自分は大事ですもの
心と体のこと
2015年06月17日
常々、不思議に思っていることがあります。
たまたまお越しくださったお客様が、ちょうどその時の私に必要な言葉をかけてくださることがあるのです。それがあまりに絶妙なタイミングなもので、神様からのメッセージを携えた遣いの方なんじゃないかと思うほどだったりして。
先日のこと、杖をついた高齢の女性がお一人で来店されました。月に一度、近くの病院までリハビリに通っておられるとのこと。なんでも少し前に脳梗塞を起こされながらも、ご自身の判断でかかりつけのお医者様にすぐに連絡された由。対応が早かったため軽い後遺症で済んだと、明るく話してくださいました。
ささいな前兆を見逃さないこと。遠慮などせずにただちに行動すること。その大切さがお元気そうな姿から、よく理解できました。その直感力と瞬発力は素晴らしく、明暗を分ける大きなカギだったでしょう。私もいろいろな病気が気になる年齢、もしもの時にはこうありたいと思いますが、意外に難しいことなのではないでしょうか。そこをお尋ねすると…、
「自分は大事ですもの」
と、こともなげにお客様。あまりにシンプルな答えに驚き、お客様の顔に見入ってしまいました。そんな私をよそに、ただただにこやかな表情。あぁ、この方はご自分のことを誰よりもよくご存じで、誰よりも慈しんで生きてこられたんだなぁ。だから自分の小さな変化にも気づけるし、大事な自分を助けるためなら余計な遠慮など二の次にできるんだなぁ。そう思いました。
入院中、相部屋だった遠方の方にじゃこ山椒を送ってあげたいとのこと。その方との思い出話を伺いながら、自分を大事にできる人は他人をも大事にできるのだとも思ったり。
通院のついでに食事や買い物を楽しまれていること、趣味の文楽や俳句のことなども話してくださり、最後に「今日は興奮しちゃったわ」といたずらっぽく笑って帰って行かれました。そのうしろ姿を見送りながら、自分を大事にするって、こういうことなんだなぁと思いました。うまく書けませんが。
自分を大事にしないと、とは店を始めてから特に意識的に思っていることです。ただ、その大事にすべき自分が一体どういう人間なのか。それを本当にわかっているかというと、そもそもそこが怪しい気がします。
人から見えている自分と、自ら認識している自分、その間にはズレがあるものではないでしょうか。若い頃ぽっちゃりだった私は、今でも自分のことをぽっちゃりだと思っています。たまにひとから「華奢ですね」とか言われると、それって誰のこと? とあたりをキョロキョロ見回す自分がいます(笑)。ある時期に刷り込まれた自己イメージが根付いてしまうと、それを払拭することはなかなかに難しい。
「ほぼ専業主婦」が長かった私。開店を機に自称「にわか女将」になりましたが、いつまでたっても「ほぼ専業主婦」の自己イメージが拭い去れていないことに気づくこのごろです。それを隠れ蓑に、出来ないことの言い訳に使っている自分がいます。いえいえ私なんて、と言っているのが、謙遜しているようで実は居心地いい自分がいます。
一方で開店から3年と3ヶ月。事情はどうあれ、経緯はどうあれ、この間、店を開け、店に立ち、店を維持してきた年月の積み重ね。そこには自己を更新し続けてきた自分がいます。
私に私が追いつけない。
そのズレが自分をしんどくしているのかもしれない。そんなことを思っていた矢先のお客様の言葉…「自分は大事ですもの」。
それ以前の私も大事だけれど、今の私はもっと大事。今の私にぴったりフォーカスを合わせよう。自分を正しく認識し直そう。それこそが自分を大事にする第一歩なんじゃないか。
私は「しののめ寺町」をやっているひと。
宣言するほどのことでもありませんが、私にとっては大きな変化です。今さらと呆れられても、まだ早いとお叱りを受けても、書かずにはおれません。
そんなことを思う私でありますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。
逆説の10カ条
心と体のこと
2015年05月15日
前回のブログでは体に思いを寄せることの大切さを書きました。心身ともに健康で美しくありたいと(ブログ体)。その尻からですが(笑)4月半ばから喉を傷め、それをまたこじらせてしまいました。
お医者様の開院時間に受診するのは、働く身にはなかなか難しいことです。段取りを整えながら通院、服薬を続け、ようやく完治したところです。体は元気だったのが幸いでしたが、どこかに不調を抱えているというのは、なにかしら大変なものです。
体調がすぐれないと、ただでさえ気弱になるものですが、店のことがあるとなおさらです。明日、店に出られないほどひどくなったらどうしよう。もっと重篤な病気の前兆だったらどうしよう。今回は事なきを得ても、未来永劫、健康が続くわけじゃなし。いつかは…。
気にかかることは、健康以外にもたくさんあります。あれこれ案じ始めると切りがなく、悪い妄想はふくらむばかり。「店を開ける」ということは、なんでもないようでいて、実は奇跡の連続にほかならないと思っています。決しておおげさでなく。そんな時、最近、出会ったばかりの言葉を思い出しました。
何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築き上げなさい。
マザーテレサも感動し引用したことで世に広まったという処世訓「それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条」(ケント・M・キース著)の中の一節です。
一見、あまりに悲観的な表現にたじろぎますが、まさに逆説! その裏側にとても楽観的、能動的、底抜けの明るさを感じ、印象深く記憶していました。10カ条それぞれに含蓄のある言葉が綴られていますが、私はこの一節が一番好きです。
改めて本を購入し、読んでみました。不条理なことだらけの世の中にあって、基準を自分自身に置いてみることの大切さが一貫して説かれています。それは胸のすくほどにシンプルで、なにがあってもブレない無敵なものに思えました。
何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築き上げなさい。
何年もかけて築き上げられたものが一夜にして崩れ去る例は枚挙にいとまがありません。誰もが明日は我が身です。けれど…。
私は、築いている今が楽しい。私は、築いている自分が好き。私にとって、それは一夜にして崩れ去るかどうかよりも大切なこと。
ならば、明日を案じることよりも、今日、築き上げられることに心を向けよう。そう思いました。
長くなりますが、参考までに10カ条を書き留めてみます。
1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。
2 何か良いことをすれば、
隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
3 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。
それでもなお、成功しなさい。
4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
5 正直で率直なあり方はあなたは無防備にするだろう。
それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。
6 もっとも大きな考えをもったもっとも大きな男女は、
もっとも小さな心をもったもっとも小さな男女によって、
撃ち落とされるかもしれない。
それでもなお、大きな考えを持ちなさい。
7 人は弱者をひいきにはするが、勝者のあとにしかついていかない。
それでもなお、弱者のために戦いなさい。
8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きあげなさい。
9 人が本当に助けを必要としていても、
実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
それでもなお、人を助けなさい。
10 世界のために最善を尽くしても、
その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。
心に響く言葉がありましたでしょうか? 素晴らしい本に出会えた感動と共に、店への思いを少しでもお伝えできたなら、うれしいです。
体
心と体のこと
2015年04月29日
店を始めて以来、すっかり運動不足になってしまいました。そのうえパソコンに向かう時間が長くなり、もともとの肩こり症はひどくなる一方。立っている時間が長い日は、足はむくむは腰は疲れるは。絶えない緊張のせいか、背中はいつもパンパン状態…。楽しい仕事ですが、体には悪いことばかりです(笑)。
体が資本の商売、これではいけないと、一年半ほど前に自宅近くのフィットネスクラブに入会しました。店の定休日や夜遅い時間を利用し、ピラティスやヨガのプログラムに参加しています。
通えても週に一、二度です。まわりで華麗なポーズをとる方々を尻目に、私はというと、体は硬いしバランス感覚はないし。とうてい見られた様ではありません。テレビCMや新聞の折り込みチラシにあるような、劇的なビフォー・アフターなど望むべくもありません。
それでも、今、だらしない姿勢をしているなと気づいて正してみたり。呼吸が浅いなと気づいて、深呼吸をしてみたり。ということが増えてきました。目に見える効果はなくても、少しずつ体や意識に浸透してきているようです。
このスタジオ通い、体のためにと始めたのですが、体のためだけではなかったなぁと思うことがよくあります。たとえばヨガのポーズで、手や足の位置を指示されたあとに語られる先生の言葉…。
「今いる位置がしんどいと思ったら、変えてみることができます。床につく手の位置がもう少し前だったり、うしろだったり。開いた足の幅がもう少し広かったり、狭かったり、足首の角度がもう少し内向きだったり、外向きだったり…。自分が心地いいいと思えるポイントを探してみましょう。それは呼吸が教えてくれます」
言われた通りに微調整していると、確かにそういうポイントがあることに気づきます。無理のある位置では、息が詰まるような。無理なくいられる位置では、息がスムーズに通るような。「自分の位置」を探しながら、それってそのまま心に置き換えることができるなぁと思ったり。
あるいは深い呼吸を繰り返しながら語られる先生の言葉…。
「吸う呼吸に合わせて、いいエネルギーを体いっぱい取り込みましょう。髪や指の先、細胞にまで行きわたらせることができます。要らないものは、吐く呼吸にのせて手放すことができます。痛み(傷み?)だったり、ストレスだったり」
体に思いを寄せることは、心に思いを寄せること。体のありようは、心のありよう。スタジオでのエクササイズは、そんなことを教えてくれます。
心は目に見えませんが、体はここにあります。心は扱いにくいけれど、体は扱い慣れているものです。体と向き合う時間を持つことは、心にとっても大切なことだなぁ。そう実感するこのごろです。
「美しいひとには意味がある。なんとなく美しいひとはいない」
ピラティスの先生の名言です。
強く、美しく、しなやかな体と心を持った女性。立ち姿から、素敵な暮らしぶり、仕事ぶりまでもが感じ取れる女性。憧れです。
とうてい叶いませんが、それでも少しでも近づけるよう、地道な努力を続けていきたいと思います。一日でも長く、元気で店に立っていられることを願って。
桜
季節のこと
2015年04月14日
今年の春、皆様、どんなお花見を楽しまれたでしょうか? これからという地域の方もいらっしゃるかと思います。京都はおおむね4月に入ってすぐのころに、見頃のピークを迎えました。とはいえ雨が多く、お花見日和といえる日は数えるほどだったような気がします。
以前のブログ私が苦手だったもの 春で書きましたが、なにやら世の中が浮き立つ「春」という季節、いつも置いてきぼり感にさいなまれる私には、気分の落ち込む苦手な季節でした(ブログ天狗おじいさん)。店を始めてから少しは克服できたかと思っていたのですが…。
前回のブログ可能性では、目の前の可能性に果敢にチャレンジしていきたい、なんて威勢のいいことを書きました。有言実行、さっそく取りかかっていますが、どうもスピード感に欠けるような。計画しながらも、今一歩が踏み出せずにいることもたくさんあります。
可能性をものにできるだけの力が、果たして私にあるのだろうか。不安がよぎるや、たちまち足踏み状態に。とうてい果敢にとはいかない現状です。
そんな不甲斐ない私を尻目に、桜は一気に開花し、咲き切ったと思うや、惜しげもなく散っていきました。見る間に移ろう季節のうしろ姿を追いながら、その背中に指先すら触れることができない私…。
やっぱり春には追いつけない。
写真はかの有名な円山公園のしだれ桜です。春が苦手な私も、これを見ないことには春が始まらない、というくらい大好き。去年、閉店後に思い余って出かけた折にカメラに収めたものです。
近年は傷みも激しく、かつての華麗さはないという声をよく耳にします。それでも見事な立ち姿。痛々しさまでもが美しく、まるで老いてなお妖艶な女性を見るようです。えもいわれぬ気品と色香。はかなげだけれど雄々しくて、なににもおもねらない孤高の美。対峙するたびに息を飲み、立ちすくんでしまいます。そんな大好きな桜も、残念ながら今年は行きそびれてしまいました。
追いつけないまま、また春が行っちゃった。
今年もやっぱり置いてきぼり感にさいなまれ、気分が落ち込みがちなこのごろ。まだまだ春が苦手なのかなぁ。
いやいや、今年はかつての置いてきぼり感とは少し違う気がします。春のスピードに追いつけないでいるだけで、今の私はたとえゆっくりでも前に進んでいるんじゃない? 追いつけないもどかしさは、懸命に背中を追っているからこそ感じる思いなんじゃない?
ただ愛でるには、桜はあまりに美しすぎる。そう思うのは私だけでしょうか。私にとって桜は、畏れにも似た憧れです。たとえ追いつけなくても、ずっとその背中を追いかけていたい。その思いを新たにするのが、春という季節なのかもしれません。
京都の桜もすっかり終わる頃、そんなことを思う私です。
私が苦手だったもの 兄
心と体のこと
2015年03月18日
私が苦手だったものシリーズ(ブログ私が苦手だったもの春 私が苦手だったもの京都 私が苦手だったもの花)今回は兄です。またまたひんしゅくを買いそうな(笑)。
私は三歳年上の兄と二人きょうだいです。この兄というのが子供の頃から勉強がよく出来て、スポーツでもなんでも難なくこなす優秀なひとでした。学校に行けば、どこからともなく兄の評判が聞こえてくる。親戚が集まれば兄は皆から褒められヒーローのよう。
かたや妹の私はというと、なにをやってもドンくさい。兄にひきかえ影の薄い存在でした。母にとって兄は自慢の息子。私はどうもパッとしない娘だったように思います。どうしたって兄には敵わないという思いが、私にはずっとありました。兄に甘えるなんてことは一度も思ったことがなく、邪魔をしちゃあいけないとさえ幼心に気を遣っていたように思います。
日本では身内のことは謙遜することになっているようですが、兄は私にとって、身内であって身内でないような。自慢も謙遜もできない、近くて遠い存在でした。
やがて兄は大学進学と共に家を出て下宿生活を始め、就職後は国内はもとより、海外も転々とする生活に。お互い結婚もし、文字通り遠い存在になってしまいました。
そんな兄との距離が少し近くなったのは、10年ほど前でしょうか。実家近くに暮らす私が、遠方で暮らす兄に、老いていく両親の近況を伝えたり、相談したりといった必要に迫られ、パソコンでメールをやり取りするようになった時です。
本題のあと、話題はときに幼い日の思い出話に及ぶことも。互いの記憶を突き合わせ、そうやった、そうやったと納得することもあれば、へぇ、そうやったん? と意外に思うこともあったり。他人行儀な言葉を使う距離感でしたが、暗くなりがちな時期のささやかな楽しみだったことを覚えています。
そんなやり取りも一段落。実家は今はもうなく、私も店を始め忙しくなり、また遠い存在になってしまいました。兄は今は名古屋に単身赴任中。実際は京都からは新幹線を使えばあっという間、会おうと思えばいつでも会える近さですが…。
開店を機に初めて商売に携わった私、大変ではありましたが、怖いもの知らずの強みもあったように思います。いろいろなことがわかってくるにつれ、怖さを感じるようになってきました。3周年の節目を前に、この漠とした不安を誰かに聞いてほしい。聞いてもらうだけでいいから…。そう思った時、浮かんだのは兄の顔でした。年度末で忙しいかと案じながらも連絡をしてみました。
定休日の3月11日、仕事の段取りをつけてくれた兄と、夕刻、名古屋駅で待ち合わせをすることに。方向音痴の妹が迷子にならないよう、宿泊予定のホテルからも、駅からもわかりやすいビルを食事場所に選んでくれました。
食事の席に着き「どうした?」と聞かれた途端、急にこみあげるものが。張りつめていたものが緩んだのでしょうか。店のこと、家族のこと、これまでのこと、これからのこと、せきを切ったように話しました。「冷めないうちに食べなさいよ」と食事を勧める兄の言うことも聞かずに(笑)。
聡明なうえに、長年企業の最前線で働いてきた兄。理路整然と明瞭、的確に話してくれる内容は、私の混沌を一気に整理してくれました。最後に会議の議長のように結論を取りまとめ、翌朝の朝食のアドバイスをし、ホテルの前の信号まで私を送り、足早に駅へと消えていきました。
やっぱり兄には敵わない。
信号が青に変わるのを待ちながら、その見事さに笑ってしまいそうなくらい、私の心は軽くなっていました。そして横断歩道を渡り終えたところで、兄にお土産を渡すのを忘れていることに気づきました。長い信号待ちのあとのことです。雑踏の中でとうてい追いつける自信もなく、そうしてまで渡すほどのお土産でもなし。そのまま持ち帰ることに決めました。
やっぱりドンくさい妹やぁ。
兄の前ではいくつになっても妹だったなぁと思います。ちょっと違っていたのは、一度も甘えたことのない兄に、初めて甘えられたこと。やっと気づきました。兄に敵う必要なんてどこにもなかったんだと。兄に妹が甘えるのは、ちっとも悪いことではないんだと。
3年前の開店の朝、兄から花と共にこんなメールが届きました。「寺町という最高の場所を与えられたということは、神様が味方してくださっているんだよ」。その言葉はいつも私の心の支えでした。
これから、ますますがんばっていかないといけないけれど、しんどくなったらまた兄に甘えてしまおうかなぁ。ただし手厳しい兄は、必要以上の甘えは許してくれないはず。そのへんを見極めながら、うまく甘えていけたらいいなぁ。そんなことを思いながら、やっと妹らしくなれた自分を感じています。
名古屋に出かけた3月11日は、花を買うと決めている連休の初日、奇しくも東北の震災からちょうど四年目でした。写真はその日選んだ花です。ピンポンマムという名の可愛らしい菊。白い色、まん丸の形。哀悼のお思いと共に、幼い日の無垢な思いが蘇ったのではと思います。
お陰様で3月16日、3周年を迎えることができました。ひとえに皆様のご愛顧のお陰です。こんな私でありますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。