心と体のこと
2014年04月13日
天狗おじいさん
また春がやって来てしまいました…。(吐息、笑)
去年のブログ私が苦手だったもの、春で書きましたが、どうにも春が苦手な私です。いい陽気のなか、お客様が晴れやかな表情で来店くださるのを拝見し、春もいいものだなぁと思うようになってきたのですが…。
もともと人でも物でもなににつけ「気」を察知しやすい性質、春が近づくと大気中から、土中から、あたりに満ち満ちてくるエネルギーに圧倒されてしまいます。普段から世の中とズレ感のある私は、ますます置いてきぼり感にさいなまれ、気分が落ち込みがちに。
寒暖の差の激しいこの季節は体調管理も難しく、今年は桜の開花宣言と共に風邪をひいてしまいました。眠いのは薬のせいと思っていたら、治ってもまだ眠い。ただただ眠い。春なのに冬眠したい気分。でも頑張らねば。馴染みのあるこの感覚…。
ああ、やっぱり春は苦手なんだ、と思い至る次第です。
結構気合を入れて書いているこのブログ、気力が続かず、いざ書こうと思ったら、私の不調が移ったのかパソコンがが不具合に(笑)。そんなこんなで間が空いてしまい申し訳ありません。
そんな春を過ごしながら、思い出される記憶が。三年前の出来事です。
随筆家、白洲正子さんの紹介で滋賀の湖北の観音様のことを知り、たびたび足を運んでいたのですが(ブログ観音様のお導き)、湖北のそのまた山奥に民話に出てきそうな宿を見つけ、その春、一人で出かけたのでした。
京都の桜が終わった頃で、冬には雪深いそのあたりは、ちょうど満開の時期でした。といっても京都の喧騒からは考えられないのどかさです。
宿で心づくしのもてなしを受け大満足の翌朝、これを逃すと数時間来ないバスに乗るために早めにバス停で待っていました。すると高齢の男性が近寄ってくるなり、大きな声で「あんた、誰や?」と。
このあたりは住民同士、皆が顔見知りなのでしょう。見かけない顔の私に驚かれたようです。訳を話すも耳が遠い様子、私も大きな声で旅行者であることを伝えました。
納得がいかれたおじいさん、私をしげしげ眺め「このごろのおなごは若々しいのぉ」と。そもそも何歳の設定で話されているのか不明で、私は「いえいえ」と笑ってごまかすばかり(笑)。するとおじいさん、「いいや、あんたは若々しい! それに生き生きしとる!」とますます大きな声で。
三年前の春といえば「しののめ寺町」開店の一年前です。当時「ほぼ専業主婦」だった私は、世のためにも人のためにも役に立っていない自分に不全感を募らせていました。ましてや季節は春、ますます落ち込む気持ちにいたたまれず、一泊ではありますが日常から逃避してきたような次第。褒められることなんて一つもありません。
今度は笑ってごまかす訳にいかず、「いえいえ」と大きく首を振り強く否定しました。するとおじいさん、語気を強め「わしは嘘はつかん、お世辞はよう言わん男や。ホンマ、あんたは生き生きしとる!」と。
胸にドンときました。余計な謙遜はむしろ失礼、当たっていてもいなくてもその言葉をありがたくいただこうと思いました。「ありがとうございます」と素直に礼を言うと、おじいさんは「うんうん」と頷き、「ホンマに生き生きしとる!」とそのあとも何度も繰り返されました。
山あいの静かなバス停、青空を見上げながら、自分が思うより案外生き生きと生きているのかも。模索しているだけであっても、それはそれで懸命に生きているということなのかも。そんなことを考えていました。
先にバスを降りたおじいさんの後姿を見送りながら、ふと、おじいさんは山の天狗だったんじゃないかと思いました。元気のない私を励まそうと人間に姿を変えて山から下りてきてくれたんじゃないか、と。なにやら身に合っていない背広、なにやらかみ合わない会話、高齢の割に軽やかな身のこなし…。駅前でバスを降りた時には、そうに違いないと確信していました。
春が来て、元気を失くすと、あの天狗おじいさんを思い出します。また会いたいなぁ。そうして大きな声で「あんたは生き生きしとる!」と言ってほしいなぁ。
気づけば、京都の街中でも、そんなふうに私を励ましてくださる方に出会えるようになりました。天狗おじいさんはいろいろな場所に、いろいろな姿で現れてくれるようです。
春の気配にも馴染んできたこのごろ、私の調子も戻りつつあります。今年度もよろしくお願いします。