素敵な女性
2022年03月07日
倚りかからず
茨木のり子さんという詩人をご存知でしょうか? 名前はご存じなくても、こんな一節を聞かれたことがあるかもしれません。
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ
彼女の代表作と言っていい詩の一節です。
このブログでもずいぶん以前に書いた記憶があります。調べてみると2012年4月。開店の一ヶ月後でした(ブログ自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ)。その三日後、立て続けにもう一つ(ブログ廃屋)。
いずれも心をえぐるような、容赦ない言葉が並ぶ詩です。
激変した生活のなか、戸惑う自分に喝を入れるために書いていたんだなぁと思います。折に触れては思い出し、自分への戒めとしてきた2編です。
先日、たまたまつけたテレビで、彼女の特集番組を見る機会がありました。なんでも長引くコロナ禍のなか、今また注目が集まっているのだとか。
一寸の揺るぎもない彼女の言葉は、混沌の時代を生きる私たちに、一つの指標となるのかもしれません。
番組は、その一寸の揺るぎもない言葉が生まれた背景を伝えていて、とても興味深いものでした。
大正15年生まれの茨木のり子さん。若き日に戦争を体験。いともたやすく軍国少女となってしまうも、19歳で終戦。信じていたはずの価値が、あっけなくひっくり返るのを、多感な年代に目の当たりにすることに…。
その体験が、なにものにも翻弄されることなく、自分の感性を信じ、個として生きる決意を打ち立てさせたようです。
綴られる厳しい言葉は、実は自分自身に向けられたものとのこと。だからこそ、読んだ誰もが我がこととして向き合えるのでしょう。
コロナ禍に限らず、さまざま生きにくさを感じることの多い現代。彼女の詩がまた注目を浴びるのは、いつの時代も抱える課題は普遍、ということなのかもしれません。
番組内で「倚(よ)りかからず」という詩が紹介されていました。茨木のり子さん、73歳の時の作品です。
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
無駄な言葉が微塵もない、なんと潔い詩でしょう。縮み上がるばかりで、私なぞは到底この域に至ることはできないと思います。
ただ、私もそこそこ長く生きてきて。少しは経験を積んできて。最近、気づいたことがあります。それは…。
答えは自分の中にある、ということ。
なにが正しくて、なにが間違っているか。判断してくれるものが欲しくて、ずいぶんあちこち探し回ったけれど、そんなものは、どこにも見つからなくて。よくよく見たら、はじめから自分の中に用意されていたじゃないか、みたいな。
自分の目と耳を信じ、自分の足で立ち、なにものにも倚りかからずに生きていく。とても、とても、困難なことだけれど、そんな私でありたいな。
助け合ったり、寄り添ったり、そういうことは素敵だけれど、倚りかかるのはよくないな。
私が倚りかかっていいものがあるとしたら…。自宅で過ごす休日の昼下がり、突っ伏してうたた寝してしまうダイニングテーブルくらいかな(笑)。
そんなことを思うこのごろです。