間です。

元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く…

とは雑誌「青鞜」の平塚らいちょうの言葉です。明治の時代、女性の不遇を月に例えて書かれた有名な一節、確か教科書で習ったような。

偉い方にたてつく気は毛頭ありませんが(笑)、華やかなものが苦手な私は、太陽より月が好きです。燦々と照りつける太陽の光より、煌々と照る月明かりに魅かれます。

人の体は月の満ち欠けと連動していると言われます。なかでも女性の体との関わりは深いとか。さらに心のありようが月に左右されるという話も。真偽はともかく、月を眺めていると神秘的なパワーを感じるのは確かです。月に魅かれるのは、そんな力のせいかもしれません。

なかでも私は三日月が好き。鋭利に尖った先で指を切りそうな三日月は、シルエットがいかにもアートっぽい。絵本では三日月が人の横顔になっていたり、メルヘンな雰囲気もいいですね。うさぎがお餅つきしている満月もいいけれど、やっぱり私は三日月が好き。

実のところ、三日月が好きな理由は別にあります。あれも出来ない、これも出来ない。ひとが持っていて、私が持っていないものが山ほど…。そんな欠落感をいっぱい抱えた私は、三日月に自分の姿を投影してしまうのです。欠けた部分が多ければ多いほど親近感が湧くのです。満ち足りた満月はなにやら落ち着かない。

先日のこと、見上げた夜空に私好みの三日月が。あぁ、これこれと愛でながら、ふと思いました。三日月はそういう形の月だと思って見ていたけれど、本当にえぐられているわけじゃないんだ。欠けているように見えるところも、ちゃんと月で、月はいつも変わらず、まん丸なんだ、って。

目からウロコ、とはこのこと。大発見した感動に、ひとり興奮してしまいました。相当な馬鹿でしょうか。確かに理科は小学校以来、大の苦手です(笑)。

思えば私が自分に欠けていると思っているところも、実は欠けているわけじゃないんじゃないか。苦手だったり、持ち合わせていなかったり、それはそうに違いないけれど、それは欠けているのとはまた違っていて、それも私。そういう私。だからこそ私…、なのかもしれない。

欠けた三日月と思っていた私、本当はまん丸お月様だったのかもしれない。

「しののめ寺町」を始めて、もうすぐ三年になります。この間に出会った多くの方々に四方八方から手を差し伸べていただきました。それはまさに光でした。私が欠けていると思っていたところにも、あまねく光を当てていただき、そうして気づいたことです。

私はきっと、自ら光を放つ太陽タイプではなく、光を当てられて輝く月タイプなのでしょう。平塚らいちょうさんに知れたら、どやされそうですが(笑)。

今日は早、一月最後の日。年明けから反省ばかりの一ヶ月でしたが、そんな自分も責め過ぎずにおこうかな。今年はそんな自分であれたらいいなと思っています。

私の心の中の瓶

心と体のこと

2014年08月15日

少し以前から「痩せたね」とよく言われるようになりました。ダイエットしているわけでなし、自分ではよくわかりません。開店当初の写真を見てみると、ほっぺたを赤く塗ったらアンパンマンか(笑)というくらい丸々としています。確かに痩せたような。

美容上はうれしいことです。が、店をやっていくには体が基本。時期を同じくして体力も落ちてきているような。連動して気力までもが…。これはもう喜んでいる場合ではありません。

思えば、店を始めて以来、落ち着いて食事をする習慣がなくなってしまったようです。朝食時、パンをかじっていると、電子レンジがチン! 座ると今度は洗濯機がピピッ! 店での昼食は言うに及ばず。やっとゆっくりできるはずの夕食も、慌ただしい準備と後片付けの合間にささっと済ませがちに。

摂取カロリーが消費カロリーを満たしていない。必要な栄養やエネルギーがちゃんと行きわたっていない。不足分を我が身を削って使い始めているわけで、そりゃあ、しんどいはずです。体だけじゃなく、心にも同じことが起きているんじゃないか。よくよく自分を見つめてみると…。

ここから変なことを書きます。

よくはわかりませんが、私、気配とか気とか、そういうものを感じやすい体質(?)みたいです。霊が見えたことはありません。ただ感じたことがイメージとして視覚となって表れることがよくあります。

5、6年ほど前になりますか、夜、いつものようにベッドに入った時のことです。突然、私の心の中に瓶が一本現れました。口が狭くて、色がついていて半透明。ちょうどワインの瓶のような。

その中に液体が注ぎ込まれていきます。工場で詰められるみたいに、シャーと勢いよく噴射された液体がガラスの内面を伝って底に落ちていきます。勢いからいくと、あっという間にいっぱいになりそうなものなのに、底1cmくらい溜まったばかりでいっこうに増えません。

瓶の中の世界と、私の住む世界では、時間の流れや量の単位がきっと違うのだろう。この調子だと瓶いっぱいになるには数か月、あるいは数年、数十年かかるかも、なんて考えながら眠りに入っていきました。

次の夜もベッドに入ると心の中に瓶が現れ、また液体が…。相変わらず1cmから増えません。そんな日が何日続いたでしょうか。

その日はうれしい日でした。偶然にも友人にまつわるものばかり。うれしい便りだったり、電話だったり、いただきものだったり。ひとつひとつはささやかですが、三つ重なったことがうれしくて、手帳に書き留めたくらいです。

いい気分でベッドに入ると、いつものように瓶が現れ、いつものように液体が注ぎ込まれていきます。もう見慣れた光景にうとうとした時、ゴボゴボっと聞きなれない音が。見ると瓶の底から三分の一くらいまで溜まっています。わぁ、と驚いていると、またゴボゴボっという音。見る間に三分の二に。またまたゴボゴボっといったかと思ったら、あっという間に瓶の口いっぱいまで満たされていました。

以来、私の心の中には瓶が一本。大切に抱えて暮らしてきました。

瓶はこんこんと湧き出る泉のよう。店を始めてからも、溢れんばかりのたくさんのものを放出してくれました。私のエネルギーの源です。

気づけば、忙しさに紛れて瓶の存在をすっかり忘れていました。久し振りに現れた瓶、中身は空っぽ…。

こんこんと湧き出ると思っていたのは間違いで、使ったら補うことが必要だったようです。使ってばかりで、さっぱり補充しないものだから、せっかく溜めたストックが文字通り底をついたもようです。

備蓄作戦開始! 

食事時、空腹が少し満たされると、さぁ後片付け、と立ち上がるところを、もう二口、三口食べてみる。栄養やエネルギー、私の血となれ肉となれ、私の体の隅々まで行きわたれ、なんて思いながら。

「ストック、ストック」呪文のように唱えます。瓶の中にまた液体が注ぎ込まれていきます。

欲しいと思っていたものを買ってみる。自分にご褒美「ストック、ストック」。朝の慌ただしい時間、ちょっとCDをかけてみる。心にも栄養「ストック、ストック」。観たかった映画に出かけてみる。感性にもエネルギーをチャージ「ストック、ストック」。なにをやっても「ストック、ストック」…。

そんなことを心掛けていると、自然と自分に意識が向くように。それだけで満たされた気分を味わえるから不思議です。

私の中では「私」が中心…で、いいのかも。

劇的な瓶との出会いから数年、私の感度もちょっと鈍ったのか、現在の中身がどれくらいか不明です。また私が油断しないように、見えなくしているのかもしれません。これからは使ったら補充を心掛け、地道に溜め続けるんだよ、って戒められているような。

不思議な瓶、どこからやってきたのか、どなたから授かったのかわかりませんが、これからも大切に胸に抱いて暮らしていきたいと思います。二度と中身を枯れさせることのないよう気をつけて。

今度お目にかかった時、「太ったね」との声掛けはご遠慮くださるようお願いします。

茅葺きの宿 長治庵

心と体のこと

2014年04月22日

前回のブログ天狗おじいさんは思いのほか多くの方に読んでいただいたようで、うれしく思っています。きっと皆さんの心の中にもそれぞれの天狗おじいさんがいらっしゃるのでしょう。あのあと私にも天狗おじいさんの娘だの背後霊だのと名乗る方が現れ、驚いているところです(笑)。

天狗おじいさんもさることながら、写真だけ載せた「長治庵」というお宿、こちらが気になられた方もあったかもしれません。今回はそのお宿のことを書いてみようと思います。

私が好きな滋賀県湖北というのは木之本あたり、とてものどかな地域です。集落ごとに観音様が祀られ、今も地元の住民の皆さん自らの手によって大切に守られています。観音様はもとよりこうした土地柄に心惹かれ、たびたび足を運ぶようになりました。

好きなあまり、生活に溶け込んだ気分を味わってみたいとまで思うように。民話に出てきそうな茅葺屋根の宿「長治庵」さんのことを知ったときは、飛び上るほどうれしかったです。

レンタサイクルで木之本の観音様巡りをしたあと、駅前から一日数本しかないバスで一路、お宿へ。バス停の数から距離を推測していたのですが、山中ではバス停とバス停の間隔がべらぼうに長くなることを知りませんでした。時間はすでに夕方、バスの乗客はほとんどなし。不安になるくらい山中を分け入ったところで、人里らしい気配が…。

写真で見た通りの茅葺屋根の建物の前に立った時には、本当にほっとしました。かつては富山の薬売りの方が行商の途中に泊まられていたとか。往時が偲ばれる趣のあるお宿です。

冬には雪深い地域、桜の季節はまだ肌寒く、部屋にはこたつが置かれていました。もぐりこむと、なんだか田舎に帰ってきたような気分に。田舎のない私なのに不思議です。(ブログふるさと

夕食は母屋で。地元で採れた山菜、地元猟師さんが仕留められた鹿のお刺身、猪の鍋、熊のすき焼き…。締めはご主人自ら作られたコシヒカリのごはんがお櫃に入れられて。なんという贅沢、まさに地産地消です。珍しい食材も気取りなく調理されていて、それはそれは美味しかった…。しかも申し訳ないくらいリーズナブルなお値段です。

もてなしてくださる女将さんが控え目で、また素敵でした。

宿泊客は私ともう一組、衝立の向こうから聞こえてくる話し声から、関東から来られた熟年ご夫婦のようでした。ネットで検索して偶然見つけられたらしいご主人が「素晴らしい」を連発。ご満悦な様子がひしひしと伝わってきます。クールな反応の奥様に変わって、私は心の中で何度も相槌を打って差し上げました(笑)。

入浴後、廊下に並べられた雑誌の中に「きのもと七選」という冊子を見つけました。このあたりの歴史や風土、風習をまとめたもので、湖北好きの私には垂涎の一冊。部屋に持ち帰り、眠くなるまで読みふけりました。

翌朝、女将さんに販売されていないか尋ねると、なにかの記念に作られたもので販売はされていないとのことでした。

帰宅した翌日、大きな封筒が届きました。開けてみると、驚いたことに「きのもと七選」が。長治庵の女将さんがすぐに在庫を探してくださったのでしょう。たくさん残っていましたから、と手紙が添えられていました。うれしいやら、有り難いやら。忘れられないエピソードです。

今も本棚のすぐ手の届くところに置いています。店を始めてからは忙しく、木之本までも出かけられずにいますが、開くといつでも懐かしい思いが蘇ります。

美味しい料理の記憶には、温かいひと、温かいもてなしが必ず伴っているように思います。青森の佐藤初女さん(ブログ佐藤初女さんのこと2)、沖縄宮古島の千代さん(ブログ宮古島 農家民宿津嘉山荘)然り。

思えば素敵なお手本となる方たちに出会ってきたものです。私は、ここ京都で、寺町で、どんなことができるでしょう。そんなことを思っています。

天狗おじいさん

心と体のこと

2014年04月13日

また春がやって来てしまいました…。(吐息、笑)

去年のブログ私が苦手だったもの、春書きましたが、どうにも春が苦手な私です。いい陽気のなか、お客様が晴れやかな表情で来店くださるのを拝見し、春もいいものだなぁと思うようになってきたのですが…。

もともと人でも物でもなににつけ「気」を察知しやすい性質、春が近づくと大気中から、土中から、あたりに満ち満ちてくるエネルギーに圧倒されてしまいます。普段から世の中とズレ感のある私は、ますます置いてきぼり感にさいなまれ、気分が落ち込みがちに。

寒暖の差の激しいこの季節は体調管理も難しく、今年は桜の開花宣言と共に風邪をひいてしまいました。眠いのは薬のせいと思っていたら、治ってもまだ眠い。ただただ眠い。春なのに冬眠したい気分。でも頑張らねば。馴染みのあるこの感覚…。

ああ、やっぱり春は苦手なんだ、と思い至る次第です。

結構気合を入れて書いているこのブログ、気力が続かず、いざ書こうと思ったら、私の不調が移ったのかパソコンがが不具合に(笑)。そんなこんなで間が空いてしまい申し訳ありません。

そんな春を過ごしながら、思い出される記憶が。三年前の出来事です。

随筆家、白洲正子さんの紹介で滋賀の湖北の観音様のことを知り、たびたび足を運んでいたのですが(ブログ観音様のお導き)、湖北のそのまた山奥に民話に出てきそうな宿を見つけ、その春、一人で出かけたのでした。

京都の桜が終わった頃で、冬には雪深いそのあたりは、ちょうど満開の時期でした。といっても京都の喧騒からは考えられないのどかさです。

宿で心づくしのもてなしを受け大満足の翌朝、これを逃すと数時間来ないバスに乗るために早めにバス停で待っていました。すると高齢の男性が近寄ってくるなり、大きな声で「あんた、誰や?」と。

このあたりは住民同士、皆が顔見知りなのでしょう。見かけない顔の私に驚かれたようです。訳を話すも耳が遠い様子、私も大きな声で旅行者であることを伝えました。

納得がいかれたおじいさん、私をしげしげ眺め「このごろのおなごは若々しいのぉ」と。そもそも何歳の設定で話されているのか不明で、私は「いえいえ」と笑ってごまかすばかり(笑)。するとおじいさん、「いいや、あんたは若々しい! それに生き生きしとる!」とますます大きな声で。

三年前の春といえば「しののめ寺町」開店の一年前です。当時「ほぼ専業主婦」だった私は、世のためにも人のためにも役に立っていない自分に不全感を募らせていました。ましてや季節は春、ますます落ち込む気持ちにいたたまれず、一泊ではありますが日常から逃避してきたような次第。褒められることなんて一つもありません。

今度は笑ってごまかす訳にいかず、「いえいえ」と大きく首を振り強く否定しました。するとおじいさん、語気を強め「わしは嘘はつかん、お世辞はよう言わん男や。ホンマ、あんたは生き生きしとる!」と。

胸にドンときました。余計な謙遜はむしろ失礼、当たっていてもいなくてもその言葉をありがたくいただこうと思いました。「ありがとうございます」と素直に礼を言うと、おじいさんは「うんうん」と頷き、「ホンマに生き生きしとる!」とそのあとも何度も繰り返されました。

山あいの静かなバス停、青空を見上げながら、自分が思うより案外生き生きと生きているのかも。模索しているだけであっても、それはそれで懸命に生きているということなのかも。そんなことを考えていました。

先にバスを降りたおじいさんの後姿を見送りながら、ふと、おじいさんは山の天狗だったんじゃないかと思いました。元気のない私を励まそうと人間に姿を変えて山から下りてきてくれたんじゃないか、と。なにやら身に合っていない背広、なにやらかみ合わない会話、高齢の割に軽やかな身のこなし…。駅前でバスを降りた時には、そうに違いないと確信していました。

春が来て、元気を失くすと、あの天狗おじいさんを思い出します。また会いたいなぁ。そうして大きな声で「あんたは生き生きしとる!」と言ってほしいなぁ。

気づけば、京都の街中でも、そんなふうに私を励ましてくださる方に出会えるようになりました。天狗おじいさんはいろいろな場所に、いろいろな姿で現れてくれるようです。

春の気配にも馴染んできたこのごろ、私の調子も戻りつつあります。今年度もよろしくお願いします。

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